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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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昔語り 表

「ねえね、およめさんにいくの?」


 漸く物心つくかという頃、ぽつりと私は姉に訊ねました。私の頑是無(がんぜな)い問いに、姉はふと胸を衝かれたようでありました。顔に浮かんだのは困惑。姉は少し顔を背けるようにしてから、膝を折ってしゃがみ込むと、私の目をじっくりと覗き込みました。自分の反映を私の瞳に確認するように、彼女が絵を描くときにそうするように、ひたむきな目をして。


「うん、そうよ。お姉ちゃんはお嫁さんに行くの」


 結婚というものに明確な見解を持たない私には、姉が嫁いでいくという一事が、現実から遊離した御伽噺のように思われました。事実、私がそうして直接に姉に訊ねることとなったきっかけは、両親や親戚間、村の顔役などが家に集まり、ひそひそと姉の結婚について話し込んでいるのを、偶々耳にしたことからでした。私はそこから、夢中になって姉の結婚というものに妄想を逞しくしたのです。一体どんな人に嫁ぐのだろう。それは一体どこの人だろう。とにかく周囲の落ち着きない喧騒から、私も浮き足立っていたのです。


 そうしてはたと、姉が結婚して遠くに行ってしまったら、もう二度と会えなくなるかもしれないと思い至りました。二度と会えなくなる訳ではないにせよ、気軽な往来は叶わないかもしれない。私は急に不安になった。それほどに姉を好いていたし、この十も年上の面倒見良い姉に依存していたのです。


 一体に年の差を考慮しても、姉は私とは別格の人間でした。その器量や人格、全てにおいて如才なく、多芸な人だった。私は折々、彼女の手芸や絵画の趣味に触れては、その才気に舌を巻きました。姉は凡骨の私にも手取り足取り、根気強く教えてくれました。一緒に作った不器用なお手玉だの、和紙を貼った小物入れだの、二人で項を埋めた画帳などが頭に浮かんで、勢い私は涙ぐまずにはいられませんでした。


(およめにいったら、あえなくなる?)


 口にしようとした二の句は継げられませんでした。私がそれを口にする前に、屈んだ姉が私をひしと抱きしめたのです。私は姉のふくよかな両の胸に顔を埋めた。姉の胸は野草の匂いがしました。少し湿った土と太陽の匂い。そのときに感じた歯痛のような悲しみを、私は強く覚えている。それは目頭の辺りに蟠り、今も時折激しく疼き出す、私の病巣なのです。私を抱きしめる姉の手は幽かに震えていた。それで全てを了解したと思いました。噛み締めた歯の間から搾り出すように呻いて、私は先の言葉を口にしたのです。


「およめにいったら、あえなくなる?」


「そうねえ。難しいかもしれない。でもね、きぃちゃんがおっきくなったら、きっとまた会えるのよ」


「おてがみは? おてがみかいたら、おへんじくれる?」


 私の両の目からは、涙が際限なく溢れるのでした。そうしてそれを止める術もない。涙を流すほどに、私の悲しみは純度を増し、鉱石のように硬く引き締まってゆくようでした。姉は一滴も涙を溢しはしなかった。彼女は私に柔らかく微笑みかけてくれる。しかし、私は姉の悲しみが一層深い、透徹(とうてつ)した悲しみであることを知っていたのです。湖底の悲しみを知っていたのです。湖面に立つ波紋のような微笑に、私はそれを知ったのです。


「おてがみくれるの? ありがとう。お返事はね、すぐには返せないかもしれないけれど、きっとするわ。私からのお便りはお父さんかお母さんが、きっときぃちゃんに届けてくれるから」


「それじゃあ、ぜったいよ」


「きぃちゃんこそ、私のこと忘れちゃいやよ」


「ぜったいわすれないもん」


「それじゃあ、指切りしようか」


「うん、ゆびきりする」


 私達は差し出した小指を引っ掛けるようにして、


《ゆーびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます》


 上下に振って、指切りをしました。


 私が泣き止んで笑い顔を向けると、姉は私の頭を優しく撫でて、一度、幸福そうに笑いました。


 それから数日が立ち、姉は村の顔役のところに生活するようになりました。結婚するのは来年のことだが、モノイミみたいなものだ、と父は云います。モノイミという意味を訊ねても、お前には難しいから覚えずにいろ、と答えます。それでは姉には結婚する先からもう会えないのか、というようなことを聞いてみると、父は腕組みをしながら唸っています。父の機嫌を損ねないよう、姉に手紙を書いたから是非渡して貰いたいと、それを差し出しました。父は言葉少なくわかったと一言呟いて、私の手紙を懐に収めました。


