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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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幻化の花・五


 すると、私は死ぬのだ。自分を生の虜囚であると自覚するのは怖ろしいことだった。こんなにも重要なことを頭から締め出して、私はこれまでを生きて来たのだ。誰もが、疑いようもなく死んでゆくのだというのに。死の宣告を受け、それは紛れもない私自身の人生からの通告であるにも係わらず、死は未だ不鮮明だった。死は結像しないままに周囲を取り巻き、濡れた真綿の不安で私を圧し拉いでいた。言語に尽くし難い寒気、それは私がこれから死にゆくことを認めるその時まで続くのだ。人生とはつまり、この途方もない苦痛と虚無の催告に対する、猶予でもあったのだろう。


 酔生夢死。私の人生は、なんとあやふやで味気ないものだったろう。これでお終いというところになって、私は生を噛み締めている。この上もなく苦々しい惨痛ではあるけれども、それすらも直に感じなくなってしまう。


 催告者の指は爛れた夢の中から私を摘み出し、さあ、これがお前の人生だったものだよ、よく見てご覧、と外気の表へ放り出す。そうして、長々と列を成している死者達の屈辱に連座させるのだ。私は羽化を待たずして、蛹のままに死んでゆく虫だった。


 それにしても、この部屋は静かだった。幾人かあった見舞い客も今では滅多に姿を見かけなくなっていた。遊女の交際など、そんなものだった。ちやほやされるのも若く健康でいるうちだけで、美貌が損なわれ悪評が重なればたちどころに人足は遠退いてゆく。そんなことは世の常で、どこでも同じことだろうと云う人があるだろう。それはその通りだ。ただ、私の職業はそれを必要以上に怖れるものだった。思えば、恐怖が私を飾り立てていたのだった。男を自由にする驕慢の花飾りは決して私自身の所有なのではなく、単に私の若さというものに一時貸し与えられていたものに過ぎなかったのだと、今なら身に染みてわかる。花はいずれ散り落ちる。額に皺曲すれば、すなわちそれが花落つるときなのだと、ずっと怖れていた。


 胸元を飾った首飾りは質草に消えた。高価な装飾品は一番に、今では衣類も家具も借金の形に取られてしまった。手元に残ったものは、僅かな日用品と漆原の詩集だけだった。


 ベッドに横臥する私を、安楽椅子に腰掛けた初老の女が見守っている。女は付き添いの介護人で、肺を悪くしているようだった。私と同じように、どこぞでいい加減に身を持ち崩したのだろう。終日言葉もなく、時折、彼女の咽喉がかさこそ音を立てるばかりだった。牡丹が何度か見舞いに来たが、次第に疎ましく感じるようになった。第一、なにを話せば良いのだろう。私はこれで死にますよ、お元気でね。考えるに、彼らは最早、私とは寸毫も関わりがない。私はあらゆるものと手を切り、独りだった。


「どうしてミカ坊には話さないの」


 牡丹は、口を開けばこの調子の一点張りだった。


「会いたくないからよ」


 私がいいと云わない限り、彼には教えないで頂戴。勝手をしたら、恨むわよ。


「後悔するよ、姐さん」


 取り付く島もない私に悲しそうな目を向けて、牡丹は帰って行った。


 後悔すると、牡丹は云う。それこそ、私の望むところだった。私は後悔したいのだった。肉を裂き骨を割る、鞭のような後悔だけが、私の腐敗する心を清めてくれる。かつてそれほどの大事を胸に抱いたのだと思い知らせ、そうして、私の迂愚を罰してくれる。そうでなければ、誰が赦せるだろう。憐れみを恐れ、拒絶されることを怖れるこの私を。


 一人、また一人。この部屋に背を向けて去ってゆく。彼らの背中は、私の孤独を映す鏡だった。冷々とした絶望が胸を掻いた。もっと、静かになったら好い。




「お客様がお見えになりましたよ、奥様」


 そう、介護人の女は云ったのだった。


 大方、私を木越の妾だとでも思っているのだろう。木越との交渉はなかったが、彼は月の初めになると当座の生活費を置いていった。遣り繰りすれば、どうにか暮らしてゆけた。度々、手頃な鉢植えを置いて行ったが、これは余計だった。私にしてみれば毎月花輪が届くようなもので、遣り切れない。


「どなた?」今日は月の初めだったから、どうにも物憂かった。


「はあ、なんでも小林という、骨董商だとかで」


 少しして、私は介護人に部屋へ通すように云った。自分でも意外なことだった。


 重たげなトランクを引き摺った小林がやって来た。相変わらず、西洋の魔法使いのような貌には、人を食った笑顔が貼り付いている。彼は一揖して、奇妙な笑顔を一段に深めた。私は椅子を勧めた。


