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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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略奪急行 三


 外回りから事務所に帰り着くと、島田はストローハットを放り投げて紫檀のデスクに腰掛けた。同道した守屋がソファに尻を落ち着けると、どこから準備したものか、洋酒のグラスを差し出した。つんと鼻先を突く香気は、混ぜ物のない純正品の証拠だ。


「上等のスコッチだぞ」


 守屋は首を振って、勧められた酒を辞退した。


「そうか。今日は面倒を掛けたな、守屋」


「面倒ということはない。飯を食わせて貰っているんだから当然のことだ。唯、少しばかり拙いことになったな」


「劉んとこの倅か」云って、島田は煙草に火を点ける。


「ああ。まさかとは思うけれど、信吉を向こうに差し出したりなんてことは」


「馬鹿云え。半素人に、んなこたさせねえよ。別にこっちでもどうこうしやしねえ。餓鬼同士の喧嘩だろうが。荷が無事なら結構。お前らが気を揉むことはねえんだ。どっちみち劉んとこの売人一人やっちまってる時点で止めらんねえ。こっちも数人やられてる手前、これ以上(アヤ)をつけてくるようなら、容赦はしねえ。餓鬼の喧嘩をダシに因縁付けて来るほど間抜けとも思わねえが、そうなりゃそれで話が早い。この際、はっきりと埒を明けるのも悪かねえ」


 マーケットは準戦時体制下にある。どこで火が付くかわからない一触即発の現在、島田の云うように問題は信吉の喧嘩に留まらない。要は遅いか早いか、どちらが始めるかの違いでしかなかった。それが為に気を揉む守屋に、少なくとも表面上は鷹揚に構えてみせる島田であった。


「そうか。それで安心した。どうにも、信吉にはこういったことは向かないように思うんだ。なんとか云い含めて、稼業からは距離を置くようにしたらいい……」


「随分な気に入りようじゃねえか。しかしな、そりゃ信吉に失礼ってもんだ。幾ら子供だって云っても、男が自分で決めたもんを今更引っ込める訳にもいかないだろう。こっちだって、やりたくない者に無理強いしている訳じゃないんだ。お互い納得尽くなんだよ。まさかお前まで加代みてえに道義心だの博愛精神だのと、喧しいことを云うんじゃないだろう」


「僕は道義を説くんじゃないよ。信吉が子供だということも、要点じゃない。軍功の帰趨は分明にすべきだという話をしているんだ。信吉をこのままに宙ぶらりんな立ち位置のまま便利に使うのは、道義は元より筋の通らない話じゃないか」


「なるほどな。それは確かにそうだ。それなりの成果がありゃ、ハンチョウフとは云わねえ、正式に取り立ててやるさ。しかしな、翻って先の荷受けという話になる。荷は無事だが、面倒事もしっかりこさえていった。差し引き零の勘定だな」


「ああ、だからそれを直接信吉に云ってやって欲しい。成果に見合う報酬を約束してやって欲しいんだ」


「そりゃ難しい注文だ。商売もそうだが、精神的な先払いなんてものはないんだよ。そんなものが罷り通る擬制の元に、信吉が望むだけの位置を用意してやるというのは、これは道義は元より筋の通らない話なんじゃねえか?」


「それは、搾取の間違いじゃないのか。……まあいい。思ったより意地の悪い男みたいだな、君は」


「光栄だね。むしろ、おれはお前が思ったより精神論的なのに意外だよ」島田はそう云って、吸い差しを灰皿に押し付けると、含み笑いをしつつ盛大に鼻から煙を吹いた。


「とにかく頭の隅にでも留めて置いてくれたらいい」


 信吉の話が落着したところで、二人は沈黙した。事務所には時折、島田の酒を注ぐ音ばかりがとくとくと木霊した。守屋はいつものように置物か人形のように薄目を閉じてまんじりともしない。不図、島田は無くした片腕に注がれる守屋の視線に気が付いた。


