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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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幻化の花・四


 木越の誘いにしかとは応じぬまま、幾日かが過ぎた。客を取り、週に一度、木越の邸宅に赴いた。流行の着物を買ったり、仕事仲間と観劇に興じたり、琴を爪弾いてみたり。女将はこれを問題とはしなかった。私は漆原を知る先の私に戻った訳だった。私は足萎えて、杖を失くした落魄者の境涯を厭というほど意識させられることとなった。浪々たる憂身の退屈と、陽の射さない部屋に埋もる生臭い疲労が、雪のようにしんしんと降り積もった。私は大人しく頭を垂れて、されるがままだった。


 こうした生活の乱脈や気分次第の細目が、私の淫奔から生じているのならばまだ良かった。娼婦の暮らしとは、派手な外観とは裏腹におよそ享楽とは対蹠的なもので、生来陰鬱な人間であった私はそれが為に悪所へと落ち来たったのだった。云わば、私の何事につけ決定の意思を欠いた因循が背中を突いたのだ。私が普段に考え事を好まないのも、仰山な話を嫌うのも、そうした自分の弱所を見通すのが辛いからなのであって、そんなことはどこまでいっても果てがないものだし、考え詰めても仕様がないと諦めているからだ。


 時間だけはたっぷりとあり、いよいよ胸苦しさが内攻して堪え難くなるので、店の用足し(かたがた)、新町、坂下の飲食街へ足を運んだ。用事を済ませると『横雲』には戻らず、浜へ向かった。海を、見たかった。


 二月も半ばに差し掛かり、冬枯れの野山には春が訪れようとしていた。道先の人家には鈴生りに、いじらしい梅の花が白く色をつけている。橋から見下ろす川の流れも陽気のせいかなんとなく駘蕩(たいとう)と柔らかく見えて、私の心を誘った。てくてくと歩くうち、頭の内は軽くなってきた。熱が冷めるように、暗い座敷も、木越も、川のせせらぎも、漆原も、みな忘れた。


 私は見るともなく前を向いて歩いていたが、急に視界が展けたと感じた。光の感触が強く額を打った。白浜は、やはりそこはまだ冬の海で、底冷えのする海風は岩肌を薙ぎ、人気のない浜を緑波が黒々と染め返している。私はコートの襟を立てた。


 壮大な展望は私の鬱陶を医するだろうか。広壮な景色を前にしたとき、誰もがそうなるように、自分の心を掬い上げたような心地がした。しかし、青一色の海面はあまりに広大で、取っ掛かりのひとつもなく、折角して掬い上げた心を素直に圧してゆくのは難しい。

 

 私はこの原色のパノラマに落ち着きもなく視線を彷徨わせた。なにか、叫びだしたいようだった。目の裏に空と海は混じり合い、私には段々、空が浜を洗うのだか、海が空を流れるのだか、わからないようになって、油然とむらだつ白雲と、繰り返し砂を舐る白波に、奇怪な戦慄を覚えた。私と海と空は融け合い、絵画的な無意味に還元され、再配置されようとしていた。くるめく虚空に重要な想念が充填されようとしていて、この恐怖から逃げ出したいのに、両足は虜にされて動けない。


 背後に、足音が立った。


 振り返ると、漆原が肩をいからせて、こちらへ歩いて来るのだと知れた。


 漆原は、私の前へ立った。荒い息を呑み込んでいた。手紙の様子とは異なり、赤く腫れた目を瞠って、まるでひたむきな殺人者のようだった。


 どちらも、口を利かない。身を竦ませて、来るな、と私は思った。同時に、漆原の手の平が私の頬を張った。びりびりと、痛みと熱が木霊した。殷々と沈黙が流れた。


 波は、幾度砂を噛んだだろう。私は漆原を鋭く見返した。目には涙が滲んだ。唇をかたく結び合わせ、私も今、人殺しの目をして。


「馬鹿な奴だな。親父に会ったんだろう」


 漆原はそう云って、手を差し出した。


 屹度、漆原はずっと先に私の胸へ一粒の種を植えたのだった。彼の芸術が、芽ぐんだなら最後、それが人生となるものであるように、重々しく頭を垂れていた私の、欲望の花が開こうとしていた。


 漆原の手には僅かばかりの躊躇いもなかった。私が手を振り解こうとは露ほども思わないらしい。漆原の肉の薄い、骨ばった手は熱かった。その手を握り返し、歯噛みして、私は喜悦の声を押し殺した。


