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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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ギンコ

すみません、予告の話は先送りということで。

今回は閑話的なものになります。



 守屋という珍事を経て、なにかしらの波乱を予期した信吉であったが、年が明けて春になろうという今も彼の身辺には変化が見られなかった。平穏無事の日を終えて、徒に苛立ちばかりが募るのはどうしたことだろう。唯、これではいけない。済まされないと誰かが心に迫るのである。その圧迫を押し退けることはどうにも出来そうになかった。


 この数か月の間にも世間は目まぐるしく変化した。政府主導の元組織された公娼施設RAAは同年一月を以って閉鎖。流出した娼婦は街娼へと身を改めた。警察による地下鉄構内の手入れは次第に激化し、捕らえられた者は問答無用で収容施設に送られた。


 闇市の立役者である解放国民、朝鮮人たちと日本人ヤクザ、的屋などの対立はいよいよ深まり、日中から銃声の響き渡る始末。弱体化した警察組織が闇市の均衡を図るべく『青桜会』ら的屋組織に仲立ちを依頼したことは周知の事実であったが、効果の程は思わしくなかった。愚連隊や浮浪児、台頭する第三項を巻き込み、暴力の氾濫は猖獗(しょうけつ)を極めた。


 闇市は追風を受けて活性化してゆく。世相の混迷に比例してその勢いは留まることを知らなかった。故にこれに難色を示して上野を離れる者も多くいたが、同様に闇市の煌びやかな混沌に魅せられて、地方からやって来る人間も後を絶たなかった。腕に覚えのある者、筋金入りの任侠者、一旗揚げようと勇み足の商人、ありとあらゆる人種が流入した。


 そうした次第であったから、太平楽の幟を揚げてお好み焼きを焼いている信吉などは先ず以って上々の暮らし向きと云えたが、当の本人は納得できないようで、今日もお好みを焼きながら上の空である。


「この餓鬼ぁ、待ちやがれ! 誰か、その小僧を捕まえてくれ」


 アーケードに怒声が響き渡っても、我関せずの信吉だった。商いをする人間にしてからが犯罪者なのである。窃盗だの喧嘩などは日常茶飯事で、これといって珍しいことでもない。なにせ上の空であるから、対岸の火事を眺めるの伝で往来に胡乱な目を向けると、少年が器用に人波を擦り抜けて疾走している。


 出店の鼻先を通り過ぎるとき、少年と瞬間目が合った。地下暮らしをしていた頃の仲間であった。面を上げてものも云わず走り去る少年を、何故だか信吉は強く羨望した。


 少年はアーケードの入り口で捕まえられると、すぐさま包囲された。被害者や通り過ぎの人々が彼を袋叩きにした。そこにはGIの姿までもが在った。警笛を鳴らした警察が到着すると、少年を取り巻いていた集団は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。後には蹲ったまま身動ぎもしない少年だけが取り残された。


 少年は連行される間際、施設は厭だと繰り返し絶叫した。


 浮浪児の末路とはこうしたものだった。身元の保証がない彼らは警察に捕まったが最後、有無を云わせず更生施設や孤児院に送られる。そこに同情の余地はない。不良少年は今や犯罪者予備軍として警察はおろか闇市の商人からも白眼視される存在であった。


 信吉が身柄を拘束されないのは偏に、『青桜会』が多少なりとも身元を保証するからであって、一度野面で好き勝手をすればたちまち縄を喰う羽目になる。国の運営する収容施設の環境は劣悪で、実態は体罰の横行する刑務所と変わらぬという。鉄格子の嵌った部屋に押し込められ、食事も碌に与えられずに作務をこなし、犬猫同等に扱われる。埋立地に造られた国営施設は本島から離れた離島であって、不良少年はそこへ収監されることを『島流し』と呼んで怖れていた。


 しかしそれだけ過酷な日々を送っている彼らを、信吉はやはり羨ましいと思うのだ。自分を賭けて嘘偽りのない生き様を天晴れだと思うのだ。彼らは確かに生きている。自分よりも遥かに精確に生命を掴んでいる。


 不良少年は各々の通り名を恃みに世間を渡り歩いている。それは例えば『巾着切りの太郎』だの、『アマキリ次郎』といった他愛ないものではあったが、彼らの真実拠り所とする異名であった。異名に込められた自負が、彼らの小集団に於ける関係性を証拠立ててくれる。彼らに安らう居場所はない。一所不住、腕一本の気概が彼らの住居なのである。


 遣る方ない怒りを呑み込んで、彼らは戦災孤児から不良少年へと変性したのだ。それをやけっぱちだと云うのは容易い。けれども、赤裸の剥き身で世間に対する彼らほどには自分の生活は正直でないと、信吉は忸怩たる思いがした。


 暮色の漂い始めた闇市には、ジープの砂煙。酔いどれの喧騒に混じって、縺れた歌声の救世軍歌。試作品のカストリを一本買って、信吉はとぼとぼと帰路に着いた。


「おうおう、こりゃまた立派に管を巻いちまって」


 ギンコが花屋に帰ってきたのは午前二時を回った頃だった。粗悪な焼酎に正体をなくした信吉を、今夜は御代官だねえ、とギンコが揶揄する。


「おう、ギンコ。早いな、もう仕事はいいのか」


「いいも何も、今夜は引けさ。RAA上がりの婆連がうるさくってね。勝手に相場を吊り上げたり常連客を横合いから喰われたりでね。疲れちまった」心底草臥れたのだろう、投げ遣りにブルゾンを床に放ると、信吉の横手にどっかと腰を下ろした。


