前兆
白くかつみと染め出された古い暖簾を潜って三人が店内に入ると、客席は広い座敷になっている。畳の上には細長い木板が枡形に配置され、食台として機能しているようであった。主な利用客は堺町の労働者であり、彼らは皆好き好きに座敷へと腰を落ち着けて、飲食に興じるのである。黒ずんだ柱だの天井だの、か細い室内灯に照らされた装飾などは、永い時節の波に揉まれて、職工の手指のように磨き込まれていた。高級な印象ではないものの、不潔とも思われない。よく手入れされた店内は、表に洗い晒しの古暖簾を掲げて年来、労務者の日々の煤と黄塵を、慎ましい饗宴に洗い清めて来たのであった。普段ならばこのぐらいの時間には、雇われ人足の一団が座敷に胡坐で一杯やっているところであったが、こうも足元が悪いのでは客足に影響するらしく、軒を借りた渡浪達三人の他、客の姿は見当たらない。摩耶と琴子とは興味深そうに店内に目を遣った。そこへ、店の帳簿台の裏から、割烹着に結髪の妙齢の婦人がこちらへやって来て、
「あらあら、外、凄かったでしょう。ちょっと待ってね……」
一度、三人を見回して調理場へと引き込んでから、手にタオルを三枚持って戻ってきた。三人はそれぞれに礼を言って、タオルを受け取り顔を拭う。背後の戸口からはざんざんと雨の音。どうやら風も強まってきたようである。
「まだ五月も始めっていうのに、まるで台風ね」と女将。
「急に降り出すもんだから、遣り切れない」がしがしと乱雑にタオルで頭を掻き回しながら、渡浪が云う。
「二人は、渡浪さんのお知り合い?」
女将が摩耶と琴子に向き合い、笑いかけた。年は四十絡みであろうか、総体にふっくりとした女性で、器量良しとは云えまいが、人好きのする温順な笑顔は特筆すべき天稟であろう。図りのないおんもらとした所作は、確かにここに飲食する人間の労苦と圭角とを取り除き、清水に磨かれた石のように由来自然の丸みを持った姿へと矯めることだろう。摩耶も幾分か女将の影響を受けたものと見えて、平素の憎まれ口はどこへやら、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「はい。軒をお借りしていたところへ偶然」
御親切に有難う御座いました、と髪を拭ったタオルをどうしたものかと思案していると、女将がにこやかにそれを受け取る。その様子を傍で眺めていた琴子も摩耶に倣い、ありがとうございました、と拙く礼を云って、女将にタオルを手渡した。渡浪はタオルを首に巻いて、
「なんだ、今日は大人しい。意外と人見知りなんだなあ。女将相手じゃ調子も出ないか」
「こら、そんなこと云わないの」女将が窘める。
両者から厳しい視線を受けて、渡浪は大仰に肩を竦めてみせた。そうして、懐をごそごそ弄って巾着袋を取り出すと、中身を見もせず女将にそっくり手渡して、
「魚が食いたいそうだ。なにか適当に見繕ってくれ。これっぱかりないが」
「貴方は何故、そんなところへ物をしまっているのですか」摩耶の言葉にならぬ非難が聞こえるようである。
女将は預かった巾着の中身を検めると、じゃら銭を幾らかつまんで、残りを渡浪に返した。
都心部を中心に需給統制が行われ、国から発行された配給切符が各世帯に配られていた時分である。物品の購入にはこの切符の点数が必要であり、外食であれば外食券が必要になる。それは都心部から隔たった当地でも変わらないことではあったが、山間の村の食糧事情はさほど緊迫したものではない。しかしそれもあくまで都心部に比してそうだというだけのことで、決して潤沢というほどではない。故に都心部に闇市が立つように、当地でも臨検の目を隠れるようにして闇取引は横行していた。実に曖昧な形で村民は寄り合い、物資の交換を行った。闇取引というよりはある種の互助会のようなものとして、レートも様々、対価として供されるものも同等の食糧から金銭、労働力までと色々だった。