 十日が過ぎ、二十日が過ぎて、私の手紙はとうとう父の手に握り潰されてしまったかと諦めていた頃、唐突に姉からの返信が、母から手渡されました。思えば父が手紙を棄却する理由もないではないか。私はすっかりと待ちぼうけの屈託を払拭して、姉からの手紙に目を通しました。


<おてがみありがとう。きぃちゃんのアリさんの絵、とっても上手ね。この調子で描き続けていったら、きっと私より上手くなるわよ。がんばってね。>


<からだに気をつけて、お父さんやお母さんの云うことを良く聞いて、立派になりなさいね、きぃちゃん。どんなことがあろうと、私ばかりはあなたを信じています。約束、きっと覚えていてね。それではお元気で。>


 文意を悟ると、また私の目には涙が一杯に溜まるのでした。


 きっと姉は、この結婚に希望を持たないでいるのだ。


 その後一年の間、私は幾つか手紙を認めたのですが、とうとう父母に頼んで姉に手渡してもらうということをしなかった。姉の決意みたようなものに、未練がましい哀憐を以って応えることを、私は良しとはしなかったのです。これは当時の私の年齢を考えると突飛な考えに思われもしましょうが、こうして概括するにあたってつらつら思い返してみますと、確かにそう実感したもののようでした。そうであれば、私は姉の云うように、懸命に生きれば良いのだ。約束は身を以って証する。それからの私は、無闇と絵を描き、一歩でも姉という理想に近づこうと致しました。また、姉からの便りも、一度とて届くことはなかったのです。


 ふつりと音信の途絶えた姉に最後に会ったのは、嫁入りの当日のこと。私は両親に自宅で待っているように云いつけられていました。誰が聞いても奇妙に思われるでしょう、実の妹が姉の嫁入りに参じることを許されないなど。幾ら年端の行かぬ娘のこととて、これでは道理が通りません。私は姉の姿を一目見ようと、家人の隙を付いて家を抜け出し、両親の後をこっそりと尾行しました。


 果たして、村の顔役の屋敷には、白無垢の姉の姿があった。私は躑躅(つつじ)の垣根に身を寄せて、そっと動向を見守りました。想像より関係する人間の数はずっと少なかった。そこには私の両親の姿もありましたが、その他、目に付く者といえば村の顔役、若い衆が二人(一人は頬に刃物傷があり、もう一方は眇目の大男でした)、それから神主でもありましょうか、厭に目付きの鋭い、斎服を纏った中年男性が一人あっただけです。

 

 斎服の男は若い衆に命じて、なにやら木板のようなものを準備させているようでした。俯きがちの姉の顔は、こちらからは目にすることが出来ない。母が口元に手を当てて咽び泣いている。父親はじっと腕組をしながら、まんじりともせずにいる。一体にこれが晴れの日の姿でしょうか。


 私の身体には思わずぐっと力が入り、前のめりになったところを垣根に手を突いてしまい、大きな音を立ててしまう。すぐさま、斎服の男が敏捷な誰何の目をこちらに向けました。それに釣られて、姉がこちらを振り返る。美しい白無垢姿の姉の右目には、顔を縦断するように包帯が巻かれてあった。短く、きぃちゃん、と姉の唇が動いたように思いました。私は脱兎とその場を逃げ去りました。なにか、不吉な動悸が胸を満たしていたのを、覚えています。


 後日、私が父から強く叱責されたことは云うまでもありません。姉は遠方に嫁いだのだから、もう忘れたが良い、と父は云います。そんな馬鹿な法はないと私は思った。しかし、その後、姉の消息は露と知れず、両親に訪ねても厳重に口を(かん)して窺い知れない。


 それから六十年余り、私は姉に再会することなく、現在に至ります。


 当時の消息に幾らか通じた人間に、話を聞く機会が今までに何度かありました。六十年の間に、村民も随分と揣摩憶測(しまおくそく)を逞しくしたものです。一説には、悪徳な商家に貰われていったのだとか、不治の病にかかって死んでしまったのだとか、沼の水神様へと嫁入りをしたのだとか……。


 今もこの季節になると思い出すのです。鋭く卑しい目をした、斎服の男。躑躅の垣根。振り向いた姉の顔。そういえば、あの時分も今日この頃のように、梅雨には早いというのに、大雨の続く大荒れの気象でした。山には土砂災害などが頻発して、村民も閉口したということです。


 気になることといえば、そう、最後の巷談(こうだん)を耳にした相手。その容貌に、私は覚えがあったのです。精確を期すなら、その頬に走った刃物傷に……。







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