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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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漂着者


 昭和二十年、十二月。戦火の余燼消えやらぬ東京の一隅に勃興した闇市は盛隆を極めていた。日本の敗戦によって解放された在日外国人の手によって興った一大マーケットは、様々な思惑と利権を呑み込みながら肥大した。朝鮮人やヤクザに的屋、不良少年に戦災孤児。街娼と駐留兵たち。軒を連ねてあばら家の犇めく闇市はさながら欲望の坩堝(るつぼ)の如くであった。


 御国は違えど人の欲望に垣根はない。粗雑な造りのアーケードを潜れば、街道は人波でごった返している。日用品に食材、衣料品から麻薬の類まで。求めればなんでも手に入るのが天下の闇市であった。尤も、それは法外な対価を用意できる者にのみ適うのであったが。


 それでも、闇市を訪なう人足は途絶えることがない。なけなしの金を握り締めて、今日も闇市には餓えた人群れが殺到する。バラックの軒先に置かれた酒瓶の空ケースに腰掛けて、信吉は闇市の喧騒をじっと見据えていた。辺りには煮炊きの煙が上り、香ばしい匂いが立ち込めている。『ラッキーストライク』を揉み消すと、信吉はすっくと身体を起こした。


「よし、代わるよ」


「なんだ、休憩はもういいのか」人相の悪い店主が機嫌良く応えた。


「稼ぎ時だからね」


 店主からコテを受け取ると、信吉は慣れた手付きでタネを鉄板の上に流し込んだ。木切れを拾って組んだあばら屋には、勿体らしく扁額(へんがく)が掛かっている。曰く、『東西一』。果たしてお好み焼きに東と西の別があるものかはさておき、信吉が島田に就いて初めて与えられた仕事というのが、お好み焼き屋の手伝いだった。


 云わずもがな、店主は『青桜会』の下部構成員である。始めの内はコテを握っておっかなびっくりの信吉であったが、一月もすれば大分こなれてきた。味はそれなりであったが、島田の言を借りればそれなりで十分とのことで、事実信吉の作るお好み焼きは連日飛ぶように売れた。安価で腹の膨れる粉物は費用対効果が高く、人気の品だった。


「どうだい兄さん、お好み焼きは」


 ぱたぱたと団扇で煙を送れば、腹の空いた客がちらほらと。胃の腑に力を込めて、こちらは東西一のお好みでい。駄法螺を吹けば一枚二枚とさらりと売れる。


 一日働いて、信吉の取り分は三十円から五十円といったところであった。これは世間一般からすれば十分な金額だ。なにせ公務員の初任給が五百円といったところであったから、勤め人も羨む金高であろう。しかしながら住む家を持たず、闇市に暮らす信吉は当然ながら日々の必要を闇で賄うしかなく、苦労して手に入れた金も一食二食を賄えばまっさらに消えてしまうのである。金は一向に貯まらなかった。


 例え悪事を働くことになっても構わぬとの一大決心も虚しく、両手にコテの立ち仕事。お好み焼きの技量ばかりが熟練し、気が付けば三月が過ぎようとしている。付いて来いと云われた先がお好み焼き屋の丁稚というのはどうにも飽き足りない。なにより島田から子供並に扱われているのが信吉には気に入らなかった。


 信吉がつくねんと出来上がりのお好み焼きをコテでぺしぺし扱いていると、俄かにマーケットが響もした。アーケードの方角から怒声交じりの喧騒がこちらへやって来るようだった。


「なんじゃらあ」咥え煙草の店主が丸めた頭をつるりと撫でて、彼方を見遣った。


 人垣がさっと引けて、現れた一団の先頭には目にも鮮やかな純白の三つ揃え。肩で風を切って歩くのは隻腕の侠客、島田である。彼の背後には一斗缶を手にした若い衆が続き、一団の末尾には顔面を肉団子のように膨らした男が引き摺られていた。島田が例の塩辛声でどやしつけると、若い衆が手に持った棒切れで肉団子の顔面を殴打した。そこここで悲鳴と歓声が湧いた。店主は慌てて煙草を投げ捨てた。


「おう、信吉。やってるな。今日も売れてるか、お好み焼きは」屋台を覗き込んだ島田が云う。


「ぼちぼち売れてるよ」如何にもつまらないという調子で信吉は答えた。


 急に腰が二十度も曲がった店主が若い衆にショバ代を渡すと、島田は彼らを顎でしゃくった。肉団子を連れた一団はその場を離れていった。


「あの、なんですかねありゃあ」


「ああ、うちのシマでシャブ転がしてた馬鹿だよ。挙句にチョンコに流してたみたいでな。酒場でゴロまいてるところを攫ってきた」


「そりゃ、えらいことで……」


陋巷(ろうこう)の逃げ水売りは、()れて寛永寺無縁仏と成れりって訳さ」


「ははあ、それはなんとも」


 二人が無駄口を叩いている間にも、ひとつふたつと鉄板にお好みを焼く。あの肉団子はどうなることだろう。あの一斗缶で素揚げにでもされるのだろうか。去り際、島田は信吉をまじまじと見つめ、


