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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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略奪急行 一


 執拗な物音にギンコは目を覚ました。重ねた布団に丸まって居留守を決め込もうという腹であったが、どうにも先方は承知しないらしい。建付けの悪い門口がガタピシ音を立てている。ギンコは布団から這い出ると、足取りも苛立たしく玄関へ下りて行った。


「こんにちは、区役所の者ですが奥山吟子さんはおいでですか。御免下さい」


 下履きをつっかけて、ギンコは荒々しく戸を開けた。面にはネクタイを下げた事務職員が半笑いの恰好で立っていた。毎度貌触れは変わるものの、彼らは三日と開けずここを訪れる。今回は二十代の優男であった。前回は初老の頑固爺。ギンコは辟易とした様子を隠そうともしない。


「こんな朝っぱらから、なんの用だよ」


「例の、立ち退きの件でお邪魔したのですが」


 男は歯切れ悪く云うと、天を仰いだ。


「悪いけど、おれはここを出て行くつもりはないんだ。再三云ってきただろう。親が遺した財産をはいそうですかと潰して堪るもんか」


「困ったなあ。しかし、どうにか承知して貰わなければ困るんです」


「そんなことを云われても困るんですよ」


 彼らが最初に話を持ち込んで来たのは、年を跨いだ頃。近傍に闇市とは異なる正規の大型マーケット設立が決定した。ついては速やかに退去を願いたい。マーケット設立に承諾を頂けるのならば、家宅は然るべき金高で台東区が買い上げるという旨だった。ご丁寧に持参した書類は台東区役所と上野警察署のお墨付き。正に青天の霹靂であった。


 弱体化した警察組織は、闇市の均衡を図るべく的屋組織を旗頭として『東京露天商同業組合』を設立した。しかしながら、効果の程は捗々しくない。このまま闇市が暴力の温床となることを危惧した警察は、市に新たな一項を挿入することを決定した。闇ではない、正式な巨大マーケットを造ろうというのであった。


 警察は闇市の勢力を外堀から徐々に削いでいき、いずれは彼らに成り代わって権勢を掌握しようというのだった。敗戦後は銃はおろか帯刀も許されなかった警察である。第三勢力に権力を仮託しながら立ち回っていた警察も、事態が紛糾し始めると安穏としてはいられない。内実、米国からの指導もあって弱り切っていたところである。ここらでかつての威勢を取り戻したい。その為の帷幄として新規マーケットの設立は急がれた。


 なにも一介の娼婦であるギンコにそこまでの腹の内を見せた訳ではない。しかし見た目は十五の少女のようなギンコは、その実成人した女性であった。話を聞くなり、憤慨した。なんとも都合の良い話ではないか。彼らは露天商の面子などどうでも構わないのだ。米国にせっつかれれば掌を返して舌を出す。まるで犬コロじゃねえか。勝手に戦争を始めて、勝手に負けて、御国の為に身体を売れという。挙句に唯一遺った家までも奪おうというのか。ギンコは書類を握り潰した。


「しかし、マーケットの設立には賛同して頂けるのですよね」


「別に、賛成も反対もしねえよ。勝手にやりゃいいだろ」


「それが勝手にやる訳にいかないから困るんですよ。せめてマーケットの設立に賛同するという書面に署名を頂けませんか。立ち退きの件は一旦置くとしてね。このままじゃ工事が始められないんですよ。金高が納得いかないということでしたら、後日改めて相談を」


「あんたらも分からないなあ。金の問題じゃないってんだよ。いいかい、この家は云ってみりゃおれのシマだ。あんたらが表でへいこらGIに尻振ろうがゴロ巻こうが、おれは関知しねえ。好きにやってくれ。でもなあ、それでこっちにケツ持ちしてくれってんじゃ平仄が合わねえや。第一、あんたおれを舐めてんだろ。そこが気に食わねえ。設立に賛同する書面? おれは馬鹿かよってんだ。んなもんに署名したら後は有耶無耶に事後承諾で決まっちまうだろうが。どうせ別部署の預かりですので、なんて言葉を濁して誤魔化すに決まってら。腹芸と粉飾はあんたらの十八番だろ」


 役所の男の額にぴくりと青筋が浮かんだ。二人は暫し睨みを利かせてむっつりと黙り込んだ。二階から、のそのそと信吉が下りて来た。男は彼を認めると、素早く目を転じた。


「仕方ないですね。一応、書面はここに置いておきますから。良く目を通しておいてください。一月後には着工の予定です」


 男が去ると、ギンコは目を剥いて舌を出し、


「おう、信吉。塩撒いとけ、塩」大仰に手を振って吐き捨てた。


「なんだあ、アレは」


「役所の人間だよ。ここを出て行けってうるせえんだ」


 目を丸くする信吉にギンコは事の顛末を話して聞かせた。


「ああ、兄御も忙しそうだったのはそういうことか。大丈夫なのかよ、ギンコ」


「大丈夫もなにも、出て行く気はねえんだから徹底抗戦の構えだよ。あんたこそ気を付けなよ、物騒になってんだから。あんたは出店に立ってるだけでも、親分がどこで恨みをこさえてるんだか、わからないんだからさ」


