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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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略奪急行 二


 信吉の目的の人物は、闇市の一隅に在った。『ガシャボコ』の市原テツ。不良児たちの間ではなんでもやると評判の男だった。異名の通りに駐留兵の車上荒らしを得意としていたが、器用に駐留兵に取り入ってPXから軍用品の横流しも行っている。特定の組織に所属せず、取り巻きに指図しながら綱渡りの渡世を送る胆力を、信吉は買った。瀬尾が発狂した折、唯一、犬の肉を食った男である。


「お前、今は『青桜会』の島田のところにいるんだったか。あそこも最近じゃ大分キナ臭いな。方々に手を伸ばしてるみたいだが、景気の好い話は聞かねえ」


 市原はモツ焼き屋の板壁に背を預けると、奇妙なパッケージから煙草を振り出して、軍用ライターで火を点けた。ヤクザの製造したシケモクだろう。紫煙をぽっぽと吐き出しながら、どことなく気乗りしない風だった。


「そういうお前はまだ一人で頑張ってんのか」


「一人でやるのがいいさ。GIはいいぞ。後腐れがないからな」


 信吉は市原の超然とした態度に苛立ちを覚えた。同時に、仁義や義侠心の欠片もないこの男は、使い潰しの利く便利な人物でもあった。子飼いの不良児も向こう見ずな人間ばかりだ。一面、そうした明日をも知れぬ不良児に憧憬を抱くことがある信吉であったが、こと市原に関しては云い様のない不快を感じるのはどうしたことだろうか。


 市原には米兵に対する怨念の他、なにひとつとして遺されていないのだ。彼は誰も信じていない。何物も信じてはいないのだった。腹の内に煮凝りのような鬱憤を溜め込んだ男。情念の従僕となって、周到に生き急ぐ哀れな犬。信吉は彼をそう断じた。しかしながら、信吉を見つめる市原の視線こそは、正に犬を眺めるような哀れな視線であった。


 こんな目を、どこかで見た気がする。信吉はすぐさま思い至った。自分の背後に突っ立った女のような男、守屋の目と同質のものなのだ。実に、実に厭な目だ。


「それで、受けてくれるのか、くれないのか」信吉は判断を迫った。


「別に。受けるさ。大した仕事でもない。『青桜会』だろうが『桜花団』だろうが、構やしねえんだから。人足は然程必要でもないんだろ、兄さん」市原が守屋に念押しする。


「荷は行李で五つの予定だ。僕らを含めれば、後は二人もいれば十分だろうね」


「了解だ。足の速いのに声を掛けておく」


 吸い差しを指で弾くと、市原は身を起こした。守屋の仕切りで、部隊は二手に分かれることとなった。信吉と守屋の班と、市原の班だ。荷は電車の車窓から投下される手筈になっている。付近に合流点を設け、線路沿いを遡行、荷を回収する。最後に報酬の件であったが、現金と食料品とどちらが良いかと守屋が聞くに、市原は食料品だと即答した。


 アーケードの入り口で市原に分かれ、合流地点へと向かう。しばらく歩いたところで、守屋が口を開いた。


「そのままで聞いてくれ。後を尾けられているみたいだ」


 思わず振り返りそうになるのを堪えて、信吉は目頭で先を促した。


「実は市原君に会う前から尾けられていたんだけど」


「何人だ?」


「一人増えて、五人。いや、六人かな。年恰好は市原君くらいの連中だ」


 するとそれなりの年長者ということになる。一体どこの誰が尾行しているのか。信吉は可能性を数え上げてみたが、それらしい目星は付かなかった。問題は、市原との会話を聞かれていたか否かだ。先回りされて荷を奪取されようものなら、島田に合わせる貌がない。


「話、聞かれたかな」


「余程の地獄耳でもなけりゃ大丈夫だろう。場所が特定されたなら、何時までも僕らの尻を追い回すことはないんだからね」


 信吉は懐中に拳を強く握り締めて、先を急いだ。傍らを守屋が悠然と進む。こうも人目を引く標識があるのだから、向こうがこちらを見失う懸念はないだろう。背後に追跡者の圧触を感じながら、信吉は短く舌打ちをした。


