後日談
(あの事件からもう随分になりますから、細部には多少前後するところのあることでしょうが、これが大凡です。
後人に良き資料となることを願って。相羽順一)
そこまで書き切って、私は筆を置いた。内容は事務的に過ぎるようだったが、読み返すことはしなかった。求めに応じて着手した仕事ではあったが、始めから私は気乗りしなかったのだった。
一度筆を取れば、舵取りをしくじった現在を依頼主に報知せざるを得ないであろうし、私を煩わせる幾つかの心事も正直に記さねばならなかったからだ。どうにか依頼主の主意に沿う文章を拵えると、案の定、私は老人のように困憊してしまった。机の抽斗に伸び掛けた手を、思い直して引っ込める。ふらふらと頼りない気分的な想念が、痺れた頭へ羽虫のようにしつこく纏わりついていた。
私は、机から身を乗り出した。窓を払うと、表は真冬の深更である。流れ込んだ寒風が、頬を刺した。書斎の扉が開き、妻が顔を覗かせた。
「どう、書けそう?」
「なんとか書き終えたよ。夕方から始めて、まさかこんな時分まで掛かるとは思わなかった」
抽斗を開けなかったのは、どうやら正解だったようだ。お互いに妙な勘働きをしたものだが、夫婦和合の秘訣などというものは、存外そんなものなのかもしれない。寝巻きの薄物を羽織った妻は、鼻を鳴らして私の隣へ寄り添った。
「窓なんか開けてて、寒くないの」
「息が詰まるからさ。根を詰め過ぎたみたいだ」
少し唇を尖らせて、妻は大分目立つようになった下腹をつるりと撫で下ろした。些か、芝居がかった所作だった。
「一体どんな名文を拵えたんだかねえ」
肩を竦ませて机を覗き込んだ妻は、机上に置かれたものに気が付いたようだった。私は失敗したと思った。
木箱から取り出されて置かれていたのは、朱色の碗。あやかしの蝶に纏わる一連の事件が片付いた後、勝谷さんから私が買い上げた物だった。旧友の心を少しでも慰めてやりたいのだと相談を持ち掛けると、彼は例の不敵な笑顔を浮かべた。私は朱碗を格安で手に入れた。屋敷で話半分に聞いた値段より数段安かった。私は礼を述べたが、彼は首を振って取り合わず、さっさと引き上げてしまった。
赤石の曲線は私の窓辺を飾っている。私には、特別面白い物ではない。私の目は、詩人の目ではなかった。妻は土器を見ると貌を強張らせたが、少しのことだった。彼女は慌てて微笑に取り繕った。
「またこんなものを出して。隠れて飲んだりしたら駄目よ」
「飲んだりしないよ。君に悪いからね」
「そんなことを云ってサ。引き出しに仕舞ってあるのを知ってるんだから」
私たちはお互いに朱色の碗から視線を逸らした。私はきっと良い夫ではないのだろう。妻にとって、私は理解し難い、不気味な夫であるに違いない。私の冷々とした気味悪さを、朱色の碗は確かに彼女へと媒介するものだった。私の弱気の虫は口の中を這いずり回る。僕がどんなことを考えていたか、教えてあげようか。朱色の碗を前に、どんなに昏い想像に耽っていたのかを? 君の前に、洗い浚いぶちまけてしまおうか。
「畏れ多くて、ラベルも切れない」
愛嬌笑いをして、私は抽斗から洋酒の壜を取り出した。妻は幾らか安心したようだった。
「あらまあ、偉いじゃないの」
偶には飲んだって構わないサ、隠れてこそこそやるんじゃなかったらね、と低く優しい声で妻は云った。わざわざ台所から持って来たグラスに、妻は開封した洋酒を静々と注いだ。飲みすぎないようにね、と私の肩へ手をやって妻は寝室に帰っていった。注がれた酒は苦い薬の味がした。一杯では充分でなかった。
私は次第に怪しくなる目を書き上げた原稿に向けると、一からはぐった。依頼主は妖蝶事件に関係した者の予後をサンプルケースとして収集していた。時系列を整理しながら、筆跡を追う。そんなことが、ここ数日の内に習癖となっていた。私は勢い込んで酒を飲み下すと、苦々しい余瀝を舐めた。
事件の後、漆原は和睦した父と、それから新生活に入りつつあった私と妻の後援を受けて細々とした仕事をこなしつつ、詩作を続けていた。状況が見崎氏を軟化させ、蟠りが多少なりとも解消されたのは私にも望外の僥倖だった。
一転して、苦境に立たされたのは私の方であったかもしれない。病床の私の父はずっと手強かった。私が元遊女と添い遂げる意思を伝えると、父は神職者にあるまじきと口に唾して激昂した。数々の縁組を反故にした結論がなんたる低劣かと私を詰り、斯くなる上は不肖下品の貴様は断固として義絶するとまで放言したのだった。私はあまりのことに目を瞬いた。実感として、私の思うより生家は旧弊なものだった。私を放任していたのも、家督を継ぐ長子であるが故。多少の不良が御目溢しされていたのも、御金神社の安泰を将来せんが為。賭ける期待が大きかった分、父の落胆と憤慨は大きかったのだろう。私は言葉もなかった。
