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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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壺中天菩薩


 島田と守屋が事務所で談話する半時程前のこと。信吉はマーケットの埃っぽい雑踏に身を紛らわせていた。事務所に一人、島田を待つのは辛かった。荷受けの失態をどう申し開きしたものか、頭を噴いて出そうな考え事から逃れようと市の喧騒に身を投げ入れた信吉であった。


 ところが、闇市のガチャガチャ響く足音や酔漢ががなり立てる軍歌は些かも心中を慰めることはなく、クサクサとした思弁を猛烈な頭痛が打ち凝らして、砕氷のような苛立ちが募るばかりだった。


 例えば、信吉は市原テツと自分を比較した。市原はきっと、自分より組に向いた人間なのだ。あいつは、少なくとも肝心要の時に我を失ってしくじりをやるような人間ではない。沈着で冷静で、強かな男だ。それに比べておれはどうだ。おれは浮浪児ですらない。ましてや、ヤクザでも香具師でもない。惨めなチンピラに過ぎないではないか。


 頭に包帯を巻いて俯き歩く信吉に、誰もが怪訝な目を向けた。誰かが信吉の頭に巻いた新品の包帯に手を伸ばそうとして、同行人に引き留められた。こんな物までが商売の種になる時世である。弱い者と見れば見境なく略奪する者がある。自分とて、形振り構わぬ部類である。信吉が胡乱な目を差し向けると、件の男たちはひらひらと手を振ってあっと言う間に人波に消えてしまった。名は売れていなくとも、貌は売れている信吉である。忸怩たる思いで、鉄板焼きの露店に入った。


 そこはヨシズを回しただけの露店とは趣が異なった。一応は柱が立ち、トントン葺きの簡素な屋根の付いた店である。信吉が働くお好み焼き屋と同様、青桜会の息がかかったマーケットのなかでも取り分け最初期から島田のお気に入りの店舗だった。鉤型に回したカウンターは上手くすれば十人からが捌けたし、奥手にはパチンコ台が一機ある。既にカウンターは満員であったが、入れ替わりに三人が上機嫌に立ち去った。


「……信吉か」


 年老いた店主は顎で席を指した。当然のこと、店主は青桜会の古株といって良い人物であった。僅かに目礼して、信吉は席に着いた。こんなところにいて、ばったり島田にでも出くわしたら事ではあったが、半ば破れかぶれの信吉だった。店主が酒を勧めたが、


「バクダンはやらない主義なんだ」と、こればかりは断った。


 様子のおかしい信吉を詮索するでもなく、店主は黙々と注文の品を鉄板に上げる。得体の知れない肴の塊と、同じく餅の形をしたなにかが、じゅうじゅうと煙を吐いた。


「儲かっているね」嬌声を上げながら猛烈な勢いで鉄板焼きを喰っている客を見渡して、信吉が云った。


「そうでもない。この間の摘発でぱっくりいかれちまった。あちらさんは御目溢しで、商売あがったりだよ」


「劉んとこか。うまいことやりやがる」


 青桜会が牛耳るマーケットではあったが、劉一家の縄張りは筋一つを隔てて隣接していた。とりわけこの鉄板屋のある付近は両者の縄張りがぶっちがいに交差している為に、いざこざが絶えないのであった。島田が山陰地方の担ぎ屋を動員して鉄板屋を始めれば、直ぐに劉一家はホルモン焼き屋なるものを開業した。


 ホルモンとは是、動物の臓物である。品川の屠殺場にパイプを持っていた劉一家はこれに目を付けた。豚だの牛の臓物を食わせるとは、なんたることかと侮蔑の目を以って迎えられたホルモン屋は、しかして爆発的な人気を博した。


 元来、肉を食う習慣のない日本人にとって、食卓に上る肉料理と云えば誰もが連想するようにすき焼きだのが精々で、これも下流の家庭となれば口にすることも稀であった。まして、臓物となると食部としては認められないものであり、多くが廃棄処分となっていた。劉一家はこれを只同然で手に入れ、日本人好みの味付けを施して露店に流したのである。