「どうした、片腕がそんなに珍しいか」


「いや、すまない」守屋は口籠ったが、目を逸らしはしなかった。


「別に気にしやしねえさ」


「先の戦争で?」


「南方でドカン、だ。早々に内地送還だよ。第一師団はレイテでほぼ全滅だ、おれなんぞは運のいい方さ。お前さんは。配属と任地はどこだ」


「僕は兵役に就いたことはないよ」


「なんだ、学生だったか。思ったより若いのか? まあ、内地で結構だ」


「さして結構でもなかったさ。兵隊より、もっと汚い仕事をしていた」


「ふう、ん。そうか」


 兵隊より薄汚い仕事があろうとは島田には考えも付かなかった。しかし、尋常な人間が手負いで行倒れることもあるまい。何れ刃傷を受くる修羅に違いない。島田の用心棒を務めるようになって、頻発する争闘の折々に瞥見する守屋の格闘術が、それをなにより雄弁に物語っている。軍隊仕込みの格闘術とは毛色の異なるそれは、さはされど人体の効率良い破壊を目的としたものだ。道場仕込みの上品な代物でないことは明らかであった。恐らくは死地に於いて磨かれたものであろう。


 島田は、武侠を好む。侠客の慮外者としての性格の他、いみじくもそれは彼一個の思想を端的に現していた。すなわち、行動への信仰である。島田にとって、思想とは行動の謂いであり、行動を伴わない思想はなべて薄弱な空理空論と映るのであった。そこで、守屋の鍛えられ、練り上げられた武辺を島田は歓迎した。守屋の皮膚、筋肉には対外的な威力と行動への信頼が込められている。ここに、彼の思想と皮膚とは同等なのである。よし守屋の内実にどのような思想が芽ぐんでいようとも、そこに然程の懸隔はないだろうと島田は観じていた。


 信吉が『青桜会』の仕事に拘泥するのも、或いはこうした行動の希求、共鳴の故であっただろう。しかしながら少年のそれは目的を欠いたものであって、守屋が危ぶむのはそこであった。一方で、島田には少年の欠点は僅かな瑕疵でしかなかった。どのように行動するか、何の為に行動するかは島田にとっては必ずしも重要ではない。よしそれが自覚の伴わない行為であったとしても、全ての行動は現実に対する抵抗に他ならない。知性的な注釈や理解は追っ付けやって来るもので、またそうであるようにしかならないというのが、島田一流の理念と云えば理念であった。


 つまるところ、愚図愚図しないで動けの伝で、これがまるで考えもなしに島田の骨身に染み付いた処世術というのでもあるまいが、歩兵聯隊式の遣り口にはどこか奥歯に物が挟まったような心地のする守屋である。


「しかしまあ、馬鹿みてえじゃねえか」


 不意に島田が脈絡もないことを云いだしたのは、酒精の髄まで回った為であろう。例の塩辛声で、喉奥から絞り出すようにそう云った。


「馬鹿ってなにが」


「生活。生活だよ。躁狂じみた闘争の挙句にやって来た、この生活、この自由だ。世界中から無用者を集めてドカスカ殺し合いをした末に辿り着いた、この糞溜めだよ」


「随分、厭世的なことを云うじゃないか」


「厭戦気分の次は厭世気分ってところだろ。おれが戦争を通じてよく知ったことは、戦争と平和とはまったく同じ生活の裏表だってことだけだ。守屋、お前、特攻隊をどう観る」


「さあ、どうだろう。僕には彼らの気持ちはわからない」


「神風は愛国精神なんかじゃねえ。要するに奴らはこの生活を見切ったんだ。つまりはそういうことだろう。そうしておれたちはヤリソコナッタんだ」


 それにはなんとも応えられず、守屋は口を噤んだ。島田の舌は俄かに回り始めた。恐らくこんな益体もない心情の披歴を、素面の島田は肯んじないことだろう。強力な酒と、守屋の異邦人としての性格が彼の舌を柔軟にした。


