地獄の釜の底
弱い奴から死んでゆく。
日本が敗戦を喫したとき、納所信吉はその幼い胸の内に実感を強めていった。肌に触れる世相の感触が一変した。国民一致団結の神話は崩れ去った。人心に僅かな余裕もなく、誰もが我利我利に生きていた。施しを待つだけでは早晩に行倒れとなる。
結果として、自ら生計を得られぬ者や心の柔弱な者が斃れるのは道理だった。顔見知りの瀬尾という少年が狂い死にしたのは、敗戦の年の九月、やけに肌寒い朝のことだった。
瀬尾は信吉とは違い、直接に罹災して孤児となったのではなかった。空襲の夜を疎開先に過ごした、信吉に云わせれば幸せな奴だった。疎開先から東京行きの切符を渡され、後は好きにしろとばかり追い出されたのだった。当然、送金の絶えた結果なのだから、両親とて火炎に巻かれて灰になっていることだろう。世の薄情を思えばこそ、途方に暮れて街角をうろうろしているところへ、信吉は救いの手を差し伸べた。
瀬尾は信吉の後ろを金魚の糞のように付いて回った。瀬尾は十歳、信吉は十二歳だった。この年頃の二年の差は大きい。瀬尾は物怖じして商売には向かない少年だった。常に神経質にきょどきょどとして人に声を掛けるのも一苦労の始末だったから、信吉はこの少年に専ら物乞いをすることを命じていた。
「お前に転売は不向きだから、物乞いでもするんだ」
「わかったよ」瀬尾は従順にこくこくと頷いた。
頼りなげな容貌と物欲しそうな目は確かに物乞いには向いていた。田舎から親族の安否を気遣ってやってきた老人や物持ちの良い若者から、瀬尾は一定の成果を上げた。瀬尾が仲間たちの元へ蒸かした芋などを持ってくると、信吉は周りをぐるりと見まわして、大したもんだと瀬尾の頭を乱暴に掻き回した。瀬尾は喉でも鳴らしそうに目を細めてはされるがままだった。
そんな塩梅であったから、誰もが薄情になり、世の中が冷め切ってしまったところで、瀬尾の唯一と云っていい才覚が潰えたのだということを、信吉はもっと意識していて良かった筈だった。瀬尾が狂い死にしたとき、信吉は我からそう思ったし、仲間から頭目たる自身に避難の声が上がるだろうことを予感した。予感は、当たらなかった。
その日、誰かが云った。
「赤犬って、食えるらしいな」
皆が餓えていた。補給線を断たれ、食糧供給は停止寸前にまで追い込まれている。誰もが、一粒の米に群がる痩せこけた雀のようだった。信吉は決断した。反意は起こらなかった。
手頃な鉄屑を手に、四、五人の仲間と連れ立って寝床にしていた地下道を後にした。やけに肌寒い朝だった。穴倉から這い出た信吉たちの寝惚け眼を朝日が颯っと薙いだ。彼らは俯き加減に、焼け野原を探し回った。
赤犬は見つからなかった。代わりに、大層見栄えのしない老いぼれ犬が見つかった。怪我をしているのだろう。前足を引き攣らせながら、水溜りの汚水を呑んでいた。白い体毛はところどころが縮れて、不潔だった。
「これでいいだろう。やっちまうぜ」信吉が云った。
足を怪我しているなら好都合だった。幾らこちらが衰弱しているからといって、追い立てるのにも苦労はない。聞くまでもなく全会一致だろうと、鉄棒を手にした信吉は老犬に歩み寄った。
「やめよう!」
意外なところから、反対の声が上がった。瀬尾が唐突に声を上げたのだった。信吉は怪訝な貌で彼を振り返った。瀬尾が信吉に反抗するのは、初めてのことだった。
「今更なに云ってんだ」
信吉の怒りの滲んだ声を耳にしても、瀬尾が引くことはなかった。
「やめよう。かわいそうだ。やったらだめだよ、やったら……。それをやっちゃあ、おしまいだよ」
「うるせえ。やると決めたら、やるんだよ」信吉は決然として瀬尾の哀願を退けた。
