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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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幻化の花・三


 私が頑なに面会を拒絶するので、到頭、漆原から説明を求める手紙が届いた。女将はそれを私に渋々手渡したのだった。なにを云うでもなかったが、ぴかぴかと疑い深く光る目玉が、面倒事は御免だと、彼女の内心を雄弁に物語っていた。行き場のない人間に、それがどう作用するのか。女将は私のような半端者の扱いを心得ていた。沈黙の威力を、知り抜いていた。


 開封して、中身を検めた。骨太なペン字が二枚の便箋を隙間なく埋めていた。穏やかな筆調に胸を打たれた。遊女の心変わりなど珍しくもないというのに、理由も話さず一人決めに姿を隠した私をなじるでもない。


 それが物足りなくも思った。漆原は私を口汚く罵倒すれば良かった。例え夢幻のように覚束なくとも、一度は将来の誓いに後朝を飾ったからには。言い含めるような筆調は、私に自らがなんら特別な人間でないのだと、つまらぬ平凡な遊女の一人に過ぎないのだと思い知らせるに充分だった。その通りのことだった。年増女の未練が、私の身勝手な自尊心に手傷を負わせているに過ぎなかった。


 私は筆を取り、返事を認めた。あなたの未来を想って身を引こうと考えた。こんな年増の遊女に関わっていてはいけない。他にもっと好い人もいようから、どうか色道に首まで浸った女の繰言と諦めなくてはいけない。


 どれも、私の本心ではなかった。私は書き終わった手紙を両手に裂いた。


 半透明に白く濁った不安の被膜を、一息に突き破ってくれたなら。言葉もなく、一心に。


 私は月並みな問答を弄することに嫌気が差して、手紙を廃した。どうしたところで、すまし顔におさまりかえった返事しか書けそうにない。感情を圧し殺す理性とは、なんて偉大で、低俗なのだろう。


 つまるところ、私は彼に引き留めて欲しいのだった。乱暴な手振りで私の手を取り、こちらだ、と道を示して欲しかったのだ。どれだけ多くの男と枕を交わし、その道に通じたからといって、それが私という愚かしい女の、偽らざる本心だった。


 どれだけ表面を取り繕ったところで、恋愛に一家言を持ったところで、男の逞しい腕と、遠望見晴るかす鷹の目とを、心の底では渇望しているのだった。永い漂泊の生活に入って、私は理性と技術とがこのぬるんだ生理をすっかり征服するものと思っていた。ところが実態はどうだ。私の本質は十歳の女児に変わらない。見知らぬ道に泣き暮れて、差し伸べられる手にも疑いの眼差しを向けている。未来への想像は恐ろしい。賭ける希望の、大きいほどに。


 今や生活が私を飼いならしていた。どんなに低劣で恥ずかしい暮らしであろうとも、また、どのように高尚な職業意識に身を鎧おうとも、変化に乏しい繰り返される日常への愛着が、私を臆病に造り変え、馴致していた。奇妙な嗜癖が固い縄目となって肉身を縛り上げている。私はきっと、自分の孤独に馴れ過ぎたのだ。


 今日は、来客が多かった。実業家の木越は夕刻にやって来た。私がいないと知るとふらっと帰ってしまうらしい彼は、私に一回り歳上の小柄な男だった。口数が少なく、いつもなにか気の利いたことを云おうとして失敗をした。馴染みの客でもあるし、せめて顔は見せておこうと階下へ下りた。


 後輩の牡丹が相手をしていた。木越は座卓に大人しく座って、牡丹の仕掛けた煮麺を啜っていた。なにか云いた気な様子で、牡丹が口元をまごつかせた。


「ご無沙汰しております」


 丼から顔を上げた木越が目を瞬いた。


「おや、看板が泣いているね」


 どのようにも取れた。二束三文の靴下を扱うような、素っ気ない口振りだった。今晩の彼は少しく気の利いた男であるらしい。


「お酒は召し上がりますか」


 箸を置いた木越は、


「では、頂こう」短く首肯した。


 私は木越を座敷へ上げた。


 木越鮎美(きごしあゆみ)は生産実業家だった。元は小さな自動車の部品を取り扱う会社を経営していたが、新機軸のベアリングの開発に成功し、現在では内外に手広く商売をしている。成金と、云えば云えよう。突飛なことをやるようでいて、面白くもない貌をしてやるべきことを淡々とこなす。木越鮎美は英発ではない。地味が取り柄の職人だ、とは本人の弁だから筋金入りだ。目下のところは運良くした資金を無駄にせぬよう運用しているだけで、明白な展望はないのだと、いつか自嘲した。


 四年前に妻を亡くした。自社工場の視察の折、高所から足を滑らせて転落し、その時の傷が元で亡くなったのだそうだ。子供はいない。鮎美という、女か俳人の雅号のような名前が気に入らない。


 短くも長くもない付き合いのなかで、それが私の知り得た木越鮎美のあらましだった。


 木越の愛撫は淡白だった。決して下手という訳ではないけれど、情熱的な交わりを期待できる相手ではない。豆の潰れた無骨な手指が、石のように冷たい。


 なにがこの木石のような男を動かすのだろう。仕事が彼を追い立てるのか。妻を亡くした悲しみが彼を駆り立てるのか。私には解りかねた。石は涙を流さない。


「私を愛していますか」


 ほんの遊びに聞いてみたなら、


「愛していると云えるだろう」


 投げ遣りに返って来ることだけは想像に難くない。例の、二束三文の靴下調だ。


「漆原とか云ったかな。上手くいってないね」


 ぽつりと木越が呟いた。私は彼の腕のなかに身動ぎした。


「知ってらしたの」


「何度も鉢合わせしているからね」


 しばらくの間、沈黙が流れた。厭な感じはしなかった。私に追求を拒む気持ちは生まれなかった。木越は詮索の蔓を引く代わりに、


「今度、小さな店を出そうかと考えていてね。貌の広い人間を探しているんだ。私はその方には詳しくないから」と云い添えた。


「それは、『横雲』のような?」


「いや、いい加減な飲み屋さ。私の別邸のようなものを考えている。君はここの次を考えているのか」


「いえ、まだ……」


「だったら都合だな。君にその気があるのなら、私が請け出しても良い」


 無理にと云うのじゃないが、と木越は続けた。是非にという拘りがあるのではないと彼は云う。どちらでも良いし、誰でも良いのだ。


 それは遊女椿の沽券に関わる問題だった。誰でも構わないと云われて、真っ先に名乗りを上げるなどは遊女の名折れ。それだけに、彼が椿にではなく、恋を諦めようとしている女に向かって云っているだろうことは、はっきりしていた。


 公共に開かれた所有物から、個人の所有物へ。私がひとつ頷きさえすれば、椿を標記とする人間の帰属は書き換わる。きっと、呆気ないほど簡単に変わるのだろう。


 女の生活と、娼婦の生活。考え詰めてみれば、大差はなかった。どちらが余分に自覚的なのかと、それだけの話だった。


「あんまり急で困ります。ちょっと、考えさせてくださいね」


 口先とは裏腹に、安逸の重しは私の天秤を容易く傾けていた。







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