「――皇国の歴史は終わった。少なくとも、民族史に於けるそれはな。米さんが新たな心棒を挿入して、枠組みが変わったんだ。我が邦の自由国民は有難くも人間主義の聖体を賜り、日々営々として経済活動に勤しむ由」


「つまり左派に転向したという話か」


「恥知らずにもな。しかし、恥の多い人生なんてものはねえ。土台、生活というものが恥より他のものではないからだ」


「至言だな。それでどうする。政治家先生とがっぷり四つか」


「それも手段のひとつだ。ヤリソコナッタ連中を集めて、新たな枠組みのなかで戦争をやんだよ。政府の番犬、御用聞きにいつまでも甘んじている訳にはいかねえ。兎に角、金だ」


 確かにそれも、ひとつの正義だろう。時代の要請に適ってもいるだろう。


「女体市場は失敗だったな。献金先を間違えた」


「なんだ、耳聡いな。知っていたのか」


 というのは、先の保守党議員暗殺の件であった。女体市場に隠然とした影響力を持つ人物が、愛人諸共凶刃に倒れるというニュースは、界隈の事情に敏い者でなくとも一度は耳にしたことだろう。それは事件の異常性からして世間の耳目を集めるに充分であった。


 議員は五体をバラバラに切り裂かれ、傍には笑みを浮かべた女の生首ひとつ。この奇怪な猟奇事件は始めこそ凶党の仕業と目されていたが、議員の性向が明るみに出るにつれ、世論は反勢力及びシンパの犯行であるとの見解に傾き始めていた。下手人は目下捜索中とのことで、当局は事態の背景を掴み兼ねている。『青桜会』にも当然のこと捜査の手は入ったが、献金と云うも表向きは娼婦の福祉向上を図る慈善的支援の名目を取っていたから、大事には至らなかった。割合に金額が少額であったことと、身内に下手人と目される人物のないことが『青桜会』を事態の中心からやや遠方に位置付けていた。同影相打つの形にはなってしまったが、


「見当が付かなくもねえが、今回は痛み分けってところだな。まあ、他にも道はあるさ」と、島田は淡泊に云い切った。案外、他の道というのが本命であるのかもしれなかった。


「あんまり無茶な真似はしないでくれよ」


「なあに、いざとなりゃあこれでいく」


 島田はそう云って、デスクの引き出しから真鍮色の拳銃を取り出して、左腕にくるくると弄び、実包の込められていない銃口を守屋の足元へ向けた。兵器の鑑定眼を有たない守屋には型式とて判別できなかったが、いやにピカピカと光るその回転式拳銃は古めかしい玩具の銃のようだった。


「これでオリンピック級だ。利き腕の無いのが惜しまれるぜ」


「死にたがりばかりでうんざりする」心底うんざりという様子で守屋が漏らす。


 武装路線だけは勘弁願いたいと、食客の守屋が苦言を呈するも、島田は取り合わず愉快そうに笑うばかりだった。ざらついた哄笑に、やはりこいつも躁狂の部類には違いないと守屋をして思わずにはいられなかった。躁か鈍か。これ以外に戦争がなにを生育するだろう。あるとすれば生活と云う虚無であろうが、そんなものは戦争があろうがあるまいが、その辺に当たり前に転がっているものだ。その点、戦争と平和とはひとつの裏表だという島田の言に、やはり当たり前の真実を確認する守屋であった。サイドテーブルに置かれたままであったグラスに手を伸ばすと、守屋は中身を一息に呷った。


 強烈な香気と酒精が喉を焼いて流れ落ちる。やはりこれも、ひとつの生活の味わいだろう。やがて胃の腑に落着する生活の一滴。漠とした罪悪感と焦燥感は時代の精神に違いない。心棒の無い、本尊の無い、伽藍の堂。あらゆる擬制を許さぬ赤裸の実感と共に、日本は戦争に負けたのだな、と守屋は改めて酷く冷めた面持ちで確認をした。








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