 何処へ行くとも知れぬ漆原に手を引かれ、兄の後を慕う妹のように、私は燃える恋に手を染めた。


 もう、どうなっても構わない。花は咲いたのだ。咲いたが最後枯れるまで。咲くことこそ、花のいのち。



 待合の煎餅布団に二人、我を忘れて蜜儀に耽る。そのとき、舌は自由な生き物だった。手指は絶え間なく、悦楽を汲み取った。漆原の上へ圧し掛かり、唇を割り開いて、舌を吸った。ほんのり甘い唾液を吸い上げる間も、片時も目を閉じないで、漆原の瞳へ自分を投げ入れた。ちらめく呪いと随喜の涙が私を満たした。水音、水音、水音。粘稠な水音が私を取り巻いて、ぴちゃぴちゃ、ごうごうとこの世ならぬ音声を響かせるようだった。私の倦み乾いた心は快楽の水域となって、氾濫の渦を巻いた。この一畳が、世界の全てだと思った。


 私はそこから零れ落ちてしまわないよう、漆原の身体に肉身を絡ませ、とりついた。私の蘇生した肉体がどこまでも、残る隈なく開かれてゆくのがわかった。鷲掴みにされた乳房や、尻や、首に暴力の赤い徴が痕をつける。漆原は私の底無しの泉だった。汲み上げるものは悉く、私の養分だった。


 時を忘れた交接の合間に食事を摂り、少量の酒を飲む。そんなことを、夜が白むまで続けていた。待合の小さな座敷には、私たちの混じり合い饐えた体臭が籠もっていた。疲れた身体を休ませていると、漆原が物憂げに煙草を咥えたので、火を点けてあげた。彼は立ち上がると、窓を開け放った。澄んだ冷気が吹き込んで、一夜の澱はさっぱりと吹き払われた。漆原はカーテンの隙間から射し込む朝日をうつつなげに眺めている。室内に舞い上がった塵が、静かに光線のなかにきらめいた。


「どうするの、これから」


「これから?」


 漆原は煙を吐き出した。


「未発表の雑稿が大分あるんだ。そのままで通用するようなものじゃないが、少し手を加えれば見られる。なんとか交渉して、早々に物にしてみせるさ」


「そう」


 彼の仕事はどれだけの高になることだろう。私の借金には手が届かないに違いない。もし、足りなければ財産を崩そう。裸一貫になったところで、惜しむものなどないのだから。それでも自身の身体を買い戻すことができなかったそのときには……。私は、最も深い淪落の淵へ足を掛けているのかもしれない。


「破滅主義の詩人なのよね」


「初めて聞くね。そう、ニヒリズムじゃなくて、〝破滅主義〟だ。云い得て妙だね。君も、破滅したほうが好い人だよ。身柄はどうとでもなるんだしさ、さっさとあの家を出たが良いんだ。君がこのまま『横雲』に年老いて、あの遣り手婆のようになったらと考えたら、あまりに無惨だ」


 今後、向こう見ずな青年の横顔が、私に安寧をもたらすということはないだろう。安心がないだけ、より深い破滅をそこに望むだけのことだろう。破滅とは凝視だった。この身になにが降り掛かろうとも、ひたすらに目を凝らして、味わい尽くすということだった。


「それじゃあ、今日からは私も破滅党の一員ね」


 私たちは痛々しく苦痛を笑った。それから、腰巻一枚の格好でぴったりと寄り添い、朝寝した。


 これは、私も漆原も先から承知のことだったが、何分にも早過ぎた。なるたけ知り合いの少ない浦方の待合を使っていたのだったが、狭い世間に山方浦方といっても、どうで人目は誤魔化せない。騒々しい気配に目を覚ますと、廊下をどしどし踏み鳴らして、頑強な男が座敷に押し入った。『横雲』の雇い人だった。


「案外近くにいるもんで、たまげちまったなあ。おれが舐められているのか、姐さんの肝が太いのか」私たちを睥睨しながら、そう云った。


「肝を据えたのよ」


 雇い人は呆気にとられて目を丸くしたが、やがて口を開いてすはすはと大笑した。


「この小僧を相手に? 冗談は止してくれ」


 私たちの話し声に漆原が起きた。雇い人と私を見渡して、直ぐと事態を察すると、身体を起こして煙草を咥えて火を点け、殊更ゆっくりと最初の一服を吐き出した。何者も目に入らないという様子で、勿体つけた仕草はなかなか堂に入った居直りぶりだった。雇い人が忌々しそうに舌打ちをした。