さて、食事処『かつみ』であるが、元より高級な店ではない。それにしても三人分の代金には些か心許ない金額であったので、摩耶は気を利かせて幾らかこちらでも用意しようと財布に手を伸ばしかけたのであったが、女将は渡浪に見えぬようそちらには背を向けて、摩耶にぱちりと片目を瞑って見せた。その様子が度外れに飄逸であったので、うっかりと摩耶は失笑するところであった。ここは女二人で、渡浪の男を立ててやろうということらしい。
「お魚といっても今日の分が来ませんからね。大したものは御用意できませんけれど……。あぁ、そうだ。このあたりじゃ外道になるのか知れませんけれど、皆さん泥鰌は食べられるお口?」
「泥鰌結構」とは渡浪。
「柳川でしたら、頂いたこともあります。琴子も平気でしたね?」
「うん。ドジョウ平気」
「あぁ、良かった。他に用意がなかったもので。先日ね、枕沼で捕れたって常連さんが幾らか分けてくださったの。それが仕込んでありますから、柳川とお汁にしましょう、ね」
女将が調理場に引き込もうとすると、泥鰌に余程の思い入れがあるのか、はたまた生簀を覗くの趣味でもあろうか、渡浪は首に渡したタオルをしごきつつ女将の後をずいずいと調理場へと進んだ。
「ちょっと渡浪さん、やめてください。邪魔になりますよ」
「いえいえ。いいんですよ。大概この人は何時もそう」今は他に人も居ないから、と女将は言葉の末を笑いに寛がせた。
調理場の蓋がされた大鉢に、泥鰌はあった。女将が柄鍋や味噌などを用意する間、渡浪は大鉢の蓋を取って泥鰌の様子を窺った。沼で捕れたという泥鰌は、大鉢の底に溜まった生酒に浸されている。見るとまだ活きの良いものがあって、ぷくぷくと泡を立てて生酒の表面に顔を出す。
「泥鰌汁、かば焼き、地獄鍋なんかも捨て難いなァ」
「生憎と今日は豆腐を切らしてますよ」
「そいつは残念。あれで一杯やるのが良いんだが……ん?」
なにに気が付いたものか、渡浪は大鉢に顔を寄せて、頻りに底を覗いている。女将が怪訝にどうかしましたと聞くと、いやなに、こいつ右目が潰れてんだ、と云う。女将が同様に大鉢を覗き込むと、果たして、生酒から顔を出した大振りな一匹の泥鰌の右目が潰れている。
「あら、ほんとうだわ」
しばらく二人が顔を寄せてそれを眺めていると、ぽつぽつ他の数匹がまた顔を覗かせる。不思議なことには、その何れもが大小を問わず一様に右の目に傷を負っている。
「泥鰌の英傑、独眼竜だね。こうも数が多くちゃ仕方ないが。共食いでもしたかな。それともこうすると味が良くなるとか」
「聞いたことありませんよ。呉れた人がわざわざそんなことをする筈もないし、なんだか気味悪いわ」
「なあに、腹に収まっちまえば一緒さ。美味しく作ってくんな」
尚も気味悪そうにする女将を置いて、渡浪が摩耶達の座敷に戻りかけたところへ、暖簾を潜って入って来た者があった。年の頃は十四、五、それよりまだ若いかもしれない。琴子に長ずること数年といったところの少女が、息を切らせてやって来た。
「ごめん! 叔母さん、ちょっと雨宿りさせてっ」
「あら、ヨシちゃん。外大変だったでしょう、流しにタオルあるから、使っていいわよ」調理場から女将が声を掛ける。少女は女将の親族であるらしい。少女は痩せ型であったが、目元などは良く似ているようだ。
ありがとうね、と少女は快活に答える。流しからタオルを掴むと、ごしごしと手早く身体を拭いた。渡浪達一同は座敷に腰を下ろしてそれを眺めていたが、ああっ、と急に少女が大声を上げたのには驚いた。
「遠見先生ですよね、この間はほんとうにありがとうございました!」
摩耶とは面識があるようであったが、それにしても先生とは如何なことか。摩耶は先生はよして、と少女に照れ笑い。凡そ薬師の仕事に関係するのであろうが、
「姉ちゃんの患者さんかね」と渡浪が聞くと、
「そんなところです」との答え。
その後、身体の水気を取ったヨシちゃんこと、天木芳香を一座に加えて歓談の運びとなった。話頭は芳香の云うこの間の事情に及んだが、摩耶の話し振りからすると、薬師の仕事というよりは怪異に関係する事案であったものらしい。