 合流地点の野原には、早くも暮色が漂い始めていた。丘に線路を望む位置に、遅れてやって来た市原以下三人の不良児が参集した。


「こりゃ貧乏籤を引いたな」市原が皮肉交じりに苦笑した。


 追跡者たちは今や姿を隠そうともせず、付近の草叢に一団となってこちらの様子を窺っていた。


「悪い、気付いてはいたんだけどな。巻けなかった」


「やれやれ。こちらも信用がねえな」


 市原たちに荷の回収を任せる気にはなれなかった信吉だった。彼らはあくまで部外者だ。


「知らない貌ばかりだが。いや、一人いるな」追跡者を見渡して、市原が云う。


「どれだ」


「あの、一番体格が良い奴だ。大谷っていうんだが、そりゃ通名でな。本名は劉源基って在日だ。関わると面倒だぜ、信吉。荷を置いて逃げちまうのも手だ」


「馬鹿云え。兄御にどう申し開きするってんだ」と、信吉は鼻白んだ。


「その兄御に申し開きできなくなるかもしれないってのによ。まあ、お前がやるってんなら、構わないけどさ」


 追跡者の一団に睨みを利かせていると、俄かに線路が振動した。電車は瞬く間に野原を通過する。擦れ違いざま、車窓から次々と行李が投下された。


「来たぞ!」


 信吉が叫ぶなり、不良児たちは行李に殺到した。投下位置は程近い。行李は限界まで膨れて、野原を転がった。信吉が遅れじと駆け寄り、荷を手にしたときには、追跡者たちは群狼の素早さで辺りを囲繞していた。ざっと草叢を風が薙ぎ、電車の走行音が小さくなってゆく。幾多の視線が錯綜した。開戦の緊張に震える空気を破ったのは、追跡者たちの頭目。


「おれは『劉一家』の」


「劉源基だろ。それ以上は要らねえよ。お前らに切る仁義はねえ」居合の威勢で、信吉は云い放った。


 劉の口元が酷薄に歪んだ。勇んだ取り巻きが今にも襲い掛かろうというのを片手でやんわりと制して、


「連れないことを云うな。おれもお前は良く知ってる」


 僅かに訛りのある流暢な日本語で劉は云った。二世か三世かは知らないが、日本人と遜色はない。訛りと感じるのは、彼が舌足らずな為だろう。彼は噛んで含めるように、続けてゆっくりと発語した。


「『青桜会』の島田には私兵がある。勝手良く使える子供が幾らでもいる。誰でも知ってる噂だよ。ところで、俺たちはお前らのような似非じゃない。本物の家族だ」


「よそ様の荷物を横取りすんのが生業の、『ハイエナ一家』の間違いじゃねえか?」信吉が負けじと毒を吐く。


 一瞬、目玉を大きく見開いて、劉は哄笑した。なにが面白いのか、彼の取り巻きも声を荒げて笑い響もした。骨の軋むほど強く、信吉は拳を握り締めた。


「市もおれたちが始めたものだ。後からやってきて我が物貌に収奪するのは、そちらの得意だよ。一体どちらがハイエナか。そうは思わないか、『半ゲソの信吉』クン」劉は猛悪らしく云い捨てた。


「市原ァ!!」信吉の怒号が上がった。


「あいよ」


 間髪入れず荷物を後方に投げ捨てると、二人は包囲の一角へと突撃した。追跡者の一人へ肉薄すると、市原は突進の勢いそのままに前蹴りを見舞った。吹き飛んだ相手に一瞥を呉れて、別の少年に向き直り、両拳を叩き込む。


