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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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幻化の花・七 

 

 私があの女を殺した。私が、他ならぬこの手で殺したのだ。夢の内容は堰を切って蘇る。女の胸乳に埋もる刃の生々しい感触、乱れた夜具とインクの匂い、蜜色の燈り……。


 私は、あれからどうやってここへ帰って来たのだろう。人をひとり殺害せしめた後で、凶器を片手に悠々と、この終の棲家へと帰ったのか。それだけはどうやっても思い出せなかった。


 けれども、ここに私の匕首は実在している。私の恥辱の証は確かに在る。在るべきでないものがここに在る。


 夢か現か、私に判別はできなかった。ただ、匕首にどのような説明をつけようと、私には殺人の記憶がある。ならば、私はあの女を殺したのだ。


 私はベッドから起き上がって、匕首を手に取ろうとした。衰弱した身体は思うようにならず、私はベッドから横倒れに滑り落ちると、腰に絡まりついた毛布を引き摺り、匕首の元へと這っていった。匕首を胸に掻き抱き、押し頂く。それが今や私の象徴ともなったちっぽけな刃は、朝日に赤い鈍色の面を向けて、ほのぼのと匂っている。


「あは、あは、あは」


 痙攣的な笑いが咽喉元に込み上げた。教誨師(きょうかいし)めいた見崎氏の貌が浮かんだ。それへさながら鞭身派の聖女気取りで向かう私自身の姿もが、まざまざと目に見えるようだった。これは、なんという戯画か。


 --私が殺した遊女。彼女の云う通りだった。私は独り善がりな感傷家、大人に成れない子供に違いなかった。


 なにもかも、一切合財が嘘っぱちだった。後悔しかない人生だった。苦界へ身を沈めたのも、つまらぬ意地を張って生家に反目した為だった。特に信念強固だった訳ではない。そんな私に高邁な精神のあろう筈もなく、数え上げられる僅かな美点も、或る種の潔癖が惨めなこころを瞞着して、それが一部の鈍感で正直な人間をも欺いていたという、それだけのことだった。あの善良で疎ましい人々に同じい仮面を被り、私もまた、あの他人の幸福には例えそれがどれだけちいさな慎ましい幸福であろうとも身を切るほどの嫉ましさを覚えずにはいられない、迎合的な割には押し付けがましい性愚鈍な人間のひとりだった。


 色恋に本気になってみようとして漆原に交際した。彼は私に目新しく、詩作に耽る姿は超然として広量な人格を思わせた。彼の有つ寂しさに共感した。本心は、誰でも良かった。彼である必要はなかった。私は少女のこころで、同情の沼地に咲く珍しい花を愛していた。


 結局、私は漆原が詩文に込めてみせるほどの意力を、恋愛の虚構に実を込めるだけの意力を有たなかった。自分に都合良い理屈で継ぎ接ぎした襤褸のような人生だ。最後には業病に喘ぎ、恥辱に恥辱を重ねて、人まで殺す!


 どうして私は、こんな私なのか。どうして私は、私に成りきれないのか。せめて最後は伴侶となれずとも、恋人の理解者として死んでゆくつもりだった。だのに、それを願う私自身の両手が望みを断ち、梟獍(きょうけい)の罪を呑んだ。退路も復路も有りはしない。ここが私のどん詰まりだった。


 匕首を天に捧げ持ち、私は口惜しさに千々に乱れた。こんな私は、生きている価値もない私は、殺してしまう他ないではないか。


 勢い良く匕首を突き下ろして、私は床へこごまった。あんなにも容易く遊女の命を奪った匕首は、私の腹の薄皮一枚すら傷付けることはなかった。


 うう、うう、と細く長い嗚咽が聴こえる。見放された負け犬の遠吠えが聴こえる。


 死ねなかった。死にたくなかった。例え数日と保たない命であろうとも、人を殺した命であろうとも、生きていたい。こんな私のままで死にたくない。こんな最後は厭だ。生きて、生きていたいのに、どうあっても私は終わる。私の軸は音立てて傾き、魂の座標がずれる苦悶に、言葉は意味を失った。


 そうして今、私は岬の断崖に立っている。吹き上がる海風が、女の黒髪を嬲っている。これは夢か現か。きっと、意気地のない女のことだ。匕首に張り付いた指を一本一本引き剥がして、あの胡散な薬の力を借りて夢のなかへと逃げ込んだのだろう。


 だって、こんなにも妖しく紅い蝶が夜空に舞い踊っているのだもの。暗天を覆う紅い星の宿りはこんなにも美しく、おぞましい。そんな光景が、現実のものである筈がないのだから。


