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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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地鎮祭・後篇



 浜辺では見崎氏が音頭を取り、直会が始まっていた。参集した漁師たちが持ち寄った新鮮な海の幸に、地鎮祭では沈みがちな表情であった参列者も折と見て面を上げた。見崎氏の用意した酒類が振舞われる段となると、浜辺はいきおい賑やかになってゆく。そんな浜辺の賑わいから一人外れて、遠見摩耶は所在なくぽつねんと佇んでいた。


 手持ち無沙汰であったから調理の手伝いに立ったところを、漁師の女房に固く遠慮された為であった。曰く、お客様に手伝いされちゃ申し訳ないとのことで、そうまで云われては致し方ない。料理を仕掛ける様を萎縮して見守っていると、背後に男たちの歓声が上がった。


 振り向いた先には、赤毛の少女が両手に持った焼き蟹を振り回しながら浜辺を走り回っていた。なにがあったかは知らないが、開襟シャツを腕捲りした漁師と見える男を追い掛け回しているらしい。


「いいぞ、琴子ちゃん。やっちまえ」


 眼鏡を掛けた男が(けしか)けると、琴子はふんふんと鼻息を荒くして両手の蟹を一層激しく繰り出した。


討手(うって)は二刀流の達人だぞお」


「酒を呑んだくらいで、討手をかけられちゃ敵わない」


「いつも呑み過ぎるのが悪いんだ。多少呑めるなんてのは、呑めるのうちに入らないんだよ」


 とうとう追いつかれ、尻っぺたを蟹の鋏に突っつかれた男は大げさに砂浜に倒れると、


「参ったあ」


 腕捲りの漁師が大仰に白旗を揚げると、周囲は一斉にどっと沸いた。


 あれは恐らく勝ち鬨のつもりなのだろう。天に突き上げた得物を晴れ晴れしい貌付きで美味そうに食べている少女を見ていると、摩耶は恥ずかしいやら申し訳ないやらで胸の塞がる思いがした。あちらでもこちらでも、日夜同じような光景を目にする摩耶である。


 貌を覆ってますます小さくなっている摩耶の元へ、片手に皿を手にした見崎氏がやって来た。


「どうです。愉しまれていますか、と聞くのはこの場合不謹慎なのかもしれませんが。憑き物落としということでひとつ」


 差し出された皿の上には、大振りのさざえのつぼ焼きがじゅうじゅうと湯気を立てている。


「憑き物落としとは、少し違うようですが」


 とはいえ歓待の意を無碍にするのも宜しくないと、摩耶は恐る恐る差し出された皿を手に取った。


「おや、あまりあちらでは口にしませんか。貝類なんてのは大概なにを食っているかわからん輩だが、さざえは海藻ばっかりを食べますからその点安心ですよ」


 そう勧められても、苦手なものは苦手なもので。摩耶は総体に貝類の造作が駄目な人間だった。口に入れようとしても、露出した内臓を思わせる姿を身体が受付けないのである。


「どうも、駄目なようです」


「では、これは私が頂きましょう」


 見崎氏はつるりと音を立ててさざえを口にした。よくもまあ、あんなものを……。食性に難癖をつけるつもりはなくとも、心中に怖気を震う摩耶である。さて、見崎氏がさざえを胃に収めてしまうと、なんとなく格好がつかない形になって間が持たない摩耶だった。見崎氏は参列客の姿を見回しながらあれこれと考えまわしている風であったが、重々しく咳払いをひとつして、


「今回は、うむ、遠見さんのご尽力もあって無事解決の運びとなりました。どうも、有難う御座いました」物云いは随分と歯切れが悪かった。


「どうでしょう。解決したのかどうか。ここ数日、妖蝶の姿は見えませんし、儀式も大過なく終えましたが、しばらく予後を見ませんと確かなことはわかりません。見崎さんの仰る身に覚えのない噂についての消息は掴めておりませんし」


「……いや、手厳しい」見崎氏は力なく額に手を当てた。それから、


「相羽くんから色々と報告を受けました。遠見さんも既にご存知なのでしょう」と続けた。


「というと?」


「不肖の息子のことですよ。そればかりではないが……。遠見さんから頂いた書面を吟味した今日と云うことです。アレには私の二の轍を踏ませたくないばかりに、かえって反発を招くようなことをしてしまった」