「そりゃご苦労さん。それで、始末は着いたのか」


「婆さんも相手が悪かったやね。喰い散らかした相手ってのが『桜花団(おうかだん)』のお墨付きでね。今頃取り巻きのズべ公どもにきつーいお仕置きをされてるところだろうよ。あいつら容赦ないからね」


「へえ、珍しく仲裁にゃ入らなかったのか」


「別におれはここらの貌役でもなんでもないからな。FREEの夜鷹の出る幕じゃねえやな。知り合いならともかく、進んで火の中に飛び込む馬鹿はねえ。こちとら自分の身を守るので精一杯だからな。よそ様の都合にゃ首突っ込まないのが結構だ」


「そりゃそうだな」


「そりゃそうさ。信吉、煙草おくれな」


 信吉の差し出した『ラッキーストライク』に、ギンコは目を細めて火を点じた。深紅の唇から盛大に煙が吐き出される。蓮っ葉なようでいて妙に品のあるこの女と信吉が出会ったのは、去年の十一月のことだった。


 お好み焼き屋の親父と連れ立って女を買いに行ったときのことだった。親父は早々に目当てを付けてどこへなりと消えてしまったが、信吉は経験こそあったものの売笑に不慣れである。上野駅周辺を流していたが、遊び相手も決まらぬままに寛永寺の裏手に迷い込んだ。森の木蔭からはひそひそとした睦言とささめく虫の声。このまま誰と過ぎるでもなく、一人散歩するのも悪くないと思い始めた頃、数人の人影がたたらを踏んで目の前に現れた。


「おら、もっぺん云ってみやがれ。なんて云ったんだおめえは。もっぺん云ってみやあがれい」背の高い着物姿の女性がドスの利いた声で威嚇した。


「何遍だって云ってやるよ。あたしらの目の前をウロチョロすんなってんだよ。あんたの汚ねえ尻が目障りだってんだよ、このオカマ野郎」小柄な女性は負けじと云い返した。


 とすると、着物姿の長身の女性と見えたのは所謂陰間(かげま)というものなのだろう。知らぬ間に魔所に入り込んでしまったかと信吉は目を瞬いた。尚も両者は信吉の姿など眼中にない様子で捲し立てる。


「パンパン風情が調子に乗るんじゃねえ。こちとら芸歴十五年の女形、てめえらとは年季も違えば心意気からして雲泥の差よ。GIにへいこら媚売りやがって。お前らこそ国の恥じゃねえか。てめえら穴っポコと一緒にすんない」


「云うに事欠いて、あ、穴っポコたあ許せねえ! この玉なし野郎ッ」


 今にも飛び掛かりそうな二人の前に現れたのが、ギンコであった。ベージュのスカートにブルゾンを羽織った女は二人の間に入ると、切れ長の目を瞠って制止した。


「まあまあ、カネちゃんに義純さんも。ほれ、お客さんの前だぜ」云って、信吉を見遣った。


 二人が多少なりともばつが悪い様子を見せると、ギンコは間髪を入れずに捲し立てた。


「さあさあ、お客さん。今夜の御伴はどちらにしやしょうか。こちらのカネちゃんはここらじゃ稀にみる上玉だよ。元は料亭の娘ってだけあって淑やかなもんさ。なあに、少しばかり口が悪いのが珠に傷だが、意気のあるのが活きが良い! あっちの方も滅法強いと評判さ。さてさて、こちらの義純さんは知る人ぞ知る女形。今は人目を忍んで修行の身。おっと、芸名は聞いてくださんなよ。あんたも一度くらいは聞いたことがあるかもね。陰間の妙技は女以上なんて云う玄人さんもいるくらいだ。一度病みつきになったら離れられねえらしいぜ? こればっかりは女のおれにゃ分からないのが残念でならないくらいさ。一夜妻としちゃ申し分ねえとは思わねえか? さて! そんな御二方が今夜に限って、ショートでぽっきり三十円。横穴ホテルにご案内さ。一度に二人は選べねえ。さあさあ、どうするお客さん。ここらでバシッと決めておくんな!」


 まるでバナナの叩き売りである。小気味良い口上に喧嘩をしていた二人もふと表情を緩める。信吉はそんなギンコをまじまじと見つめた。細身の彼女は如何にも活発そうに溌剌としている。短く切った黒髪の下に、切れ長の目を悪戯っぽく光らせていた。なんとなく、狐みたいな女だなと感じた。


「じゃあ、あんたを呉れ」信吉の心は決まった。


「嘘だろ!? この状況でおれを選ぶのかよ」面子丸潰れのギンコである。


 素っ頓狂なギンコの叫びに毒気を抜かれて、カネちゃんと義純さんは矛を収めたのであった。


 それから信吉とギンコの曖昧な共同生活が始まった。ギンコを抱いたのは最初の一度だけ。不思議なことに肉欲の疼きを覚えることはなく、友人関係にも似た二人の交際は今日にまで及んでいる。


 当夜はカストリを二人で呑み直した。べとついた密造焼酎は老酒の味がした。肴は大根のきんぴらと慎ましい酒宴ではあったが、二人は他愛ない話をしながら呑み続け、眠りに就いたのは表がすっかり明るくなってからだった。






 

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