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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第三章 呼子の剣子
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ノガミの犬


 先々の路程にどのような陰を落とすものかは判らねど、島田との出会いは少なくとも孤児となった信吉にとって幸運なことだった。


 空襲に焼け出された後、信吉は同じように焼け野原をゆく人波に紛れるようにして辺りを彷徨った。見慣れた街並みは一夜にして脆くも崩れ去り、明け方の冷たい町方には先夜の残り火が爆音の余韻と共にめらめらと地を舐めていた。鼻腔を突き刺す異臭に酷く頭が痛んだ。時折、突拍子もない音を立てて建物が倒壊する。路肩には掃き捨てられた塵のように赤剥けた死体が山と積まれ、それを通りかかった軍用トラックに軍人たちが辟易とした様子で投げ込んでいた。


 どうにか露命を繋いだ者にしても火傷を負ったり、あちこちを負傷して果たして生きているのか死んでいるのか判らない有様で、剥き出しの手足に襤褸切れをぶら下げて野原を延々当て所なく彷徨う人の群れは百鬼夜行の体である。橋の欄干には水を求めて殺到した人間が首を突き出した格好で死んでいる。川には押し出された死体がカゲロウのように集まって、水流を血と油で赤黒く染め返していた。一人の老婆が、信吉の脇を擦り抜け川に飛び込むと、ろうろうと水音を立てて死体の山に突入し、長い、長い嗚咽を漏らした。一瞥するなり、誰も注視することはなかった。好きなようにさせてやる他、ないではないか。


 どこといって行く当てもないことだから、信吉も百鬼夜行の仲間入りをした。彼らの傍を付かず離れず、様子を窺った。なかには彼の身を案じて食糧を分け与えて呉れる者もあった。彼らの口々に噂するには、上野に行けば飯が食える、あそこはまだマシだそうだからということだった。行きつ戻りつして、上野に辿り着いたのは二日も後のことだった。


 細く立ち昇る炊き出しの煙を目にすると、信吉はじんわりと目を潤ませて、給仕を待つ人の群れに我先にと駆け出した。上野駅の白けた駅舎にへたばって野菜のごった煮を流し込むようにがっつくと、顎が砕けそうに旨かった。


 腹もくちくなって人心地すると、先々の不安が首を擡げてきた。なにしろ、隠しにはぼろぼろで今にも破けてしまいそうな五銭紙幣一枚きりしかないのだ。


(なにか、仕事を探さなきゃな……)


 信吉は炊き出しに集まった労働者風の一団に目を付けた。なかでも優しそうな貌付きの老人に仕事を探している旨を伝えると、


「ああ? どうかな。出来るかな。親方に聞いてみないと、わからないな」となんとも頼りない返事が返ってきた。駱駝みたいにのろまな奴だな、と信吉は思った。


 それでも追々話はしてくれるというので、信吉は彼ら三、四人の労働者の後へ続いた。


 案内された現場は駅舎から離れた半壊した木造建築だった。労働者の老人が話をつけると、ううむ、と親方は唸り声を上げた。労働者の老人より幾分か若く見える親方は太い眉をぐいと持ち上げ、よかろう、と裁可した。


「良かったな」駱駝の老人はにっこりと白い歯を見せて信吉に笑いかけた。


「うん、ありがとう」


 それから数人が合流して、親方から仕事の説明を受けた。どうやら建築物の解体作業らしい。信吉に云いつけられた仕事は『ガラ出し』と呼ばれる瓦礫の撤去作業だった。要は解体に伴う廃材の搬出作業である。着物のままでは差し障りがあるからと、貸し出された寸法の合わぬゴムズボン、長靴を着物の上から着たちんちくりんな恰好で信吉は作業を始めた。


 日当は大人であれば六円だとか七円だとか云ったが、能力に応じて加算されるものだそうでよく分からない。暗にぼかした物云いをするので、本当はそれよりずっと多いのかもしれなかった。ともあれ子供だし少なくはなるが、今日の分の作業が終われば取っ払いで給料を呉れるというので、信吉は俄然張り切って瓦礫を運んだ。


 生まれて初めての仕事は面白かった。木片だの鉄片だのを持ち運ぶのは骨が折れたが、陽の光を浴びて汗を流すのはなんとも気持ちの良いものだった。どことなく胡散な心が晴れるようで、労働者も皆あっけらかんと朗らかだった。信吉がひょこひょこと怪しい足取りで荷物を運んでいると、そちこちから声が掛かった。頑張れよ、足元に気を付けろよ、自分の身は自分で守らなきゃいけないぜ。