老犬は騒がしい彼らに気が付いた様子ではあったが、逃げ出す気配はない。物憂げな目を彼らに向けて、大人しく地面に座り込んでいる。愚かにも自分を取り囲む少年たちの施しを期待しているのか。或いは、彼らの手にした兇暴な得物に遁走の意思を砕かれたのか。老犬は、涙の溜まった従順な目で何事かを訴えかけるようにして信吉をひたむきに見据えていた。
信吉は舌打ちをして、老犬の眉間に鉄棒を叩き付けた。短く、悲鳴が上がった。それが老犬のものであったか、瀬尾のものであったかは判別できなかった。信吉の郎党が続け様に老犬へと殺到し、瞬く間に殴殺は完了した。
「いつまでもしょげ返っているなよ」
事後、信吉は彼にしては優しい声色で瀬尾を撫した。瀬尾からの反応はない。空を見上げて、なにかぶつぶつと独り言を繰り返していた。少し離れた建材の陰では、仲間たちが老犬の解体を始めている。生臭い血臭が漂い始めるそこへ、信吉は難を逃れるように参加した。
傷痍軍人から食料と交換した軍用の小刀は、老犬の解体に十分な威力を発揮した。皮を剥いで肉を取り分けると、食えそうな部分は随分と少なかった。建材の燃え残りで火を起こして、肉を焼いた。老犬の焼肉は胸のむかつくような臭いがした。それを車座になって、信吉たちは呆と見守っていた。今度は誰が一番にこれを食うのだと、皆が皆、胸の内を探りあっている沈黙のなか、一番に焼肉に手を差し伸ばしたのが瀬尾だった。
「おい、まだ焼けてねえ……」信吉が疲れた声を絞り出した。
目を見開いた瀬尾は信吉の忠告を無視して、生焼けの焼肉を手に掴むと、夢中で口に放り込んだ。背筋が凍るような。それは異様な衝撃を皆に与えた。
「まだ焼けてねえんだって……」
瀬尾は老犬の肉を掴み取っては、次から次へと口に放り込んでゆく。
「焼けてねえって云ってんだろうが!」
激発した信吉が、瀬尾の頬を思い切り殴りつけた。生焼けの肉が瀬尾の口から飛び出て、辺りにぶちまけられる。横倒しになった瀬尾を見下ろしながら、信吉は二の腕を擦った。腕と云わず、彼の両足までもがわなわなと震えを起こしていた。
むくりと、腹這いになった瀬尾は、それでも老犬の肉に固執した。砂に塗れた肉を搔き集め、再び一片も残らず口中に押し込めると、犬のように四つ足になって絹を裂くような怪鳥音を発した。
「普通じゃねえぞ、取り押さえろ!」
仲間の一人がそう云って瀬尾に覆い被さった。口から肉を取り出そうと四苦八苦したが、間もなく瀬尾は泡を吹き、糞を垂れ流して死んでしまった。
辺りは水を打ったように静まり返った。瀬尾の死体の周りに、少年たちは口を噤んで立ち尽くした。
おれの所為なのか。そんな自責と後悔の念が信吉の心を領した。それから、仲間たちから当然沸き起こるだろう避難の声や、責任の転嫁を恐れもした。けれども、その何れとも仲間の内からは上がらなかった。仕方のないことだ。そんな諦めた心情が、瀬尾を見下ろす少年たちの瞳に込められていた。それは、老犬を見たあの瞳となんら違うものではなかった。信吉は粘質な不快感を覚えた。瀬尾の死体は老犬の死骸と二重写しになって、彼の行動を非難する。
老犬の幻影がお前の所為だと呪いを掛ける。知らなかったのだ。あそこまで追い詰められていたとは思わなかった。おれの所為じゃないと、抗弁する。弱い奴が悪いのだと。そうだ、仕方ないと少年たちは首肯する。
信吉の心は千々に乱れた。他の少年たちの冷静な態度に同調することは難しかった。おれはこいつらとは違う。そんな風に、取り澄まして落着することはできない。ひょっとしたら、瀬尾は貌見知りの内で唯一人、こんな自家撞着を理解してくれる同胞であったのかもしれなかった。
瀬尾の死骸は、そのままに放置することになった。何れ、軍隊が始末するだろう。いや、今は違ったのだったか。どちらにせよ、彼らに残された体力は重労働を課すに耐えられなかった。去り際、少年の一人が鉄板に残った焼肉を口にした。