「鉄火場結構。腕が鳴るってもんじゃねえか」


「ほどほどにしときなよ」


 事務所に向かうという信吉を送り出すと、ギンコは上り口に足を放って座り込んだ。どこまで保つかな。そんな独語が、我知らず口元に浮かんだ。


 島田の事務所は大勢の人で賑わっていた。近く新たな出店でもあるのだろう。資材を掴んだ若い衆が階段を往復している。信吉は島田の私室に向かった。何か用事があるのではなかったが、週に一度はこうして貌を見せることに決めている。室内には島田の他、加代と守屋の姿があった。貌を突き合わせて、挨拶をした。


「おう、信吉。ちょっと一服していくか」煙管を咥えた島田が云った。


 卓には加代と守屋が着いて、呑気に茶を喫んでいる。談笑を中座して貌を上げる守屋を、信吉は荒んだ目で見下ろした。


 『青桜会』の食客、用心棒として雇われた守屋であったが、彼は積極的に組織の仕事に従事する風でもない。こうして終日、島田の横に侍って茶を啜るのが日課である。最初は渋面であった島田は何故か彼を気に入り手元に置いて離さない。時折、島田の外出に同行するのみで、それ以外の時間の大概をこうして茶を喫んで過ごしている。島田がいて、加代がいて、自分がいる。そんな居場所を横合いから浚われたようで、信吉は面白くなかった。


 こんな得体の知れない男を、島田はどうして重用するのだろう。女のような細腕の男に、用心棒が務まるとも思われなかった。それでいて、若い衆からの評判も良い。なんにしても信吉に合点のゆかぬことだった。


 茶の一杯だけと卓に着いた信吉に湯呑を押し付けると、島田は手ずから茶を淹れた。分厚な湯呑に蜂蜜色の茶がなみなみと注がれる。


「中国茶だ。ところで信吉、今日は出店に行くのか」


「そのつもりだけど」


「今日は出店の方はいい。代わりにちょっと頼まれてくれねえか」


 その一言に胸が騒いだ。漸く、組の仕事を任せてくれるというのか。


「人手が足りなくてな、二、三人足を見繕って荷受けして来ちゃくんねえか」


「荷受け」


 荷受けとはつまり、闇の物資の受け渡しだ。闇市の食品の多くは地方から持ち込まれる。食糧供給の乏しい東京に代わって、地方の台所がそれを賄っていたのである。地方から臨検の目を掻い潜って東京に物資を運び入れる人間を『担ぎ屋』と呼ぶ。地方の生産者に貌の利く人間が多かったようだ。行商の延長ではあるが、違法行為には違いない。見つかれば物資は取り上げられ、最悪逮捕される。当然『担ぎ屋』も馬鹿ではないから、あの手この手で密輸する。そんな彼らとの連絡を務めるのが荷受けの仕事であった。


「やるよ。やらせてくれ、兄御」信吉は身を乗り出した。


「そうか、助かるよ。委細は守屋が承知しているからな。夕方までに頭数揃えておいてくれ」


 云い置いて、島田は独りでふらっと事務所を後にした。加代が信吉を心配そうに覗き込んだ。


「信吉っちゃん、安請け合いしちゃって大丈夫?」


「当たり前だろ。やっと兄御が任せてくれた仕事だぜ。やるに決まってんだろ」念願叶って、漸く巡ってきた機会だ。無駄には出来ないと気炎を吐いた。


「それなら、僕らも早めに出た方が良さそうだ。詳細は道々話すとしよう」


 やおら置物のようであった守屋が口を開いた。


「あんたも一緒に来るのか」


「居候の身だからね。なにもしないでは居られない」


 折角の勢いに水を差された格好だが、致し方ない。信吉は取り急ぎ守屋と闇市へ向かうこととした。馴染みの不良少年の幾人かに声を掛けるつもりである。普段から仁義を切って兄貴連の真似事をしている連中だ。誘い水を向ければ我先にと飛び付くだろう。


「気を付けて行ってらっしゃいね」


 出掛けに、加代が古風にも火打石を打ってくれた。これには信吉も勇奮せずにはおれぬ。任せておけと胸を張る信吉の背中に、守屋は眩しそうに相好を崩した。


 二人は真っ直ぐに闇市へと向かった。事務所を出てしばらくすると、彼らの背後を尾ける者が在る。それは次第に頭数を増やした。後を付かず離れず様子を窺っている尾行者に、浮き足立った信吉が気付くことはなかった。







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