釣鐘マントの怪人 承前
軍用トラックの幌を潜った先は筵を敷いたばかりの鉄箱で、女は警官に肩を押さえられてそこへと捻じ込まれると、芬々たる悪臭に小鼻へ皺を寄せて鼻白んだ。鮨詰めの車内には甘酸っぱいのから乳臭いもの、香水と汗腺液と垢の匂いの入り混じり、凡そ人肉から発せられる不潔な臭気の見本市の態で、女が立錐の余地もない肉身を掻き分けて尻を落ち着ける段になると、早くも後発組の御入来、どうも貴方もご愁傷様でしたと居直りぶりに憫笑を向けたところ、新たにトラックへ押し込められたのが襤褸切れ同然のコートを纏った男で、瞬間、女ばかりの車内はどよめいた。
なにも男の珍しい訳もない。風体もさることながら男の容貌の特異な為に、常日頃男を手玉に生き血を啜る女たちも恐れをなしたのであって、かかる男の容色尋常ならず、骨と皮ばかりと云えば凡庸に過ぎるほどに肉身の削げ落ちて、外套から延びる手足は針金のように白々と、浮き上がる関節の稜角は目に突き刺さらんばかり、方々に巻かれたどす黒く血の染みた包帯からは膿みの垂れ落ちて、傷痍軍人でもこうは按配しないであろうところ、今しも墓場から這い出て来たばかりと云ってもなんら不思議とは思われない姿形で、落ち窪んだ眼窩にぎょろりと光る黄色い目玉に見据えられては、流石に百戦錬磨の商売女といえどもなんと声を掛けたものか数舜言葉もなく、せめて病毒から逃れようと尻を擦っては遠退いた。
男は壁際に腰を下ろすと、膝を抱えてむっつり黙り込んで身動ぎもしない。暫く様子を観察していた女たちであったが、車が発進する頃合いには彼への興味を失った。男は置物のように微動だにしない。彼女たちの警戒すべき対象は、常に動く男だけである。車体の動揺に合わせて募る不安を打ち消すように、女たちの無駄話は姦しく高調していった。
――ねえ、怪人釣鐘マントって知ってる?
それは街娼たちが気晴らしに話し始めた巷談の一。
「人生最悪の日に現れて、それ以上酷い目に合わないように殺してくれるんだって」
輸送番の警官は噂話を聞くともなく聞いていた。本来なら厳しく接するところを、連日の激務で疲れ切っている様子である。車体が右に大きく旋回して、二つ三つの罵言が上がった。
「殺されっちまうんじゃ堪らないわねえ」
「でも、現れるのが人生最悪の日なら、それも悪くはないんじゃない」
「殺され方にもよるわよね」
「楽に死なせてくれるって聞いたことあるけど」
「でも、怪人さんは勝手にやって来る訳? こちらの都合を忖度して。なんだかぞんざいな話ねえ」
「怪談なんて大概そんなもんでしょ。理屈に合わないから怖いっていうかさ。普通の怪談だったら人生最悪の日に現れて、惨たらしく殺して回る怪人釣鐘マントってとこだろうけどさ。安楽死させてくれるってんだから、都合が良いや。そこらの慈善家よりは上等さ。まあ、勝手にやってきて仏面に楽にしてあげましょうってんだから、考えてみたらちょっと怖い気もするけれど」
「大体あんた、その話誰から聞いたのよ」
「ええと、先輩の友達から聞いたんだけど」
「有り勝ちだなあ。それにしても、怪人としては片手落ちの部類だね、釣鐘マントさん」
「なんで」
「今日この日を措いて釣鐘マントは今何処」
尤もだと笑い興じる女たちに、警官が顔を顰めたところで、後続の車両が猛スピードでこちらへ追い縋って来た。急停止した車両にまたも女性陣から罵倒が上がったが、警官がこれを黙殺して車外へ首を向けると、果たして息せき切った後輩が駆け寄って来るところである。折しも警察の無線が寸断されて久しい現在、急告も人力であってみれば必死の面構え、
「別動隊になんかあったのか」
「横丁で殺しです」
油汗を浮かべた後輩に仔細を聞くに及んで、警官の額の皺がますます深くなる。どうやら急行するにも手近な人材がないらしく、後輩に車両を引き継いで自分が向かうことになりそうであった。
「……どうやら、現場に例のアレが」
警官は低く舌打ちをして苦々しく女どもを振り返ると、遣る方なく息を呑んで慌ただしく別車両に乗り込み、アクセルを踏み抜いた。どうにも、人生最悪の日は今日であるらしい。