「まずいな」肉を嚥下すると貌を顰めてみせた。
他には誰も手を付けなかった。彼らはぼろ布のように疲労した身体を引き摺って、人いきれで淀んだ彼らの寝所へと帰っていった。
その夜、信吉は長い夢を見た。それは現実の絶え間ない繰り返しであり、忠実な再現だった。夢であると判っていても、そこで信吉は毎回のこと同じ行動を繰り返すのだった。そちらに行っては駄目だと叫ぼうとも、夢中の彼の足が止まることはない。
妹は焼夷弾の直撃を受けて、信吉の目の前で炭化した。炎に包まれて、踊るように庭先で朽ちた彼女を忘れられない。
逃げ遅れた母は、火災旋風に巻かれて消えた。炎の竜巻に巻き上げられた人間が、数珠繋がりになって空を舞う光景を忘れられない。
天も割れるかという轟音。川縁に積み重なった赤黒い死体の山。飢え。灼熱の釜の底。
あの一日を忘れない。
大空襲から半年が経つ。あの地獄の一日。世界が地獄の釜の底と変じた夜。辛くも一命を取り留めた信吉は放浪の末に上野に辿り着いた。そこには同じような境遇の子供が集まり、生活を共にしていた。誰が口にしたものか、何時しか彼らはそこを「ノガミ」と呼んでいた。同所に於ける戦災孤児の数は百や二百ではない。路上生活者は毎日のように増え続け、そうして毎日、幾人かが死んでゆく。
信吉は夢から覚めると、懐のシケモクに火を点けた。最後の一本をキリまで吸ってから、地下鉄構内にすし詰めになって眠る人々をまたぎ越して、小便をした。便所などないから、適当な壁に向かってする他ないのだった。勃起した陰茎から勢い良く放尿しながら、信吉は腹を括った。
今まではどこかで、元の安穏とした生活に戻れるかもしれないという希望があった。彼が転売やシケモク売りに執着して、盗みや恐喝に手を出さないでいたのは、偏にこの生活への愛着がそうさせていたのだった。如何に細く頼りないものであっても、それが社会と生活と彼を取り持つ絆であり、不文律だった。これを護持する限り、復活の日は訪れるのだと、或いは瀬尾少年が考えていたかもしれないように、信吉も柔らかな心の奥底ではそうした信仰を持っていたのだった。よし、それがなにを約束するものでなかったにせよ。
そんなものは、まやかしだった。とうに自分は落ちるところまで落ちていたのだというのに。
弱い奴から死んでゆく。
信吉の胸の内に強い確信と実感とがしこっていった。おれは、どんどん悪くなるよ、瀬尾。これから、お前が云ったように終わりってところまで落ちてゆく。お前の代わりに、おれがそうなるんだ。お前はおれの代わりに、狂い死にしちまったんだな、瀬尾。
信吉は僅かな荷物を纏めて地下鉄を出た。白い駅舎の周りにたむろしている連中から、目的の人物は直ぐに見つかった。いなせな着流し姿の青年の横には、今日も変わらず少女が静々と寄り添っていた。
「おれに、仕事をくれよ。島田さん」
「そりゃ、ウチの仕事ってことか? 人に、物を頼む態度じゃねえな」
「お願いします。おれに仕事を教えてください、島田さん」
青年の瞳にちらと剣呑な光が見えた。思わず息を呑む信吉であったが、青年は直ぐに砕けた調子で彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「まあ、及第点ってとこだ。付いて来いよ」
そう云って、的屋系組織『青桜会』構成員、島田景樹はぐんぐんと前をゆく。臆するな。この水先案内人の行く末がどこに繋がろうとも、ここが地獄の釜の底であることに変わりはないのだから。やるか、やらないかだ。なんでもやるんだ、生き抜く為に。
躊躇いも一瞬のことだった。自ら付けた道筋に、信吉は力強くその第一歩を繰り出した。