 女は月に手を伸ばす。びょうと風の巻き起こり、伽藍に届けと我が手を伸ばし。指先は虚空を掻いて、女は夜のなかへと真っ逆さまに落ちていった。




 胸苦しさに目覚めると、見慣れた天井がいやにくっきりと目に映った。汚れ染みやへこみが等角に結び合わさって、それがなんだか、私を見下ろす人の貌のように思われた。私を嗤って、言葉もなく見守る人の貌。一匹のちいさな蝿捕り蜘蛛が、その上をゆっくりと縦断した。蜘蛛は天井の隅に落ち着いて、営巣の算段をつけている。陽は傾き、衰えた陽射しが室内を物憂く染めていた。


 永い、永い夢を見ていた。眠りから目覚めると、私は布団に横になっていた。頬には乾いた涙の一条。枕頭に置かれた盆には水差しと、切り分けられて萎びた水菓子の幾片。いやというほど見慣れた、『横雲』の座敷だった。


 そうだ、私は昏々と眠りながら、実に永い、永い夢を見ていたのだ。どこからどこまでが夢なのかもわからない、永い夢を。


 私は起き上がろうとして布団を押し退けた。まだ頭がぼんやりとしている。強張った身体をほぐしていると、


「椿さん、女将さんが呼んでますよ」


 階下から私を呼ばわる声がした。華やいだ若々しい声は、牡丹だった。


 寝起きのままでは格好がつかないので、寝惚け眼を擦りつ鏡台に向かった。鏡についと映り込んだ姿に、私は吃驚した。鏡のなかの貌は、私のものではなかった。


 それは、くっきりとした二重瞼をしていた。黒めがちな目をした、薄靄のように曖昧な女。私より少しだけ若い女。病を知らぬ女。そうして私より美しい、私ではない私。


 私は、私の殺した遊女の貌をしていた。短い叫び声を上げて、私は貌を両手に撫で回した。最前まではっきりとしなかった夢の内容が次から次へと鮮明に蘇った。私は、岬から身を投げた筈だった。心臓の動悸が速くなり、私が他人の貌をしながら連続した記憶を保っているということに気づくと、動悸は更に倍増した。


 --私は誰なのだ? 私は、誰であったのだ?


「椿さん、どうしました」


 階下からまたも牡丹の声がして、私は我に返った。


「なんでもないのよ」生返事に取り繕った。


 頭にはまとまりのない考えが散らばっている。この記憶の断片に形ある整序を与えようと骨を折った。死んだ筈の私が、殺した筈の女に成っている。幾つかの確からしい事柄が整理された。それらは悉く現実性を担保するものではなかったが、それでも、浅ましい私はこう考える。


 --漆原にまた会える。


 夢でも構わないではないか。叶わなかった夢の続きはここにこうして在るのだから。私は私だ。着物を着替えるように、私は現在する私という衣を着る。それだけのことだ。


 漆原は数日を待たずしてやって来た。女将は来訪に難色を示したものの、既に私と漆原の関係を半ば黙認しているようだった。この私は先の椿より小器用な女なのだろう。仕事の体面を失わないのであれば、新たな店の看板には女将も強くは出れないようだった。


 私と漆原は再会した。当人たちの望む形でなくとも、再び見えることは叶った。


「最低の、犬畜生みてえな気分だ」


 寝床のなかで、漆原は酒焼けのした声で柄にもなく毒づいた。それでも、彼は多くを語らなかった。


「そのとおり」私は頷いた。「誰でもそんなものだものね。一年中人間でいるのでない。時々、そんな気分を確かめてみたくなって、そんな時には皆ここへやって来るのね」そっと、漆原の頬に触れる。


 誰が知るだろう。私がこの肉体の雑技に、どれだけ真摯に純粋で生な感情を注いでいたかを。誰が信じてくれるだろう。己の運命を知る者の他に、誰がこのこころをわかってくれるだろう。


 漆原との逢瀬は続き、新月の夜がやって来る。人気のない夜を、遊女椿がやって来る。


 今度こそ、失敗の恐れはない。


 これで、私は漸く終われるのだ。けれどもそれは、完全な浄化を意味しない。私の業は私へと受け継がれてゆく。


 幾千、幾万と繰り返された夜を越えて、独り静かに私は待ちわびている。


 夢見たもうひとりの私が私に追い付き、裁きの刃を振り下ろす瞬間を。夢から目覚める、その時を。




 

 


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