芳香の祖母から、孫に高熱が出たので薬を分けて貰いたいとの依頼があった。摩耶は、早速のこと解熱剤を与えた。ところが、芳香の熱は一向に下がる気色もない。妙な胸騒ぎにもしやと思い、取って返した摩耶が家に駆けつけると、芳香の高熱は病に因するものではなく、往き合いにかかったものと判った。
「往き合いってのはなんだい」
「文字通り、神や妖怪と往き合ってしまうことですよ。これにかかってしまうと、薬も効かない高熱が続き、やがては死に至る。本来なら幼児に多くみられる怪異なのですが、彼女は感受性が強かった為に、これにかかってしまったようです」
神との出会いが障りとなる。一般に日輪様と牛馬との往き合いは大抵死ぬとされている。芳香の場合にはこれに当たらず、駆けつけた摩耶の神上げの儀式に依って一命を取り留めた。
「私ぼんやりとしか覚えてないけど、凄かったんだあ。遠見先生が真っ白な装束を着てね、枕元に立って、不思議な呪文を唱えたら、熱がすっと引いてゆくのが自分でもわかったもの! なんだったかな、往き合いの神は速やかに立ち去り……」
「往き合いの神は此の米に乗りて速やかに彼の地へと戻り給え」摩耶が続ける。
「そうそう! それで確か、お米を撒いたのよね。こう、天井に届く位にぱあっと。そうしたら途端に具合が良くなっちゃった」
良かったわ、と摩耶が微笑む。その様子が余りに無防備に幸福そうであったのに、渡浪は虚を衝かれた。見惚れた、のかもしれない。
「しっかりと社会の役に立ってんだなあ」
「どこかの誰かさんとは違いますからね」
違いねえや、と渡浪が笑う。それを見た琴子は小首を傾げて、
「おじちゃん変な顔してる。なにか、焦ってる?」
「む。そんな顔をしていたか? なに、変な顔なのは元からだ。わっはっは」
そうこうするうち、調理場からは味噌や出汁の香ばしい好い匂いが漂い始める。運ばれた泥鰌料理を前に渡浪は目を輝かせての舌なめずり。同席した芳香が、
「ねえ、遠見先生。蛇除けの薬とかおまじないとかある?」唐突に云う。
「そうね、柑橘類の汁だとか、ナフタレン、煙や金気の物だとか、苦手とするものは多いわよ。用意できなくはないけれど、家に蛇が出るの?」
「うん。婆ちゃんがね、気味悪がっちゃって。私はそんなに気にしてないんだけど。だってその蛇っていうのがね、凄くかわいいのよ。真っ白な蛇でね、そんなに大きくもないし」
「へえ、白蛇ねえ。白い蛇ってのは、幸運を呼ぶんじゃなかったかい、姉ちゃん」
「そうですね。弁財天の使い、もしくは化身として、富を象徴する動物ではあります。一般には家に富を約束する奇瑞として信仰されることも多い。そのままにしておいても害はなさそうですが、蛇の類が苦手とあらば放置もできないでしょうね。近い内に伺って、対処することとしましょう」
しかし、一家にこれほど怪異が集中するものだろうか。摩耶は神上げの儀式の折、ふと感じた違和感を思い出した。儀式にはまるで手応えがなかったのだ。確かに怪異は去った。芳香の高熱は消褪した。されど、芳香に因をなしたところのものは本当に往き合いであったのか。それにしてはすんなりと事が運び過ぎたようにも感じる。最悪のこと、摩耶はその場で姿を顕したものと一戦を交えるつもりであったのだ。或いは藪神の祟りであるかもしれないと判断した為である。ところが、実際には何事も起こりはしなかった。狐につままれたような、霧を掴むような、そんな模糊とした感触を後に残して。そうして現れた白蛇とを結び着けて、大事の運行を見るのは些か飛躍に過ぎると思われたが、全然関係のないこととも思われない。
(兎も角、準備は整えておこう)
「小骨が一杯あるからな、しっかり噛んで喰えよ」
「うん」
そんな摩耶の屈託をよそに、渡浪と琴子とはどんぶりに箸を突き込んで、一心に食している。ともあれ、明日のことは明日考えよう。そう思い切って、摩耶は柳川に取り掛かった。一口を含む。途端に口中に拡がる旨み、幽かな苦味、ぽきぽきと小気味良い小骨の感触、嚥下すると滋味が全身に行き渡るようだ。実に二ヶ月振りに、摩耶は魚を口にしたのである。