幻化の花・六
胸苦しさに目覚めると、見慣れた天井がいやにくっきりと目に映った。汚れ染みやへこみが等角に結び合わさって、それがなんだか、私を見下ろす人の貌のように思われた。私を静かに嗤って、言葉もなく見守る人の貌。一匹のちいさな蝿捕り蜘蛛が、その上をゆっくりと縦断した。蜘蛛は天井の隅に落ち着いて、営巣の算段をつけている。陽は傾き、衰えた陽射しが室内を物憂く染めていた。
それにしても、あの奇妙な夢はなんだったろう。夢のなかで、私は蝶に変身したのではなかった。ただ、蝶という私がいたのだった。私が、私を夢見ている。目覚めた後も、生々しい感触が強く残っていた。私を見る遊女風の女と漆原の姿が、互い違いに入り混じって目に浮かんだ。
どうで思い切れぬ未練、そればかりが私にこんな夢を見させるのだ。無意識の反映があのような馬鹿げた夢を作り上げたに違いない。病人らしい感傷の表れだろう。
だのに、どうしてか私にはあの夢の内容が虚構であったと一蹴することができなかった。私は確かに秋空に羽を打ち、睦み合う男女の姿を目にしたのだ。そうとしか思えない。あれは本当に夢だったのか。疑惑を深めれば深めるほど実感の程度は増していき、夢は現実の私の切り欠きとなる。夢見た遊女は次第に温かな肉身を持つ人物として、息づき始める。今や、彼女は私の焼け付くような憎しみと嫉妬の対象だった。
漆原に会いたい。あれこれと考えまわすうちに思いは募るばかりだった。あれだけ頑なだった心を押し開いたものが、夢に見た女というのは、なんとしたことだろう。一方で、夢の女が果たして私の心が生み出した幻であるのか否か、それを突き詰めてみたいという気持ちもあった。云わば夢の探偵だ。そんな考えは、強迫観念めいて私の心に固くしこっていった。
機会は、間もなく巡って来た。
病状は一進一退し、小林の呉れた薬のお陰か小康を得たものの、依然として本復の見込みはなく、不穏な静寂に日を送った。或いは病も膏肓に入ったのだろう。ひしひしと、命数を覚らずにはいられなかった。
私は数ヶ月振りに化粧台に着いて身を改めた。白粉を濃く刷き、目元の隈と薔薇痣を覆い隠した。髪は洋風にまとめて流し、香を焚き染め、着物に袖を通す。困憊してようやく身支度を済ませた。鏡に映った女は、骨と皮ばかりの幽霊と見紛う姿だった。いや、それよりもっと醜怪な化物のようでさえある。
ひょっとしたら私は既に死んでいて、遊女の未練がひとりこの世を彷徨い歩いているに過ぎないのかもしれない。そういった哀れな霊魂は自分の死んだことにさえ気が付かないものだと聞く。
私は、心を狂わせている。熱に侵された頭で冷静に分析しながらも、私の足は遂に止まることなく奇行に及んだ。
新月の夜だった。私の砂を噛む足音ばかりが高く響く、人気のない夜だった。
『横雲』の軒燈は落ち、二階の窓から漏れる小さな灯火がまるく夜に浮かんで、てらてらと垂れ落ちた灯りがなまこ壁をだんだらに染めている。この時間なら、女将もいないだろう。私は裏の勝手口に回った。
がちゃり、と何かを取り落とす音がした。台所に立った牡丹は私の姿を認めると目を剥いた。姐さん、と彼女の唇が戦慄いた。
「どうして……」
「なんでもないのよ。少し、ここの様子が気になったから寄ってみたの」
牡丹は両手を胸元の辺りに中途半端に引き付けた格好で、勝手口の暗がりに佇む私へ目を据え、身を硬くしている。電燈が青白く瞬いた。
私は、漆原の消息を尋ねようとした。あんなにして取り乱しておいて、遂には思い切れなかった。
「あの人は、どうしているかしらね」
私が自嘲気味に漏らすと、牡丹は顔を引き攣らせて息を呑んだ。
ところへ、二階から誰かが下りて来るようだった。先ほどの物音を聞いて傍輩が様子を見に来るのだろう。面倒になる前に帰ろうかと踵を返しかけたが、我となく思い留まった。息詰まるような予感が、胸を過ぎった。
現れたのは、容色に優れた女だった。くっきりとした二重瞼に黒目がちな目、腰元へ重く煙る黒髪。陰気な、墨絵のような女。それは正しく、私が夢に見たあの遊女に違いなかった。衝撃が私を見舞った。
「椿、さん」牡丹は彼女へ振り返ると、きれぎれに声を震わせた。
すると、この遊女が私の後釜に座ったのだ。新しく女将の引き込んだ女だろう。
「私のお客さんでしょう。後は私に任せて、休みなさい」階段の中途から、女は声を掛けた。
