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冬の日


「ねえ、渡浪さんってさあ、働いてるの?」


 そう云って、食卓に頬杖突いた天木芳香は胡乱げな目を向けた。


 食事処『かつみ』の枡型に配された食卓の一つに、渡浪一行の姿はあった。時は正午。正午だというのに、件の大男は銚子を横手にぐらぐら煮える鍋を掻き回している。持ち寄った炭や野菜なぞと引き換えに木っ端屑を鍋にして貰ったのを、箸でつんつん突き回しているのである。大の大人が昼日中から、と芳香が斯様な視線を向けるも道理であろう。


「働いてるよー」と、大男からはいつにも増して気の抜けた返事。


 教育に悪いんじゃないかなあ、と零して彼の横合いに座った琴子を眺めれば、芳香が手渡した問題集に黙々と取り掛かっている。歳の離れた琴子は芳香にとっては妹のようなものだ。彼女の将来を思うに、芳香は細々と溜息を漏らさずにはいられない。それにしても、


(監督する人がいないと、こうまでだらしなくなるんだなあ)眉根を垂れて、摩耶の心労を改めて敬する芳香である。


「先生はいつまで御山にいるの?」


 芳香は、摩耶のことを先生と呼ぶ。以前、往き合いにかかって生死を危うくしたところを救われて後、彼女は摩耶をそうした怪異の専門家として称揚しているのだった。摩耶に対するそれは枕沼の怪異を巡る一連の騒動を経て、増々憧憬の度を加えているのであったが、一方の渡浪の評判はと云うと、これは推して知るべしといったところ。先は先生の連れ合いということから多少なりとも丁寧な扱いを心掛けていた芳香ではあったが、渡浪のだらしない生態が露見するに及び、付き合いも長じた頃合いから段々に、彼女の渡浪に対する目付きは駄目人間を見るそれへと移行していったのである。


「さて、二、三日したら戻ると云っていたが」


 芳香の心中を解さず、駄目人間はくぴりと一口濁り酒。


「なんでも、御山の例祭が近いから準備をするのだと。前回の元水町のこともあるしな。報告も兼ねて一度戻るということだった」


「だったら、琴子ちゃんも一緒に連れて行けば良かったと思うんだけどな」


「おれもそうは思ったさ。それでも本人が御山には戻りたくないと云うんだから」


 なあ、と傍らの琴子を振り向けば、問題集から顔を上げた童女は如何にも仔細らしくこくこくと頷いた。


「まあ、本人がそう云うなら良いのか。……良いのかなあ。これって保護者不在ってことなんじゃない?」


「まさか。おれがいるじゃないか」


「よく先生が了承したもんだなあ」呆れ顔に芳香が云う。


 実際のところは、罷り通りません、の一辺倒であった。ところが琴子は厭だの一点張り。渡浪の足に噛り付いたまま不動の構えで対抗するに、とうとう痺れを切らした摩耶が、


「じゃあ、勝手にしなさい」


 ぷんすか怒って出て行ったというのが本当の所である。


「まるで般若のような貌だった……」


 以て、青天の下、偶さかの自由を満喫する渡浪である。尤も、こうした事態を憂慮した摩耶から年若い監督官が派遣されることとなったのであるが、そうした面目ない次第に至っているとは露ほども考えていない渡浪である。今も呑気に鍋を突きつつ、琴子の勉強ぶりを眺めては、ほう、だの、はあ、だのと適当な相槌を打ちつつ飲酒に精を出している。きりきりと、芳香を頭痛が見舞った。


「できた」


 そうした室内の温度差を苦慮したものでもあるまいが、元気良く一声を上げて琴子が問題集を頭上に掲げた。


「へえ、早いね。どれどれ、ちょっと見せて、琴子ちゃん」


 問題集を手に取った芳香の目が驚きに見開かれた。


「わ、すごい! 全問正解だよ、琴子ちゃん。これ、私のやつだから琴子ちゃんからしたら大分進んでる筈なんだけど」


 ふんふんと鼻を鳴らす琴子に、渡浪も満更でもない様子で、


「そうだろう。なんでも摩耶の云うには、一度見聞きしたことは忘れない性質なんだそうだ」


「なあに、その得意げな貌は。ん、でもこれは本当にすごいね。ちょっと最初に講義したくらいで、全部正確に把握してる。ねえ、琴子ちゃんは学校に行かないの? これ、本当に勿体ない。今は休校してるけどさ、再開したらちゃんと学校に通うべきだよ」