 二人は浜辺に集った人々の貌を眺め渡した。かつて花盛りの日々を色町に過ぎた人々。そこに、漆原の姿はない。親子の確執は未だ解消されてはいない。親の業が子に報い。これも二世の縁というものであろうか。憶測を逞しくすることは容易い。情実を量ることも、恐らくは。我が身を省みれば、思い当たる節のひとつやふたつ。故に謹戒せねばならない。人は人、私は私。他者に我が身を投げ入れる勇気を持たず、寄り添おうとして相容れない不和を許容できぬ、遠見摩耶の弱所でそれはある。


「過去に思いを残して生きても仕方がないと、父がよく云っていました」


 摩耶はもっと気の利いた、別様の台詞が必要だと感じた。けれども、続く言葉は見当たらなかった。見崎氏にしても、投げ返す言葉が見つからないでいるようだった。そこへ、不意に悲鳴が上がった。見ると、琴子が夏彦から大慌てで逃げ去っているところであった。


「ちょっと、静かにさせて来ますから」


 少女に駆け寄る摩耶の姿に、見崎氏は眦を緩めた。


 岩に腰掛けてお神酒の残りを呑んでいた渡浪の元へ、息を切らせた琴子が走り寄った。少女はちらと背後を振り返り、件の男が肩を落として諦めたのを見ると漸くほっと安堵の息を吐いた。どういう料簡か知らないが、なにかと世話を焼きたいらしい夏彦に辟易して漁師たちの元を逃げ出して来たのだった。


「おう、どうした」


 琴子は渡浪の鼻先にずいと焼き蟹を差し出した。夏彦から逃げるのに必死で、握り締めたままにいた両刀の片割れである。差し出された蟹の手に、渡浪は眉を八の字に曲げて胡乱な目を向けた。


「只でさえ悪い夢見が酷くなりそうだ」と、うんざりした貌で辞退した。


「蟹、おいしいよ」


「いや、しばらく蟹はいい。止す。牛も遠慮したいなあ」


 遠慮をする、しないの問題ではなく、食ってはならないのであったが、遠い目をした渡浪は力なくそう口にするとがっくりと頭を垂れた。外面に似合わず、繊細な人間だった。一方、琴子も例の怪異の姿を間接的ではあれど目にしている筈であったが、気にしてはいないようで、辞退した彼の面前にむしゃむしゃと蟹足を食う。渡浪は込み上げそうになる胃液との格闘を余儀なくされた。


「お前さんは肝が太いなあ」


「きもがふとい?」


「度胸があるってことさ。姉ちゃんよりも豪胆な女になるぜ」


「摩耶はごうたんなの」


「姉ちゃんは豪胆ってよりゃ」


 渡浪が云いかけたところへ、琴子の後を追って摩耶がやって来た。


「おう、見崎のおやっさんはもういいのかい」


「また呑んでいるのですか。こんなに……」


 直会も始まって間もないというのに、見れば岩場のそちこちに空の酒瓶が転がっている。


「正当な報酬だろうじゃないか。誰憚ることなく呑むさ」


 嬌瞋(きょうしん)を肴に呑む酒の、尚美味いことよ。まさかそうも思うまいが、答える渡浪は平気の平左。目を吊り上げる摩耶を前に、くぴりと咽喉を鳴らしてお神酒を一口。


「そういうことではなくて」


 摩耶は呆れ顔に頭を振った。


「身体に差し障りますよ」


「問題ないさ。むしろ、呑まないでいた方が調子が狂う。何事も我慢のしすぎは良くないからな」


「あんなことがあった後くらい自重して欲しいものですが」


「わはは、見崎のおやっさんの酒が旨すぎるのがいけない。山で呑む酒とは違って水のようにするするといけるもんだから」


「冗談に誤魔化さないでください。貴方はどこまでが本当かわからない」


 諌める言葉も弱々しく、心底から体調を案じるらしい摩耶の貌付きに流石の渡浪も思うところあってか、


「大丈夫だよ、ぴんぴんしているさ。これもうちの策士殿のお陰かな」と、些か気恥ずかしい思いを紛らした。


 渡浪が指し示した傍らには、小さな策士が無心に蟹の手をほじくってなぞいる。


「琴子が?」


「そう。護符だのなんだのと準備してくれたからな。身体の方は大事ない。ぶっ倒れちまったのは、気が緩んだからだろうさ」云って、またお神酒を一口。


 そういえば、琴子に変わった酒を飲まされもしたっけ。お神酒かと思ってみたが、どうにもこうして呑んでみると違うらしい。随分酸味の強い酒だったが、アレはなんだったろうなあ、と渡浪が溢すのを耳にして、摩耶の貌は火を噴いた。