 疾走する信吉は懐に手を入れると、やおら右手を中空に薙いだ。びゅるん、と風切りの音が一度。離れた追跡者の口元から、鮮血が重吹く。


「やり過ぎだ、信吉」後方で事態の推移を見ていた守屋が声を荒げた。


 興奮に赤く濁った目をして、信吉はさながら悪鬼の様相で気を吐いた。彼の右手から、じゃらりと垂れ下がる鉄の鎖。紐にナットや金属片を通した、手製の凶器だった。地を転げ、啼泣する追跡者を見下ろすと、信吉は手中の鉄鎖を扱き上げた。絡み付いた肉片から、流れ落ちる血の一滴。


 みんな死んでしまえ。おれもお前も、なにもかも。


 脳髄を走り抜けるキックバックに、信吉は前後不覚に陥った。四肢の末端から、凍り付いてゆくようだった。


 一拍の間、辺りは静まった。自失した信吉の頭部を、側面から襲撃した追跡者が角材で殴打するのと、青筋を立てた劉が、懐の短ドスを抜くのは同時だった。市原が短く声を上げたときには、刃を逆立てた劉が、崩れ落ちる信吉に突き掛ろうとしていた。


 赤く白く、明滅する信吉の視界に、ひらと金糸が舞った。


 両者の間に滑り込んだ守屋の脚部が、地を噛む。突き出された劉の腕に、蛇のように守屋の左手が絡み付いた。短ドスは守屋の腰元へと軌道を逸らされ、態勢の崩れた劉の鳩尾へ、天を衝くかの掌底打。空気と共に胃液を吐いて、劉は地に伏した。


「子供の喧嘩に、こんなものを使うんじゃない」


 奪い取った短ドスを手に守屋が睨みを利かせると、『劉一家』の面々は気絶した劉を置いて、三々五々逃げ帰っていった。歩み寄った市原が、口笛を吹いて賞嘆した。


「普通じゃないとは思ってたけど。合気道かなんか?」


「拙い遊芸だよ。昔、知人に教わったんだ。それより、信吉だ」


 市原が頭から血を流して大の字になっている信吉を診た。頭部からの出血は程度に比して過大なものだ。裂傷は大きくない。脳震盪でも起こしているのだろう。


「あちゃあ、伸びちまってる。劉の野郎が復活する前に、とっとと帰った方が良いな」


「医者を手配しなければいけないな」


 信吉の両脇を支えながら、一同は帰路に着いた。ややもすると脱力した信吉は、膨れ上がった行李以上の荷厄介であった。


「奴ら、きっと仕返しに来るだろうな」道すがら、他の不良児に聞こえない小声で、市原が囁いた。


「ああも恥を掻かされて、黙ってはいないだろう。信吉も相手も、短慮が過ぎる」


「じゃあ、あんたは荷を渡したほうが良かったって云うのかい」


「そうは云わないさ。子供らしく、空手で殴り合いをしていれば良いという話だ。やっとうだの家名だのは持ち込まないことだね」


「それができねえ奴らだから、困っちまう」不意に飛び出した言葉は、信吉たちに向けたものか、劉たちに向けられたものか。多分、その両方だろうと市原は思った。


「やられたらやり返すのが流儀の連中だからね。後ろも随分と大人げないものだよ。単に子供だからでは済まされない。本人も云っていたけれど、あちらさんは共同体としての意識が特に強い。それで島田も汲々としているみたいだ。なにせ、どんなに小さな憤懣の種であっても、彼らにとっては十分に正当な報復の理由になるんだからね」


「おれみたいな人間からすりゃあ、そんな遠方に芽吹いた種に責任を持つなんてのは、馬鹿々々しくってならないな」


「なに、責任を持つというけれどね、各々勝手な思想を萌やしているだけさ。産地の看板が違うだけだよ。そうして、看板というのは背負ったら最後、降ろすことができないんだ。後はなし崩しに、看板が彼を追訴する」遠くを見つめながら、守屋は淡々と口にした。