「鉢巻き、似合ってんじゃねえか」ぱしりと信吉の額を指で弾いた。


 信吉はうんと唸った。確かに地下鉄に居座って転売をしているよりは懐具合が良かったが、自分がしたかったことはこうしたことではない。もっとでかく稼ぎたい。信吉は喉元まで出掛かった声を呑み込んだ。島田には拾って貰った恩義がある。彼の信任を得られるまでは我慢しなければならないだろう。


 そんな信吉のいじましい心情を、島田は腹の底まで見徹していた。


「ああ、それから。お姫様がお目覚めになったぜ。気になってたんだろ、信吉」


「別に、気になってなんかないよ」


 俄かに顔色の紅潮する信吉を尻目に、島田は呵々と笑って闇市の人波に消えていった。云い繕う暇もなかったのが、信吉には有難かった。


 それから晩まで、信吉は黙々とお好み焼きを焼いた。日当は六十円になった。今夜は花を買いに行こうと、信吉は思った。


 闇市に暮色が漂い始めると、街道は一段の活況を見せた。狭苦しい街道を駐留軍のジープが砂埃を上げて走り回り、彼らを得意とする街娼が街に立ち始めるのだった。国家の擁するRAAより安価で気軽な性欲の捌け口として彼女たちは駐留兵に身体を売る。洋装に身を包み、派手なネッカチーフを巻いて春をひさぐ女たち。外国人を専門にすることから、彼女たちは一般の街娼と別して洋パンと称された。


 裏路地から防空壕まで、ところを選ばず交渉は行われた。ショートで三十円、泊りで五十円。それが彼女たちの肉体に付けられた値段だった。尤もそれは日本人相手の街娼のそれであって、金回りの良い駐留兵相手には相応に値段を吹っ掛ける。良家の子女に戦災孤児、流れ居着いた彼女たちは今夜も毛布一枚を手に春を売る。


 闇市の喧騒に片言の英語が交り始める。むっと鼻先を掠める化粧の匂い。哄笑と嗚咽。雑踏の只中を信吉は仮住まいへと歩んだ。


 闇市から外れた街路にぽつねんと寂しく佇むバラックが在った。木造の二階建てで、崩れかかった二階部分をトタンで補強した陋屋だった。玄関には幾つかの鉢植えと共に『花、売り〼』と書かれた木板が立てかけられている。風に煽られたトタン屋根が、ガラガラと音を立てた。首を竦ませて、信吉は玄関の引き戸を潜った。


「おうい、ギンコ。いるか」


 少しして、眉を落とした少女が奥から現れた。開店準備の途中だったのだろう。起き抜けの貌に紅を差して、ベージュのスカートにブルゾンの出で立ちだった。


「おう、信吉か。仕事はもう終わったのか」ギンコと呼ばれた少女は男勝りな口振りでそう云った。


「ああ。表の鉢植え、貰えないか」


「そりゃ構わないけど、鉢植えなんか持ってどうすんのさ」


「市に島田さんが来て、例の行き倒れが回復したって云うからさ。手ぶらで行くのもなんだと思って」


 僅かにギンコの貌は曇ったが、それも少しのことだった。


「行き倒れってアレだろ、あんたが駅前で拾ってきたっていう男」


「おう、そうだ。女みたいなナリした男だ。ええと、この鉢で良いか」玄関口に鉢植えを弄っていた信吉は、ひとつを選んで小脇に抱えた。薄桃のシクラメンの鉢だった。


「ちょっと待っててくれよ。おれも丁度出るところだったんだ。一緒に飯でも食おうぜ」


「ああ、飯は外で済ませちまった。親父が賄い作ってくれたもんで。んじゃ、朝までには戻るから」


 素気無く断られたギンコが手を差し出すので、信吉は心付いて十円札を握らせると忙しなく往来へ飛び出していった。


「男の見舞いにシクラメンの鉢植えはないだろ」信吉の後ろ姿を見送りながら、ギンコは独りごちた。


 手にした十円札をひらと振って、草鞋銭にもならないなと苦笑する。同居人に袖にされてしまったが、腹が減っては戦ができぬ。市で蕎麦でも引っ掛けて頑張ろうとギンコは気を入れ直した。夜鷹の夜は長い。またぞろ同居人の寝顔を拝む羽目になるのだろうが、別段、悪い気はしなかった。


 信吉が向かった先は『青桜会』のオフィスビルの一室であった。この辺りでは珍しく外観を留めた五階建てのビルである。薄暗い階段を三階まで上ると、目的の一室から細々と話声が聞こえた。ドアは薄く開かれ、室内の明かりが廊下に漏れ出ている。