「えっ。あ、の、飲んだのですか、アレを?」云って、くわ、と両目を見開いた。


「えっ。の、飲んじゃ駄目だったのか?」


 目にしたこともない摩耶の狼狽振りであった。余程貴重な品でもあったろうか。摩耶は恨みがましい目を琴子へ向けたが、小さな策士殿は蟹の手をほじるのに飽きたらしく、砂浜へ(てん)として落書きを始めているところ。嗚呼、と摩耶は天を仰いだ。


「渡浪さん、アレは飲み物ではありません……。神饌(しんせん)です」


 神饌とは、神に捧げる飲食物のことである。ここに云うアレとは、別に御贄(みにえ)とも呼ばれる神饌の一種、詰まるところの口噛み酒であった。


 米などの穀物を噛み、吐き出したものを容器に移して醸造したものを口噛み酒と云う。中南米にはトウモロコシを同様の手法で醸したチチャがあるが、これも或る種の呪の要素を持っていると云える。口噛み酒は共同体のシンボルとしての側面を有つ他に、醸造者のシンボルでもある。純潔の巫女が醸した口噛み酒は、彼女自身の一部。よって、これを御贄として神へ捧げるのである。神酒、神の為の酒、という訳だった。


 して、それがどのような経緯で渡浪の肉体に不可思議の効能を示したかについては、一応の解説が試みられよう。遠見摩耶の神降ろしの際に、彼女の肉体の一部を摂取していた渡浪は一時的に彼女の同位体として感応の関係にあったのだと云える。加持祈祷などがそうであるように、行者と信者が心念を通じ道を交わす。取りも直さず、是接続の儀である。そうして、遠見摩耶と感応の関係に入った渡浪は神の加護を得るに至る。渡浪の全身に貼り付けられていた神符は摩耶への反動を抑える為のものだったのであろう。琴子窮余の策は会心の成功を収めた。それがいかなる経験則から導き出されたのかは判らないが、彼らの生命を守り抜いたのである。尤も、失ったものは少なくなかったようであるが……。


「ま、まあ、元気の出る酒だったよ」と、言葉を濁す判らない男である。


 涙目になって震えている摩耶に、渡浪はあたふたと目を泳がせた。琴子へと救難信号を発したが、先生、落書きに夢中で気付きもしない。渡浪は慌しく、無闇と酒を呑んだ。


「さて、そろそろ僕はここを離れるとするよ」


 そこへ、夏彦が現れた。無論、渡浪の窮地を救おうと馳せ参じた訳ではない。訳ではないが、地獄に仏と渡浪は貌を輝かせた。反対に敏感に気配を察知したらしい琴子は、ざっ、と砂煙を上げて渡浪の傍らへと飛び退った。余人には理解の及ばぬ間柄でもある。


「人探しはもうよろしいのですか? 確か、小林さんという方を探していたようですが」


 酒を呑む渡浪の手が、ぴたと止まった。


「まあ、消息が掴めないならそれでも構わないんだ。何れ報告書をまとめる為にも膝突堂に帰らなくちゃならないしね。ちょっとしたお土産も出来たことだし」云って、旅行鞄をぽんぽん叩いて見せた。