路頭に迷う羽目になった私は大層見苦しく狼狽したが、妻は落ち着いたものだった。あの手この手で私を宥めすかし、支えてくれた。意地もあれば気風も良いのだから、妻は私よりもずっと男らしい。程なくして私は見崎氏の周旋で或る市会議員の事務所で働くこととなった。今日では議員候補に挙がった見崎氏の事務所で働いているのだから、当時から見崎氏の念頭には政界へ進出する希望があったのだろう。先だって勤めていた市会議員と旗を同じくし、元水町の風俗改良に臨むと大気炎でいる。
漆原はと云えば、彼は何れ避けられぬ日に備えて点字を習い、粛々と日を送っていた。間もなく彼の両目は光を失い他者の援助を余儀なくされたが、依然として創作は続けられた。生家が息苦しいのか一時は私たちの新居に仮寓していた。彼は這ってでも机に噛り付き、ペンを握って唸り声を上げていた。その後ろ姿を、悲愴であるより怖ろしいと私は思った。彼は故郷を追われた忌子のように、捻切れた望郷のこころを紙片に刻む、情熱の傀儡だった。盲いた身体を操る天上の吊り糸の外、彼には一片の情熱も残されてはいないらしかった。
夜毎、客間からは点字を打つ音が聞かれた。ぽつぽつと、朝が来ても途絶えることはなかった。
穴の空けられた紙の山。それはどんな意味に於いても私に理解不能な、彼の苦悩に満ちた歴程だった。その先で彼だけが望み得る光に満ちた、或いは無明の楽園への案内だった。
漆原は朝日を頬に受けて、書き物机に突っ伏して寝息を立てていた。蒼白な貌をしていた。その時、私は初めてはっきりと彼を憎んだ。
漆原が岬の崖から身投げしたのは、それから数日後のことだった。妖蝶事件の折、奇怪な幻覚を見たあの岬から飛び降りたのだ。屍骸はやや離れた場所に発見されたが、潮の流れや死亡推定時刻からすると夕方に岬から投身したものと見てほぼ間違いはないということだった。屍骸は酷い有様だったようだが、私はそれを見ない。遺書の類は遺されていなかった。
彼はこの世を儚んで自殺したのだろうか。後追い心中のつもりでもあったろうか。その何れも、私には本当とは思えない。彼の葬儀が終わった後、更に私を苛立たせる報告が見崎氏から齎された為だった。
漆原の自宅の書斎から一冊の手記が発見されたのだ。それは椿が彼にあてて綴った病床の記憶だった。そこには身を切って恋を諦めた女の誠実なこころが恋々と綴られていた。椿が身投げした後、その手記は見崎氏の元へ郵送されて来たのだそうだ。代物が代物なだけに見崎氏も慎重になったが、内容を見てみるとついと涙を浮かべずにはいられなかったという。尚の事、息子には見せられまいと自宅の書斎に封印しておいたものが、別邸の書斎から発見されたのだった。
恐らく漆原は生家に戻った幾許かの間にそれを発見したのだろう。文字が読めるのだから、彼が失明する先のことだ。彼は薄明のなかで、その手記を目にしたのだ。
私は自殺や、心中といったものに定見を持たない。私にはどうで実行不可能な事柄に色々と注釈や批判を加えようと大した意味はないだろう。だからといって無言に済ますということもできなかった。自殺や心中に無関心であろうとも、漆原に私は無関係ではない。故にこれは本来なら云うも憚られる私見であり、私情なのだろう。
彼は、ひとつの清いものを見つけたのだった。彼は光を失ったが、同時に清いものをのみ視るようになったのだ。暗闇のなかに一点の清い光を視て、ただ一心にそこへと駆け、そうして糸を切ったのだ。そうであるに違いない。彼の死貌は穏やかであったそうだから。
彼は遺書を遺さなかった。書き上げた最後の詩篇は泡と消えた。彼自身もまた、奇しくも時を移し一所に果てた遊女の手記を、最後の形見と今生に残して。
私は、やはり彼を羨んでいたのだと思う。嫉んでいたのだと、思う。そして多分、愛してもいたろう。彼のように生きたいと、そう願ったこともあったのだ。
朱色の碗を手に取る。ひんやりと冷たい。私はこれを、妻の目の前に破壊しなければならないだろう。それが出来るのは私だけなのだから。けれどもそれは、今日ではない。私は慈しむように、悩ましい赤色の曲線を撫で上げた。
それにしても、人間の情念より恐ろしいものはないようです、遠見さん。
第二章 主題 『美徳の繰り糸/身勝手な慎ましさ』 了