それを聞くと、牡丹は後ろも見ずに逃げるようにして玄関へと走っていってしまった。私たちの視線は交差した。台所の流しに、水滴がばらばらと音を立てた。
「どうぞ、上がってくださいな」
私は頷き返すと、彼女に続いて二階の座敷へ上がった。
座敷は私が使っていた頃にそう変わりはなかった。書き物でもしていたのだろう、文机には紙束が散らばり、シェイドランプの淡い光が乱れた寝具にのっぺりと這っている。私たちは文机に差し向かいで腰を下ろした。
「漆原さんのことでしょう」前置きもなしに彼女は口を切った。
私は受け太刀の気味になって、なんとも返事をしかねた。
「貴方とのことは牡丹から聞いたけれど、そちらから手を引いたのでしょう。今になって、どんな相談かしらね」
「あの人は、今でもここへ来るの」
答える必要があるとは思わないけれど、と云い差して、女は酷薄に口唇を歪めた。
「ええ、私のお得意様ですもの」
では、夢で見たことは全て本当のことだったのだ。身を捩って細く呻き声を上げる私の肩へ手を遣って、女は愛しげな声音でそっと囁いた。
「仕方のないことよ。自然の成り行きだもの。気にしたところで始まらないわ」
女は母親がむずがる子供にそうするように、私の肩を、腕を、根気よく愛撫して、
「だって、貴方は捨てられたのじゃない。貴方が、彼を捨てたんですものね」斬り捨てるように云い放った。
はっとして面を上げると、女の黄色い目は爛々としてこちらに注がれていた。
「いいえ、もっと悪い。自分で始末がつけられないものだから、放り出して逃げたのよ」
「……彼は、これからの人なのよ。お願いだから彼を駄目にしないで頂戴」
「身勝手にもほどがあるわねえ。貴方こそ、彼を馬鹿にしているわよ。ねえ、貴方は彼の母親ではないし、彼も分別のある大人なのよ。当事者同士の問題にどうこう云われる筋合いはないわ。それは貴方も同じことだったでしょう? 第一、私たちの流儀じゃないの。木越さんに生活の面倒を見てもらっているんでしょう。そうしてお義理でも、銜え込んだ手妻で生活さしてもらっているんじゃないの。仕事に綺麗も汚いも、良いも悪いもあったものじゃないわねえ? 貴方は世間心に言寄せて、取り上げられた玩具を取り戻そうとする子供みたいなのね。男を見くびるのも、大概にしておきなさいな」
よし反駁の余地があったにせよ、私に抗弁する気持ちはなくなった。彼女の一言一句は、精確に私の肯綮を射抜いていた。ふらりと、私はその場へ立ち上がった。
「あら、帰るの」
ぐちゃぐちゃと、頭の中身が混濁する。
「でも、貴方の気持ちもわかるのよ。手放したくない気持ち。本当にかあいらしい人だものねえ。罪もない、子供のような……。ふふふ、私のお乳に必死にしがみ付いて」
引き戸の脇に置かれた衣装棚。上から二段目の奥。変わらずに残されてあった、私の残り物。掴んで、引き出した。
振り向いた私に、女は冷笑した。紅を刷いた薄い口唇を撓めて。くっきりとした二重瞼。黒目がちな目。薄靄のように曖昧な女。私より少しだけ若い女。病を知らぬ女。そうして、私より美しい女。
「まさか本気で彼に入れ込むなんて。破れかぶれになっても、なんにもなりゃしないっていうのにね」
座敷に二人。女の背後の出窓に、赤い蝶は幻灯のようにくるくると踊っている。くるくる、くるくる。初めは一頭。それから二頭。そうして無数に夥しく。
私は匕首を抜き放つ。女は慈母の笑みを浮かべて、ストン、と。私の匕首は女の胸へ深々と埋まった。抵抗はなかった。一度、二度、たたらを踏みながらもつれ合い、私たちは出窓の下へと倒れ込んだ。花瓶が転がり落ちて、私のほつれた鬢が一房、女の頬へ垂れた。
「馬鹿だねえ」
花瓶から零れ落ちた水が、じっとりと足袋を濡らした。幻灯の蝶は消え、窓には黒々とした空間が嵌め込まれているばかりだった。
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永い、夢を見ていた。眠りから目覚めると、私はベッドに横になっていた。頬には乾いた涙の一条。サイドテーブルには水差しと、小林の呉れた散薬の包みが置かれていた。
そうだ。私は小林の呉れた散薬を飲んで、それから昏々と眠りながら、永い、永い夢を見ていたのだ。どこからどこまでが夢なのかもわからない、永い夢を。
私は起き上がろうとして毛布を払った。がたりと、床板が音を立てた。転がり落ちた匕首は、真新しい血に染まって、朝日に鈍く輝いていた。