「ふむ。その辺りは姉ちゃんと相談しなきゃならんだろうが、どうする琴子。学校、行くか?」


「ん、どっちでもいい」


 琴子は投げ遣りに答えると、渡浪の小鉢に手を伸ばして、盛られた雑魚煮を一口摘まんで太平楽。その場その場で興味の有る対象には喰い付くが、将来の展望といったものには皆目興味がないものらしい。飽きっぽいのとは違う。けれども一貫性がない。芳香はあまり良くない性向だとは感じたが、進学については家庭の経済状況も関することだから、それ以上に強いて口を挟むことはしなかった。折も折だ。まともな教育を受けるのは難しい。


 しばらくは雑談をしながら食卓の菜を片付けた。食後の薄い茶を喫しながら、ぽつりと芳香が零す。


「そういえば、御婆ちゃんは元気?」元気って云うのも、変かもしれないけれど。


「ああ、偶に寺に来るよ。相変わらずだ」


 芳香の云う『御婆ちゃん』とは、枕沼の騒動にて顕現した彼女の血縁に連なる蛇神のことであった。騒動の後、神格を得た彼女、あやめは枕沼一帯の守護となったのである。時折、ふらっと明達寺を訪れる彼女に渡浪は聞いたことがある。


「あれからどうだ。天木の婆さんや芳香に会いに行ってやらんのか」と。


 ついと何事かを考える風であったが、女怪は柔らかく微笑んで、


「幽顕を別つ身の上ですもの。この上、生者の姿を忍んで会いに行くのは憚られます。しばしば枕沼には参拝してくれますし、もう、私にはそれで十分」


 彼女は生前の姿を象って血縁者に再開するのを好ましく思わないようであった。奇跡は、一度で十分。生者は生者の、死者には死者の領分がある。けれども、この子煩悩な豊穣神が暇を見つけては白蛇の姿をとり、芳香を陰ながら見守っていることを、渡浪は知っていた。


「そう、なんだ。宜しく云っておいてよね」


「云わずとも伝わっていることだろうさ」


 鷹揚に、大男は眦を細めて優しく笑った。う、と芳香は息詰まった。少し、貌が熱い。本当に、こういうところが狡い人だ。はたはたと貌を扇ぐ芳香に、台所から声が掛かる。


「芳香ちゃん、そろそろ大丈夫?」と、女将。


「あ、うん。もう食べ終わったよ」


「それじゃあ、ぼちぼち行くとするか。琴子、お前はどうする」腰を上げた渡浪が問えば、


「行く」間髪を入れずに返事が返る。


「どこに行くの、今日は」


「筧の爺さんのところだ。こないだの強風で屋根が飛んで、雨漏りが酷いらしくてな。あそこは爺さん一人だから手も回らんそうだ。それから近所の溝さらい」


 ふうん、と芳香が零す。台所から、野良着に着かえた叔母が慌ただしく現れた。


「すみませんね、渡浪さん。急なお呼び立てして」


「いやなに、こっちもしょっちゅう飯食わせてもらってるからな。お互い様さ」


 じゃあ、留守をお願いね、と云い残す叔母へ任されましたと芳香。行ってらっしゃいと声を掛けて一同を見送ると、彼女は食卓の食器を片付け始める。片付けは手慣れたものだ。熱くて薄い茶を淹れて、小休止。


 卓上には琴子の残した問題集。ぱらぱらと項をはぐりつつ、茶を喫する。あれこれと、煙のような思考が巡る。食卓に頬杖突いて、呆と視線を彷徨わせる。店の表には白々とした弱い光線。


「ほんと、変な人だな」


 板の間は独り静か。ぴょう、と表に聞かれる鳥の声も高い。冬の訪れも間近に迫る、凪のような一日だった。




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