 例の駱駝の老人はケンちゃんと云うのだった。ケンちゃんがバケツに汲んだ泥水を濛々と上がる砂煙へとぶちまける。飛沫があたりにきらきらと散らばって、瓦礫の山を滴り落ちる。それは素敵に陽光の反射する胸のすくようなオブジェだった。


「ああ、ああ、水撒かなくていいよ、ケンちゃん」親方が云う。


 へえ、とケンちゃんが空惚ける。


「今更砂埃なんぞ。誰が気にするってのよ。さっさと上行く」


 現場は実に平和なものだった。夕刻になって作業を終えると、親方から給料を受け取って早々に離散の運びとなった。この辺りは実にさっぱりとしたものである。少しおまけしておいたという親方から受け取ったのは、角の折れ曲がった一円札が一枚。話に聞いていたよりずっと少ない金額だったが、大した不満も沸いて来なかった。


 さてどうしたものかと思案して、先ずは飯にしようと思い立つ信吉である。一日の充実した疲労が腹のそこで飯を寄越せと唸っていた。ところが外食券もなければ手持ちは合わせて一円五十銭。方々を探し回っても闇値で吊り上がった品物ばかりだった。素うどん一杯十円、脂身の浮いた汁五円也。


「これでどうやって食ってけってんだ、バカヤロウ」


 はたまた天国から地獄の急転直下である。馬鹿にされたのでも虚仮にされたのでもない。話にならないのだった。子供一人の労力の対価はこれほどに安いのか。信吉は夜店の看板を睨み付けながら、懐中の()()()()を血が出るほど強く握りしめた。先刻まで有頂天だった自分を恨めしく思いながら立ち尽くすも、どうなるものでもない。そうこうするうちにも口には生唾が溢れてきゅうきゅうするし、店番はこちらをちらちら見ているしで、ほとほと困じ果てていると、


「おい、入んねえのか。そんなとこにぼっ立っているな」背後から威勢の良い声が掛けられた。


 振り返ると、背広姿の強面の男が信吉を見下ろしている。男は、右腕を無くしていた。だらりと垂れた袖を中途半端に絞っている。堅気の者とは思えぬ男の傍らには、十四、五の少女が曖昧な笑顔で寄り添っていた。信吉は虚を突かれて後退りした。男の風貌は如何にも厳めしいものだったし、少女に情けない姿を目撃されたことも恥ずかしくて堪らなかった。おれは笑い者にされている! 往々にして少年は異性の微笑を怖れるものだ。少女の微笑にはそんな性悪な含みはなく、連れ合いの粗暴な言動に参っていただけのことであったが。


「ああ、ごめんよ」云い終わる前に、信吉はそそくさと駆け出した。


「おい、ちょっと待てよ」


 直ぐに男に呼び止められた。さては因縁でも吹っ掛けられるのか。そのまま遁走してしまおうとしたが、後々どんな禍根を残すか知れない、とこれは些か以上の及び腰で足を止める信吉に、


「ちょっとこっちに来いよ」


 そう云われては仕方がない。信吉は借りてきた猫の体で男に従った。朋輩の内では腕っ節に自信のある信吉ではあったが、大の大人に敵う筈もない。なまじ腕に覚えがある分、格上と見た相手にはそうそう逆らえないのだった。一体どんな難癖を付けられるのかと肝を冷やしながら、信吉は男に促されるままに夜店の円卓に腰を下ろした。


「金が無くて飯、食えてないんだろ」


 男はぶっきら棒に云って、縮こまる信吉の前になにかを投げて寄越した。円卓の上を転がったそれは、信吉も幾度か目にしたことのある品物だった。


「おれ、煙草なんて吸ったことないよ」


「馬っ鹿、吸っちまってどうすんだよ。金が無くて飯が食えないんだろうが。全く、変な貰い癖が付いてんじゃねえのか?」男は短く刈り揃えた頭をガリガリ掻いて、卓上の『金鵄(きんし)』のパッケージをとんとんと叩いて見せた。


「いいか、これをそこらで売ってきな。配給も限りがあるからな、十円かそこらでも売れる。したらなにかしら食えるだろ」


 疑い深い目を向ける信吉を追い払うように男は手を振った。


「ほれ、さっさと行けよ。下手打って盗まれたりするなよ。値段の交渉は強気に元気でいっておけ」


「わかったよ、ありがとう」


 慌ただしく『金鵄』を掴んでの去り際、ちらと横目に見た少女が小さく手を振っているのに気が付くと、信吉はどぎまぎして往来に転げ出た。少女は十人並みの器量であったが、信吉の好みには特に適っていた。控えめで大人しそうなところも良い。ところで彼女はあの片腕の男とはどういった関係なのだろう。まさか親子にも見えなかったが。空けな詮索に耽りながら夜道を行くと、人通りは幾らもある。早速、煙草は要らないかと声を掛けてみるとなかなか反応が良かった。