「太刀はもういいのか」


「直ぐに取りに戻ってくる。それまではあんたに預けておくさ」夏彦は不敵に嗤う。


 やれやれと渡浪は頬を掻いた。誰から誰へと、預けられてばかりだ。


「そのことなんですが……。真実そうなのでしょうか。太刀の来歴は失伝しているとはいえ、その、霊刀が盗品だというのは」


「窃盗者が足跡を残す筈がないのさ。捏造することもしなかったようだけれどね」


「昨夜、話していた伽藍縁起でしたか。良ければ一度読ませて頂きたいのですが」


 たとい本人でなくとも係累が窃盗犯呼ばわりされたからには、摩耶は激しても良い筈だった。けれども、それには彼女は知らないことが多過ぎた。少しでも自分を知る機会ともなればとそう云ったのであったが、対する夏彦の反応は芳しくない。()めつ(すが)めつ摩耶の貌に食い入って、


「……またの機会に、持って来るよ」しかし、最後にはそう約して一同に背を向けた。


「夏彦。お前さん、漆原の家に入ったんだってな。不用意な持ち出し、厳禁だぜ。マヨヒガじゃないんだからな」


「……忠告どうも」


 ひらと手を振って、夏彦は浜辺を去った。直会も、そろそろと終わりの時が近づいていた。一同は今後のことを話し合った。怪異は調伏したものの、予後の経過を見る為、数日の滞在は避けられない。そこで、その合間に鬼の御堂を確認することと決まった。


「そういえば、そんなことを云っていたなあ」


「ぼんやりしたことを云わないでください。これも大事なお勤めなんですから」


 他にも、漆原邸にいた例の女の身元調査だの、自失した漆原の処置など、するべきことは山積している。


 直会の座は引けて、皆々が帰路に着く。事件は終わった。水平線に没しかけた夕陽の長い光が、海辺の町を染めている。前方をゆく摩耶と琴子は、漁師連に持たされた手土産を話の種に興じている。それを、後方にのろのろと着いて歩く渡浪は見るともなく眺めていた。


 彼は、一人の遊女の生涯を思い出していた。白刃の元に消えた女の生涯を、只管に反芻していたのだった。


 初めてそれに気が付いたのはいつだったろうか。初めて太刀を抜いたときであったろうか。それとも、怪異を斬ったときであったろうか。渡浪は、腰に佩いた太刀へと目を呉れた。


 怪異を斬った後には、決まって夢を見る。それは取り留めもない景色の断片であったり、長大な絵物語であったり、或いは、報われぬ遊女の一生であった。回数を重ねる度に、悪夢の精度は増していった。初めは曖昧な心象の羅列に過ぎなかったものが、次第に色鮮やかに、現実さながらの生々しさを以って渡浪の夜を蚕食した。否、それは悪夢などではない、現実そのものであった。我の裡に彼を見るのではなく、悪夢のなかで、彼と我とは同体なのだった。


 おれは彼らを斬り捨てた。では、彼らの果たされなかった未練、それが為に鬼へと化生せねばならなかった程の願いはどこへ消えたのか。他でもない。陰の国の住人は、おれの元へとやって来るのだ。おれは、彼らの願いをどうすることもできない。叶えてやることも、聞き容れてやることも。


 ――この刀は、斬った対象の過去を追体験させる。一度ならず、幾度でも。


 渡浪の枕頭には今までに斬り捨てた怪異、かつての担い手たちが討滅したであろう怪異までもが雲集し、夜毎に現在の担い手たる彼の耳元へと果たされぬ未練を囁くのだった。永い夜を終えると、彼は自分の魂の所在が覚束なくなってしまうのを感じた。天地に、誰一人報われる者などいない。そんな哀感が、彼の胸を鷲掴みにした。


(秋徳は、こんな不毛なことを続けていたのか)


 逝ぎてしまえば、後の祭りだった。死者の妄念に二度目の死を呉れてやることも、彼岸に送ることもできはしない。渡浪になにができようか。彼らにしてやれることと云えば、せめてこの身朽ちるまで、怨嗟の声に耳を傾けてやるくらいのものだった。


 絵画的な色彩の連なりに、夕陽が終の火を掛ける。白雲の峰は赤く燃え尽きようとしていた。やがて、昏い灰の夜が降りて来る。舞台は演者の手を離れ、幕引きと相成った。


 渡浪の前を、ちいさな二頭の蝶々が斜交(はすか)いに横切っていった。ひらひらと夕空を舞う連れ立ちに、彼は我と知らず、厳しい視線を投げかけた。渡浪の胸に残響の証跡を残して、蝶は夜の閾の向こう側へと飛び去った。

 












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