警官の他、この騒動に仔細らしく反応を示した者が一人あった。それは件の襤褸切れ同然の男に他ならなかったが、爪を噛み締め、宿命的な怨念に黄色い目を燃やす男、いやさ少年の動静に気を配る者は車中に一人とていはしなかったのである。
♦
畳敷きの和室には明々と燈明の灯り、襖に映し出された奇怪な影絵の下、ひたひたと蠢く白い肉の塊と圧し拉がれる少女人形。其れは空閨を飾る少女の偶像であろうか。いや、よく見れば其れは人形ではなく、血の通った生身の人間と知れよう。けれども少女の瞳は虚空を見つめ、あるべき生者の精気は感じられない。はだけられた、アラバスクの少女の動脈に流れる静かな美潮。そこへ醜い巨躯が圧し掛かり唇を狂おしく吸い付けながら、無様に腰を振っていた。
男は他人の妻を寇掠する陰惨な悦びに打ち震えていた。予てから狙い定めた獲物からありとあらゆる名誉と尊厳を剥奪し、足下に蹂躙する。ちかちかと脳内に明滅する小さな欲望の爆発は天上の甘露の如く。噛み付けた動脈のぴくぴく震えるを舌先に味わいつつ、男はこの世ならざる官能に溺れていた。
不意に襖が開き、室内に暗闇が奔った。誰一人通ること罷りならぬ聖域へと、闖入者は苦もなく突入すると無音の褄捌きで男に迫る。釣鐘マントを羽織った小柄な人間であった。薄暗い燈明の元では表情も容とは知れぬ。軍帽に似た帽子を目深に被り、性別も判然しないその怪人物はなにを発語するでもなく、壁際に佇んで男を見下ろした。少女から身を離した男は声を荒げて誰何する。
「なんだ、てめえは」堂に入った音声は、されど些か月並みに過ぎた。
釣鐘マントの人物は口元に冷笑を浮かべると、男に応じることなく、傍らに魂を失ったように横たわる少女に深い憐みを垂れた。屹度、唇を切り結ぶと怪人は初めて口を利いた。
「繰り越したな」
不可解な台詞に、男の表情は凍り付いた。
「お、おい。金は確かに満額払っただろうが。散々忠告された通り、この事は誰にも云ってねえ。それがなんでっ……」
釣鐘マントの怪人は、ぼそぼそと聞き取りにくい音声で一言三言を誦した。男にはそれが何を意味するのか、まるで判らなかった。けれども、彼の単純な頭にもはっきりと理解することはできた。つまり、この怪人ははっきりと、お前を殺すと宣告してみせたのだと。
男の瞬発力は大したものであった。枕の下に隠してあった拳銃を抜き取り、有無を云わせぬ早業で銃口を差し向ける。野獣の如く歯を剥いて、狙い過たず引き金を弾く。危地に及んで男には一片の躊躇もありはしなかった。今まさに怪人へ向けて撃鉄の起ころうというとき、風が吹いた。
怪人の手元に白光は二度閃いた。風切りの音は唯一度。練り絹の剣子が魔術めいて眩いたときには、怪人の姿は見当たらぬ。巨漢の男の斬り落とされた右腕が畳に落ちると、どっと音立てて男の喉笛から水芸のように血が迸り出た。ばらり、ばらりと間歇的に室内に撒き散らされる血の雨のなかで、少女は感情の籠らぬ眼差しで事態を静かに見守っている。
見れば怪人はいつの間にか少女の側へ膝立ちに控えていた。驚愕に眼を見開いた巨漢の男が最後に目にしたものは、怪人の手にした一本の獲物。日本刀、ではない。それは小太刀ほどの刃渡りの苗刀と呼ばれる代物である。
死ぬに死にきれず畳を掻き毟って悶絶する巨漢を尻目に、怪人は血塗れの刀を片手に提げたまま、仰ぎ見る少女にまたも口中になにかを誦した。ちいさな、細波のような声であった。男のものとも女のものともしれぬ、湿潤でいてなんら印象を残さぬ透明な声。怪人は、或いは少女に向かって云ったのではなかった。怪人はもっと遠い、際涯ないものへと密やかに語り掛けるようであった。恰も少女の本体が果てしもない彼方に在るものの如く。
少女の応えはない。それでも、肉片の転がる蘇芳染めの密室に、少女の穏やかな笑みは花と咲いた。
怪人は重々しく頷くと、その場へ立ち上がり、これは怪人の配慮であろう。願わくば濁世に絶縁して安らかに瞑せよ。怪人は苗刀に血振りを呉れると、寸瞬の猶予もなく少女の首を刎ね飛ばした。