 誰が獣の臓物など喰うものか、と忌避していたものの、ゴミを煮て食う時世となれば背に腹は代えられぬ。ままよと喰ってみれば、これが予想に反して滅法美味かった。シロ、ハツ、レバー。鉄板にぱちぱちと油の弾けるモツを一口喰えば、ガツンと舌の痺れる珍味佳肴、それを甘酸っぱいマッコリで流し込むのが堪らない。おまけに安いとくれば、動物性蛋白に餓えていた日本人の胃袋を掴むのは造作もないことであった。


 爾来、追い付け追い越せでやって来た次第であるが、この頃新型マーケット設立の運動が活発化するにつれて闇市の摘発が相次ぐようになると、方々から苦情の声が上がった。どうにも警察の手入れは解放国民たる朝鮮人に対しては手緩いのではないかとの旨。これはやっかみもいいところだが、警察が地主と結託の上、テキヤの追い出しにかかっていることは明白であった。


「おれは死んでもモツなんざ商わないけどな」


 モツを喰ったら土人にでもなるかの口振りだな、と信吉は心中に溢した。鉄板焼きを喰い終わると、追加で十円を払って、パチンコの玉を買った。一発一円の銀玉である。盤上に三百幾らの釘が打たれた台には受け口が二十五あり、上段から三、二、一といった具合に投げ入れた際に排出される出玉が決まっている。


 カウンターに背を向けてパチンコの発条を弾く信吉の後姿を、店主はまじまじと見つめた。がちゃり。チン、チン、チリリ。やがて、


「新型マーケット、島田さんも一枚噛む腹積もりだろう。幾らなんだろうな、権利金」


「そんなこと」云い差して、信吉は最後の一発をピストンに押し込んで、弾き出した。


 金属球はあちこちにぶっつかりながら、釘の目を右往左往しつつ落下した。最下段の受け口に落着すると、取り出し口からころりと一発の金属球が排出される。それをポケットに仕舞いながら、信吉は店主に振り向いた。


「おれが知る訳ないだろ」苦虫を嚙み潰したような貌で口にした。


 急にどたどたと店に駆け寄る者があった。若い男である。カウンターを引き倒しそうな勢いで走り寄ると、


「摘発だ! 直ぐ来る」と云い残して走り去った。


 店内は一瞬で色めき立った。出された料理を大慌てで口に押し込み、料金をカウンターに叩き付ける者、これ幸いと我先に店を駆け出す者、あちこちに視線を彷徨わせるばかりの者。これを構いつけて居られる店主ではない。台所から背嚢を取り出すと、信吉へ向かって有無を云わせず投げつけた。


「おいっ、これ」なんとか背嚢を受け取ると、ずしりと目方がある。


同様の背嚢を二つ抱えた店主は裏手の薄い板戸をぶち破ると、一目散に駆け出した。慌てて後に続く信吉が、息を切らせながら中身を尋ねれば、


「牛だ」とだけ返って来る。


「これ全部か? 幾ら何でも欲張り過ぎだ。一日二日じゃ捌けねえぞ」


「そうも云ってられない事情がある。こりゃ、劉んとこの牛だからな」


 軽快に路地裏を駆ける店主に遅れじと奮闘する信吉の背後に、警察車両の黄色い光芒が見え隠れする。抱え上げた背嚢をぽんぽんと弾ませながら遁走するうち、どうにも我慢ならない笑いが信吉の腹からこみ上げてきた。


「密殺したのか、あんた! 劉んとこの牛」


 それには店主は答えず、背嚢を両脇に手挟んで馬鹿に真面目くさった貌付きで疾走した。陸上選手のように丹精なフォームである。信吉は笑った。こんなにも爽快な気分になったのは久しぶりのことだった。もう、思い出せないくらいに遠い昔のこと。それが、後から後から湧いて出て、涙が滲む程だった。