「お久しぶりで」


「ええ、お久しぶり。まさか、貴方がやって来るとは思わなかった」


「まあ、『横雲』でお話を伺いましてね」


「そう。今更漢方でもないわね」


「いえいえ、お愛想ではありませんよ」


 小林はトランクから紙袋を取り出した。白い無地の、小さな紙袋だった。


「お薬かしらね。用意の良いこと」


「生憎と、特効薬とまではいきませんがね。国内でも少量ながら出回っているそうですが」


「特効薬と云ったって、どうせ高いんでしょう」


「軽々と家が建つ程度には高いようですな。こちらは生薬で、簡便な割に効果は覿面という代物でして」


 臆面もなく胡散臭い押し売りをする小林の貌には、例のにたにたと不気味な笑顔が貼り付いたまま。大きな鉤鼻の下に薄い唇が弓形に反って、艶めいて赤い。どこかで見たことがあるようなその貌は、そうだ、能楽に使われる咲面(えみめん)にそっくりだ。


「眠くなるのが欠点ですが、解熱鎮痛の他、体内の毒素を排出する効果もあります」


「まるで万能薬のような口振りね。でも、そんなもので騙そうとしたって駄目よ」


「騙すだなんてとんでもない。一度でも私が商品を偽ったことがありましたか」


 小林は大袈裟に手を振った。芝居染みた挙措は、私がこれを買うと確信しているからだろうか。それなら、彼の当ては外れたことになる。


「確かめようもない品物ばかりだったじゃないの。それにもう、()()()()買いをする余裕なんてないのよ。なんにも残っちゃいないんだから」


 私はぐるりと部屋を見渡す。窓辺のカーテンが、ゆらゆらと風を孕んで棚引いている。生活感のない部屋。陰気な部屋。私の生きる棺桶。


 視線を追っていた小林が、私へ向き直った。


「こちらは、貴方に差し上げるつもりで持って来たのですよ。長らくご愛顧頂いたご縁に報いたいと思いましてね」


「それじゃあ、餞別に呉れるというのね」


「そんな拗けたことを云ってはいけません。治るものも治らなくなってしまいますよ」


 やんわりと、小林は私を嗜めた。頭痛が、じくじくと振り返してきた。


「どうにもならないのよ」


「では、生きていたくないのですか。貴方は、なんの望みもなく、ただ死ぬのを待つばかりで良いのですか」


 私は、小林に罵声を浴びせて部屋から出て行けと命じることができなかった。消耗した体力がそれを許さないのだった。私は口を噤んで、目を閉じた。しばらくして、小林が立ち去る気配がした。枕元には白い紙袋が残されてあった。


 紙袋の中身は十包からなる散薬だった。馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、終には手を伸ばし、一包を白湯で服した。


 生きていたいに、決まっているじゃないの。


 散薬は飲み下すと、薄荷のような清涼感があった。小林の云っていた通りに、直ぐに強い眠気に襲われた。舌が重く痺れ始め、身体の境界がぼやけるような感覚を味わいながら、深い眠りの底へと、私は真っ直ぐに落ち込んでいった。


 明晰夢というものだろうか。夢のなかで、私は思うが侭に秋空を舞う、一頭の蝶だった。薄紅の羽を打ち、踊り舞う硝子細工。蝶は、風に乗って野川を渡り、木々の梢に安らいだ。


 誰が、この美しい蝶を夢に見ているのだろう。蝶になった私は、そんなことを考える。


 私の(かな)しい片割れは月にいるのだ。破れた伽藍に一人きり、夢の正身を追っている。どうかそこまで飛んでゆけないものか。宇宙に風が吹いたなら、私の羽も届くだろうに。


 蝶が意気消沈すると、彩り豊かであった周囲の景色も褪色してしまう。紅葉に燃える山も、足下を流れる川も、はや墨染めの寒山図。蝶は、心を落ち着けねばならないと思った。水溜りを吸ってじっとしていると、遠方から橋の掛かりに人が歩いて来るのが見えた。


 それは、一人の遊女が愛した男だった。蝶の夢見た、遊女の片割れ。そのかんばせはこの目にはっきりとは映らない。けれども、蝶の世界は俄かに精彩を取り戻した。私は躍り上がって、彼の元へと飛んで行った。


 近づいてゆくと、彼の後ろには一人の女が控えているのだった。女は、男の腕にしな垂れかかった。睦言を交わすように、手指が絡みあう。女の瞳が、私を捉えた。


 蝶は、力なく地に落ちた。硝子の羽は打ち砕かれて、不恰好な生き物が小石の間を足掻いている。ざあっ、と風が吹き抜けて、後には何も残らなかった。







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