「なんの御用ですかと聞くんだよ」


「なんの御用ですか」


 漆原は鸚鵡返しに繰り返した。雇い人の顔が引き攣るのが見えた。


「時間が来たんで、迎えに上がったのさ。家の看板をあちこち連れまわされちゃあ堪らないんでね。さあ、お帰りはあちらだぜ、坊ちゃん」後ろ手に入り口の戸を指差した。


「なんで」吸い付けた煙を吐いて、おれが出ていかなくちゃならないんだ、と続けた。


「お客さんはいつも先に帰るもんだからさ」


「成る程、道理だな。それでどうする」


 漆原は私に聞いているのだった。雇い人の視線が私に注がれた。私に期待するような眼差しだった。


「帰らないわ」私は首を振った。


 雇い人は途方に暮れて、情けない格好にくしゃくしゃと貌を歪めた。


「だそうだ。お帰りはあちらだぜ、爺ちゃん」


 こうまで云われては、雇い人の看過できる筈もなかった。彼はわなわなと肩を震わせて、


「これ以上もなく譲歩してやってるんだぜ。黙って出て行けば許してやると云っているんだ。なあ、あんたは余程の変態趣味でもあるのか? 一発ぶっさらって、一から説明してやらなきゃならんのか」紋切り型に恫喝した。


「は」


 漆原はそれを鼻で嗤った。


 とんだ茶番だった。私が制止する暇もない。雇い人は漆原の首を無造作に掴んでその場に立たせると、彼の顔に拳骨を振り抜いた。骨の軋む音がしたと思う。漆原は畳に叩きつけられ、ぐったりと伸びてしまった。それで終いだった。


 私は雇い人に引き摺られて、待合の表へ出た。


「まったく、困らせないでくださいよ。いくら姐さんだって、あんまり好き勝手してもらっちゃあ、女将だって考えますよ」


 逃避行が長く続かないことが自明であるように、雇い人の云うところも尤もだった。『横雲』を追われたなら女衒の手を渡って他所へ流れるしかない。そこは今より劣悪な場所だろうし、新たな借金が増えることだろう。私の身体は元金の減らない借金と同じことだった。


「まるで子供同士に見せ付けられるもんだから、参っちまう。おれみたいのには目の毒ってもんで」


 私を和ませようと愛想でも云うのか、雇い人は道々そんな繰言を漏らした。あれで気骨のある小僧でしたがね、何分若過ぎます。一角の人物になって、銭ここしらえて……。思い出を語るかの風情だった。


 それから私は軟禁状態で、明け暮れ休みなく働いた。待遇は前に変わらなかった。これといった罰もなかった。ただ、働き詰めに働かせて、私の頭から恋の虫を叩き出そうということらしかった。漆原との面会はおろか、手紙の往復も許されなかった。それでも、一所にある心が私を励ましていた。手練手管を尽くして金を集め、借金を返したなら。そのときは、後になにも残らなくとも構わない。自由な身体ひとつを持って、漆原に会いに行こう。燦々と陽の射す、真昼の世界へ出てゆこう。


「姐さんはこの頃、変わったね。前より明るくなったし、自然な感じがする」


 そうかしらと首を捻る私に、牡丹はそうサ、と気持ちの好い笑顔を向けてくれた。そんな自然な、光りのような笑顔を有っている彼女はやはり少し羨ましい。彼女のようになってみたい。そんなことを、考えたこともあったのだ。


 三月ほども休みなく働いて、私は遂に倒れてしまった。精神力より先に体力が尽きた。数日、高熱にうなされ、意識が朦朧とした。熱が引けば、関節がバラバラにされそうな痛みが、日に何度も私を見舞った。股のリンパ線の腫れているのが自分でもわかった。私は女将の所有する貸家へ移送された。医者が一人やって来て、


「失礼しますよ」


 身体をあちこち弄られて、診察の終いに鏡を手渡された。


「ここに、発疹が出来ていますでしょ」


 見れば口元と鼻の頭に小さく、赤い薔薇のような発疹が出来ている。


 梅毒、だった。







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