 二人はどうにか警察の手を逃れて、寛永寺裏の森で二手に分かれた。密殺した牛の一部は信吉の預かりとなった。喰っちまうぜとおどける信吉に、店主はちっとだけなら構やしねえと答えると件の端正なフォームで颯爽と立ち去ってしまった。取り残されて、これからどうしようかと思案したが、行く当てなど一つきりしかない信吉である。


 ギンコの部屋に戻って少しすると、夜もたけなわというのに家主が帰宅した。二階に寝転んだ信吉を見て、ギンコは目を剥いた。


「おう。随分はやいな、ギンコ」


「ああ、今日は引けさ。警察の手入れがあってね。場が白けちまった。そんなことよりあんた、どうしたのその頭」


 首に巻いた黄色いショールを振りまいてギンコが云った。信吉には心配気な素振りを見せもしないギンコがなにやら有難いようでもあった。


「名誉の負傷ってやつさ。組の仕事でさ、荷受けに行ったんだ」


「馬鹿だねえ。無茶しなさんなよ」云って、ショールを信吉の貌に放った。


 上等の絹地を払いのけて起き上がると、信吉は鉄板焼き屋の店主から預かった背嚢から紙に包まれた牛肉を取り出した。


「ほれ、土産」


「なにさ、これは。まさか荷受けの品じゃないだろうな」


「それとは別口だよ。警察の手入れがあったって云ってたろ。おれも偶然その場に居合わせたんだ。これは鉄板焼きの親父から預かってね」


「んじゃ、喰っちまう訳にゃいかんじゃないか」


「そこは親父もちょっとは融通するさ。なにも全部喰っちまおうってんじゃないんだから。少しばかり頂く分には問題ないって、了承を得ているしな」


 密殺した牛肉という事実を秘しておけば、只に上等な肉である。一時預かりの駄賃としては望むべくもない一品だろう。そう聞いては興味の湧くギンコである。ずしりと重い紙包みを開けると、目を輝かせた。


「サシの入った牛肉じゃねえか」


「ステーキにカストリと洒落込もうぜ」


 ぺしりと、ギンコは信吉の額を叩いて立ち上がった。


「阿呆たれ。頭痛くなるぞ。ちょっと待ってろ、水枕取って来てやる」


 ギンコがつっかけで玄関を出て行くと、直ぐに裏手の井戸から水を汲む音が聞かれた。どことなく、懐かしい音だと信吉は目を細めた。戻って来たギンコがそらよ、と信吉の頭に水枕を乗せる。氷の用意がなかったが、井戸水は十分冷たかった。ひんやりと、蟠った熱が解されてゆく。


「帰るところがあるってさ、いいもんだな」大の字に寝そべって、天井を見上げながらしみじみと信吉は云った。


「なにさ、改まって」横へ座ったギンコが貌を覗き込む。


「当たり前のことって、ありがたいもんなんだ」


 和らいで、険がとれた信吉の貌は年相応の少年の貌付きをしていた。これも、当たり前のことだ。ふっ、と微笑を点じてから、神妙にギンコは頷いた。


「そうだよ。なかなかないんだ、あって当たり前のものなんて」


 仰ぎ見るギンコの横顔が、信吉の目に菩薩と見えた。昔、父の書斎で見た絵巻物の菩薩。その穏やかで艶冶な姿に、狐目のギンコが束の間重なって見えた。しかし、それも一瞬の幻影であった。


 菩薩は、自在に彼岸と此岸を往還するものらしい。菩薩は悩める者の前に別様の姿を採って顕つ。菩薩の貌を、信吉は加代に観た。島田に観た。ギンコに観た。一瞬の宿りは今は天へと還ったものだろうか。それとも、あの日書斎で見た、絵巻物に戻ってしまったのだろうか。炎に巻かれ、灰と変じた古びた絵巻物に。


(やったらだめだよ、やったら……。それをやっちゃあ、おしまいだよ)


 荷受けの争闘の折、懐中の暗器で劉の兵隊を打ち据えると、信吉の頭蓋には瀬尾の声が響いたのだった。腺病質に青く澄んだ目をした聖者。輪転する菩薩の貌は、最も瀬尾に似た。









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