「幾らだい」と、禿頭の中年が飛びついた。


「十円だよ」咄嗟に片腕の男が云っていた金額を提示した。


「それじゃあ、あんまりじゃないか? 公定より随分高いじゃないか」


「今は品薄だから、こんな値段にもなる」


 信吉は図太く構えたが、禿頭の中年はなら要らんで済ましてしまった。それからの客もこちらが子供だからか足元を見て値切ろうとするばかりで、一向十円で売れる気色もない。十何人か目の客を捕まえて、またぞろ幾らだいが始まったところで、信吉もようやく察しがついた。始め十二円と吹っ掛けて、十円まで下げる。『金鵄』は呆気なく捌けた。十円相場は嘘ではなかった。信吉の手元には昼間の重労働の十倍の金が転がり込んだ。


 信吉は来た道を引っ返して先の夜店に戻ると、息せき切って片腕の男を探して回った。それほど時間は経っていない。ひょっとしたら、まだ食事の際中かも知れない。十円で売れたことが嬉しくて、信吉は舞い上がっていた。円卓を見回すと、片腕の男がいた。彼は片腕で器用に椀物を食っていたが、信吉の姿を認めると目を瞠った。


「十円で売れたよ! これ」一円札の束をずらりと広げて信吉が云う。


「わざわざ報告に戻ったってのか。全く馬鹿正直な奴だな。そのままとんずらこいちまえばよかったのによ」男は錆び付いた掠れ声で応えた。満更、悪い気はしないようだった。


「そんなことはしないよ。元はおじさんが呉れたものだし、仕入れにかかった分は返すよ」


「そんなら十円寄越せ。と、云いたいところだけどな。最初からやるつもりだったんだから、しまっておけ。おやっさん、うどんもう一杯。まあ、座れよ」


 信吉は椅子に腰掛けたが、元が縁も所縁もない玄人相手である。先程見かけた少女の姿はなく、気まずい相席に間が持たない。神妙に黙りこくる信吉に男は特別配慮することもなく、悠々と『金鵄』の包装から取り出した一本に火を点けた。


 間もなく夜店の親父からうどんが供された。なんの変哲もない素うどんであったが、目に染むような湯気に胃袋が悲鳴を上げそうだった。箸に伸ばしかけた手をうろうろさせている信吉に、


「いいから食えよ。奢ってやるから」不愛想に男が云った。


「あ、ありがとう」


「これっきりないもんと思って食いな。いいか坊ちゃん、正直だの律儀だのは一文の得にもならねえんだ。皆自分のことで精一杯だからな。ほれ、そのうどんを見てみろ。すまし汁みてえな汁に混ぜ物したどん粉をよ」


「あんまり苛めないでくださいよ、島田さん。第一、あんたのところで仕入れたもんでしょうが」島田のあんまりな言い草に夜店の親父は情けない声で反論した。


 島田は途端に弾けるような大声で笑った。


 今、信吉はそんな島田の元で仕事をしている。一夜限りの縁は穂を継いで、乏しい彼の生活に実を結ぼうとしていた。


「――そんなことを云っていたんだ、叔父さん」


 隣を歩く少女を見る。自分より少しだけ背の高い彼女は、あの日、島田に寄り添っていた少女だ。名前を加代という。二人は島田の云いつけで新しく開店する出店に手伝いに向かうところだった。


「正直者だの実直屋だのは糞だとか云っていたよ」


「あはは、叔父さんらしいね。昔から口が悪いんだよ。確かに善い人ではないし、悪い人かもしれないけど、根は優しい人なんだ」


 加代はあの夜の印象を裏切って話好きのする性質で、多少人見知りの気があるようだったが、打ち解ければころころとよく笑う娘だった。


「あの日にさ、夜店の前で君が一円札を握りしめてるのを見て、仕方がねえなあって。先に声を掛けたのも叔父さんだったんだから。それになんだかんだ云って正直者や実直屋が好きみたい。君のことが気に入ったんだよ。本当に天邪鬼だよね」


「どうだかな」


 二人轡を並べて、灰色の焼け野原をゆく。些か感傷的ではあっても、同道人のあることはそれだけで喜ばしい。展望が広がれば、気の滅入る景色も幾らか明るむようだった。未だ、一人眺める景色は昏くとも。


 虫の好い話だ。浮付く心を丹念に圧し潰しながら、それでも信吉はじくじくと頬を刺す幸福を噛み締めた。世に一人の連れ合いもなく、自分が誰にも知られないことほど辛いことはない。それは井戸の底に在るような冷え冷えとした淋しさだ。人の温もりはなにより有難かった。涙が出るほど、暖かかった。









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