私刑の後
動かなくなった主犯格の少年は朋輩の少年たちの手によって階下へ運ばれた。エントランスに準備された錆の浮いたドラム缶に遺骸は押し込められ、それで終いだった。
組織の合法、非合法を問わず歴史上私刑の絶えぬ理由を信吉は思い知った。掟を破れば、次に同じ末路を辿るのは自分自身なのだ。それは暴力と殺意の連鎖だ。怒りと、植え付けられた恐怖が闘争心を焚きつける。一度この連鎖に組み込まれてしまえば、後戻りはできない。
同胞殺しとなった少年たちがよし報復を企てたにしても、青桜会を壊滅させるまで安穏とした日常は帰って来ないだろう。いや、彼らが帰る場所があるかどうか。
ドラム缶に少年の遺骸を詰めたとき、信吉は自分の手がもはや拭えぬまでに汚れてしまったと感じた。両手には殴打の感触がべっとりとこびりつき、少年の叫びは鼓膜に張り付いたまま。憮然として、ズボンの裾に手を擦り付けた。
「さあ、これで決着だ。後は好きにしろと云ってやりたいところだが、折も折だ。そうもいかねえ。劉一家に戻るにしても針の筵だろう。事態の収拾がつくまで、お前らには別の仕事をしてもらう。引率の先生と一緒に、田舎で農作業だ」
島田にそう云われても、気力を失った少年は誰一人抵抗しなかった。信吉の脳裏を市原の言葉が過った。曰く、島田は山陰地方の略売ルートを掴んでいる。今となっては、島田がどのような裏の仕事に手を染めていようとも不思議とは思えない。
抵抗の気力を失った少年たちは諾々と若い衆に連れられて廃ビルを後にした。事実、彼らに帰る場所はない。劉一家に戻ったところで仲間から白眼視されて居を追われるか、然もなくば青桜会との抗争に駆り出されるのがオチだろう。またぞろ同じような私刑を受けないとも限らない。
島田は信吉一人に居残りを命じた。廃ビルには見回りの他、島田と信吉の二人のみ。ドラム缶は何時の間にか無くなっていた。
「島田さん、加代は」
「信吉。お前、劉一家の事務所燃やしてこい」質問には取り合わず、有無を云わせぬ口調だった。
島田が懐から包を放った。拾い上げて開封すると、それは上野近辺の簡略な地図であった。所々に赤ペンで印の入っているのは、劉一家の事務所、及び関連施設。
「どこでもいい、朝方までに片付けてこい。道具は用意してやる」
道はそれしかない、と島田の目が言外に物語っていた。拒否すれば、“肉団子“にされるだろうか。恐らく、島田はそうするだろう。そうしない理由がないからだ。目の前にいる男は加代の叔父ではない。青桜会の島田だ。箍の外れた一匹の狂党だ。
「燃やすのは……」
それでも、信吉は島田に抗した。事務所や、施設を燃やせば被害は劉一家に留まらない。島田にすれば同じことだ。信吉がやらずとも、別の誰かが襲撃するのだろう。目を細めた島田が上着から取り出したのは、進駐軍のコルトだった。信吉の身体は凍り付いた。
「それなら、餓鬼共のケジメをつけてこい。馬鹿息子の貌は覚えてんだろ」
――劉一家の劉源基。舌っ足らずな在日。私刑を逃げ遂せた男。おれを“半ゲソ”と呼んだ男。
青桜会の尖兵となった今、あながち劉の目も節穴ではなかった。おれはまるでヤクザというものを理解していなかった。何処までいっても、ヤクザはヤクザだ。おれは想像の埒外にあるものに望みを賭けていたのだ。犬コロみたいに気まぐれな施しに馴らされていたのだ。これをしも“半ゲソ“と呼ばずしてなんだろう。
加代は、おれの短絡の為に死んだのだ。あの日、加代を一人で帰していなかったら。或いは拉致されて暴行されることはなかったかもしれない。或いは、おれが劉一家に因縁を作らずにいたのなら……。
幾ら悔いても、時は戻らない。信吉は、覚えていると頷いた。
それから、島田の拳銃の講義が始まった。手渡されたコルトを手に、瓦礫に置かれた空缶を標的にして練習を繰り返した。
「安全装置は外したな。いいか、銃身の先に付いてる突起が照星だ。手前側に付いてる突起が照門。照門から照星を覗くようにして撃つんだ。標的と直線になるように構えろ」
実包の込められた拳銃はずしりと重たく、何度か予備動作を繰り返しただけで腕の先に痺れがあった。トリガーに指を掛け、戻す。実際に発砲はしない。
「弾丸を射出すると、銃は反動で跳ね上がる。銃把を握った手を前方に押し出すようにしろ。被せたもう一方の手は身体に引き付けるように。これで均衡が取れる」
構えを矯正しながら、心に引き金を弾く。
講義が済むと、島田は煙草に火を点けた。焦点の合わない、遠い目をしていた。信吉はここで島田を撃ち殺したらどうなるだろうかと考えた。無防備な片腕の男を銃殺するのは容易とも思われたが、すぐさま見回りの若い衆に取り囲まれてあの世行きだろう。被りを振って、雑念を払い除けた。
「島田さん。劉をやりに行く前に、加代に会わせてくれないか」
「加代は、もういない」
「それは、どういう」
「父方の郷里に移送した。縁故のある人物に預けたんだ。葬式はそっちで段取りを組んで貰う」
こっちもどうなるか、わからねえからな。吐き出された紫煙が二人の間を漂った。島田の頬桁には痣が出来ていた。
「加代の兄貴にな」云って、煙草の包装から一本を取り出して信吉に手渡した。
マッチで火を点けて、煙を肺一杯に吸い込んだ。酒より即効性の酩酊感に信吉は眩暈した。
「本隊は翌午前三時にここを出る」
短くなった煙草を投げ捨てて、島田は廃ビルを出ていった。煙草の火口を眺めながら、信吉はこれからしなければならない幾つかの事柄を確認した。そのどれひとつとして意に沿うものはない。しなければならないことは、いつもそうだった。そうしなければ、生きられない。
最後の一服を吐き出して煙草を投げ捨てると、信吉は廃ビルを後にした。表は陽が落ちかかっている。
不意打ちのように、先日の加代との会話が蘇った。人も街もみんな良くなってゆく。そう信じて疑わなかった彼女の、向日性の笑顔が脳裏に浮かんだ。
そんな加代が死んでしまった。菩薩と見えた彼女は少年たちに手当たり次第に凌辱され、帰らぬ人となってしまった。
こんな、馬鹿なことがあっていいのか。こんな理不尽がどうして許されるのか。加代も瀬尾も、抗うだけの力がなかったから死んだのか。弱かったから死んだというのか。
違う。そうではない。弱い奴から死んでゆく、これは誤りだ。彼らは決して弱い訳ではなかった。彼らは脆弱ではあったかもしれない。けれども、依って立つ正義を有っていた。頭の先から爪先まで、自分を貫く信念を有っていた。それに比すれば、おれは腕っ節が強いだけの、正しくないだけの人間だ。
信吉の瞑った目頭はかっと熱くなった。
遣り場のない怒りに歯噛みする。どこか地の奥底で黒い獣が叫んでいる。餓えた身体を震わせ、空を割らんばかりに牙を剥いて叫んでいる。この理不尽に総身の毛を逆立てて、泣きながら叫んでいるのだった。