「……そんな金額、払えるわけないじゃないですか」若い男の声だった。


「だったら話はそれまでだ。大体、加代の生活費だけで幾ら掛かったと思ってる」塩辛声は島田のものだ。


「それは、感謝しています。でも、妹をこんな危険な場所に置いておく訳にはいかない」


 金属音に続いて、フリントの擦れる音がした。


「妹を引き取って、それでどうする。兄妹二人で事業でも始めるか。それにしても元手は必要だろう。財産は焼けてしまったし、お前が内地で燻ってる間にも残った資材はみんなタケノコして消えちまった」


「好きで燻ってた訳じゃない!」


「ああ、悪い。任務待機だったか。なんにしても工場にあるもんは全部おれの持ち出しだ。買い戻すにしろ、新規立ち上げにしろ、とにかくおれを納得させるだけの金を持って来い。話はそれからだ」


「あんたがそんなだから……。初めからあんたに妹を預けるのは反対だったんだ。親父も馬鹿だよ、こんな人間を信用するなんて」


「よく解ってんじゃねえか」


 荒々しくドアを押し開けて、軍服姿の青年が廊下に飛び出して来た。首元のマフラーが白く棚引いた。


(……特攻隊)


 青年は信吉を睨み付けると、階下へ走り去っていった。信吉がオフィスに入ると、デスクに腰掛けた島田は悠然と煙草をくゆらせていた。


「おう、盗み聞きしてやがったな、信吉」にやりと島田は口元を歪ませた。


「アレは?」


「ふん、加代の兄貴だよ。工場の利権やら加代の養育費やらで揉めていてな。口ばっかりは一丁前だが、道理が通らねえ」蔑むような口調で云って、煙を盛大に吐き出した。


 あれが加代の兄貴。精悍な貌をした真面目そうな青年だった。時折闇市を訪れる特攻崩れとは毛色が違うと見えたが、果たして双方の弁のどちらに実があるのかは分からない。信吉は話頭を転じた。


「それで、兄御。御姫様がお目覚めになったって云ってたけど」


「ああ、それならほら。そこに居るじゃねえか」島田は指を差した。


 部屋の一隅に置かれたソファに、男は腰掛けていた。信吉はごくりと息を呑んだ。男の装いが異様だからではない。生気を取り戻した男の貌が身震いするほど美しかったからだ。青白く抜けるような白い肌に女のように柔和に整った貌付き。腰元まで垂れ下がる結髪。無性的とでも謂おうか、どこか底知れぬ不気味ささえ感じられる。束の間、信吉は心を奪われた。


 男はゆったりとした生成りのズボンを穿き、濃紺の裾の長い胴着には豪奢な金糸が渦を巻いて織り込まれていた。これほど目を引く出で立ちであるにも拘らず、島田に指摘されるまでそれと存在に気が付くこともなかった。信吉と目が合うと、男はうっそりと微笑んだ。血の滴るような笑みだった。


「君が僕を助けてくれたんだね」男は柔らかな声色で云った。


「あぁ、もう、大丈夫なのかあんた」


「お蔭様で随分良くなったよ。有難う」


 一週間前、地下鉄構内に続く階段脇に男が倒れているのを信吉が発見した。襤褸切れのような着物にはどす黒い血の染みが拡がって、息も絶え絶えの様子だった。


 男の身柄を忖度して、運び入れられた『青桜会』のオフィスで治療は行われた。腹部と上腕に傷を負っているようで、傷跡の形状からどうやら刃物による負傷と知れた。上腕を撫で斬られ、腹部を刺突されたものらしい。その外にも大小の打撲傷が見受けられた。


 とんだ厄介者を招いたものだと難色を示した島田であったが、加代と信吉の嘆願もあって渋々と折れた。知り合いの医師を呼んで治療を施すと、後は加代が甲斐甲斐しく世話をした。


「綺麗な鉢だね。シクラメンか」唐突に、男が云った。


 信吉は小脇に抱えたままだった鉢植えを持て余した。本当は床の世話をする加代に会いに来る為の方便だった代物だ。悩んだ末に、おめでとうと云って男に手渡した。デスクから島田の押し殺した笑い声が聞こえて、信吉は穴があったら入りたい心境だった。


 男は目を丸くしていたが、やがて頬を緩めて静々と鉢植えを受け取った。


「これは嬉しいね。生憎本復とまではいかないが、期待には応えよう」


 信吉は男の云うところが呑み込めなかった。


「僕は守屋だ。どうぞ宜しく」


 これを見守っていた島田は煙草を揉み消すと、所用で出掛けると云ってデスクを立った。三人で飯でも食ってくれと夕食代を置いてさっさと出て行こうとする島田に、


「三人って?」と信吉が尋ねた。


「隣の私室に加代がいる。起こして温かいものでも食いな。今日はちっと、寒いからな」


 隣室に加代がいる。信吉の胸にちくりと刺すような違和感が走った。


 思い返せば、合点のいかぬことばかりの一夜であった。


 守屋を名乗る男が正式に『青桜会』の食客、用心棒として雇われたのを信吉が知ったのはそれから数日後のことだった。






次回、鬼餓身峠陰獣送り 呼子の剣子 第四話『略奪急行』


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