「それが、あんたら風の責任って訳なんだ。それにしても、守屋さん、だっけか。ヤクザにしては変わってるな」


「僕が、ヤクザ? 違うよ。『青桜会』の構成員という訳じゃない。こちらの用向きが済むまで、しばらく世話になっているだけだ」


「なんだ、そうなのか。腕が立つみたいだし、そうだとばかり思ったよ」云って、市原は底意を計るよう、目を光らせた。


 信吉が凶器を振り回したとき、市原はとうとう来るべき時が来たという感じがした。信吉は、いつか人を殺し、殺されてしまうのじゃないか。常々、彼はそう考えていた。事実、守屋がいなければ信吉は劉に刺殺されていただろう。


 誰が死んでも、おかしくない状況だった。いつ何時、命を落とすか知れない。市原が好んで棲む淪落の底へ、信吉は自ら飛び降りて来たのだった。それは、市原に天使の失楽を思わせた。瀬尾を亡くした傷心が、信吉を駆り立てているのだとしか、彼には考えられなかったからだ。


 当時の信吉の無惨なまでの茫然自失は運命的と云えた。摩耗した信吉の神経に、瀬尾の死が決定的な打撃を与えたことは確かだろう。孤立して、人の死という感動を噛み締める信吉を、市原は密かに尊崇していた。信吉が自分を軽侮していることを理解すると、そんな気持ちは増々募っていった。この男は、きっとおれの望むような死を迎えるだろう。おれ以上に上手く死に遂せるだろう。市原はこの奇妙な踏み絵を、憎しみながら愛好した。


 予定調和の破滅を、市原の感性は好ましいと判断する。そうして、怒号を上げて暴力を揮う信吉を目にしたとき、彼は激しく随喜した。こいつも自分と同じ人間なのだと、安堵した。劉が短刀を閃かせたとき、市原の胸は期待に高鳴った。見たかった瞬間が、ようやく訪れる。


 完成された人間は、死んだ人間だけだ。


 自責の果てに横死する、天真な信吉の死顔にこそ、忘れて久しい人間の貌を見つけることができるだろう。


 けれども、土俵際で市原の展望は裏切られた。他ならぬ市原自身が裏切ったのだ。信吉は絶対に死ぬだろう。そう確信したとき、市原に去来したものは愉悦でも安堵でもなく、著しい動揺と焦りであった。


(待ってくれ、先に逝くな!)


 真空の叫びに呼応するように、彼の傍らを一陣の風が奔った。金糸が踊り、青龍は舞う。あれはまるで、陳腐な奇跡のようだった。枕を返されたように、市原は白けた日常に連れ戻された。いつもの自分に戻ったのだ。彼は、そっと歯噛みした。


 卒然、肩に回した信吉の腕が、ぴくりと痙攣した。市原は驚いて、信吉の横顔を盗み見た。苦しそうに眉を顰めていたが、目を覚ます素振りはない。それでなくても、益体もない考え事を気付かれる恐れなどないというのに、小胆なことだと自嘲した。


 駐留兵を相手に仕事をしているときには、頭に余分がない。日常は緩慢な自殺の手順で、立錐の余地もないのだ。頭の螺子は緩みきって、締め直そうにも工具が無い。貸し手はどこにもいない。何処にも居なくなったのだ。きっと、おれも信吉も、緩んでしまった頭の螺子を締め直してくれる大人を探しているのだろう。或いは、とうに死んでしまった自分自身を、今も探し求めているのか。どこか遠方に芽吹いていたかもしれない、理想の芽を萌やして。


「信吉をよろしく頼むよ、守屋さん。御覧の通りの、癇癪玉みたいな奴だからさ」


 頓狂な台詞が出たものだと、市原は我ながらうそ寒い心地であったが、


「そんなことは友人の君がやれ、と云いたいところだけれど。信吉君には恩義がある。気を付けておくよ」意外にも、守屋の口調は親身なものだった。


 少しして、信吉が意識を取り戻した。混乱しているらしく、事態の説明に時間を要した。赤っ恥に憤慨する信吉を宥めすかして、どうにか納品を済ませると、その足で事務所に向かった。事務所に人影はなく、島田は留守にしているようだった。加代の姿もない。


 落胆している暇もなく、守屋に呼ばれた医師が往診にやって来た。信吉は頭に出来た巨大な瘤から、しこたま血を抜かれた。守屋は島田を探しに事務所を出て行った。安静を命じられた信吉は市原と共に守屋を見送ると、気まずそうに低い声で云った。


「迷惑かけちまって、すまねえな」


「別に。こっちはいつも拳銃持った連中とやりあってるんだ。今更おたつくようなことじゃない」


 信吉は鼻で笑い飛ばしたが、頭を包帯でぐるぐる巻きにされてソファに横になっているところであるから、なんとも恰好がつかない。お互いに一頻り笑い合うと、市原は踵を返した。


「なあ、信吉。あんまり島田を信用しない方がいいぜ」肩口に、真剣な声色で市原は云った。


「なんだよ、藪から棒に」


「『青桜会』のキナ臭い噂ってやつだよ。終戦の間際に、地下道からごっそり子供がいなくなったことがあっただろ」


 思い返してみると、確かにそんな記憶がある。瀬尾が生きていた時分、まだ信吉も地下道での暮らしに馴染まないでいた頃のことだ。


「ああ、まとめて数人、ふっといなくなったことがあったな。夜分の狩り込みでやられたんじゃねえか」


「おれもそう思っていた。でもな、警察の狩り込みが激しくなったのは終戦後しばらく経ってからだ。あの時分にそんな大規模な狩り込みはなかった筈なんだよ。あの頃のおれたちは保護対象であって、監視対象じゃなかったんだからな」


「それがどうしたってんだよ」


「まあ、黙って最後まで聞けよ。島田はアレで田舎の分限者なんだ。これはドサ周りに出ている連中の云ってることだし、間違いない。今日の仕事だってそうさ。山向こうにパイプを持ってなけりゃ、そうそう担ぎで凌げねえ」


「なにが云いたいのか、わからねえな」


 信吉の脳裏に、島田と揉める加代の兄の姿が思い浮かんだ。島田を悪罵する、元特攻隊員。遺族の財産を巡る確執。不吉な予感に胸が騒いだ。


「んじゃ、はっきり云うぜ。島田はな、山陰地方の略売ルートを握っている」


 略売。つまりは、人身売買。


「そんなこと」後の句は続かなかった。信吉が言葉に詰まったのは、頭痛の為ばかりではない。


「担ぎ屋の玉は、なにも芋や大根ばかりじゃねえってことさ。もっと活きの良いのが、山ほどいるもんな。ノガミの地下鉄は恰好の餌場だったろうぜ。駅の周りをうろうろしている島田にお前が出会ったのは、そういえば、神隠しの時期と丁度重なるようだ」

 

「ふざけんなよ、市原。兄御がそんなことする筈がねえ。現におれはこうしてここにいるじゃねえか」


 市原は噛み付く信吉を冷然と見下ろした。


「まあいいさ。憎まれついでに、あとひとつ。先日、或る保守党の党員が殺された。ご丁寧に、同衾していた愛人もばっさりだ。男は五体をばらばらに切り刻まれて、辺りは血の海だったそうだ。女の方は首元を一閃。この殺された党員ってのが、お前ら『青桜会』の後ろ楯でもあったんだが、聞いたことはないか」


 そんなことは知らない。なにも、知らされてはいない。


「チョウセンともドンパチやっているしな。ここらで戦争のひとつでも始まるんじゃないかと、おれは踏んでいる訳だ。人間、喰い詰めたらどうなるかわからねえ。老婆心ながら、忠告しておくぜ。それから、守屋にも気を許すな。アレは人の皮を被った化け物だ」


 云いたいだけを云って、市原は事務所を出て行った。


 取り残された信吉は千々に乱れた。思考は横滑りして、なにひとつとして纏まらない。間歇的な激痛が、頭頂から彼を貫いた。瘤を手で押してみると、粘土のように柔らかい。指を押し進めれば、どこまでも沈み込んでゆくようだった。


 一体、おれの頭にはなにが詰まっているのだと、痛みに目を白黒させた。





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