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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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幻化の花・二


 見崎氏は、容易にことの本題へ入ろうとはしなかった。決まりきった決着を見る前に、私という人間を点検してやろう、そういうつもりでもあろうか。


 昼に枕して、明け暮れ馬鹿騒ぎをしている女の内幕とは、彼のように我こそは世間の代表であると信じているらしい人間には、なるほど一等面白い風紀事件に違いない。遊女が世間に対したとき、どんな反応をするものか。大方、そんなことを考えてもいるのだろう。


「貴方は、息子をどのように思いますか」


 私は返答に窮した。


「どのように、とはつまり、彼の人物についてということでしょうか」


「そう、アレがどんな人物と了解しておられるのかをお聞きしたかった」


 幾つかの美質が思い浮かんだ。ひたむきで無垢な心根だとか、感じ易い性質、その癖、何事につけ感化されることを嫌う頑固なところだとか。


 私はそれを思いつくままに口にすれば良かった。けれども、ちょっと躊躇した。見崎氏は目を丸く剥いて、私を穴の空くほど勁く見つめた。待ち構えている陥穽に自ずから言葉を投げ入れるのは辛かった。真実らしい事実も、愛の粉飾も、笑殺されるだけのことだろうから。それが、世間というものだ。見崎氏の両目に空いた、世間という名の陥穽だ。


「アレはね、なにもわかっておらんのですよ」


 ところが、見崎氏は私の返答を待つまでもなく話し始めた。


「まるで月にいるようなのですよ。詩作などしているが、私に云わせれば子供の手遊びに過ぎない。偶さか作品が目に留まって好評を得たからといって、そんなものはいつまでも続かない。人の評価というものは、女のように移り気なものです」


 私は云われるままに苦笑した。


「彼の実作はご覧になったのですか」


「読みましたよ。その上で云うのです。あんなものは長くは続かない。漂蕩者の戯言です。アレは詩人などではなく、只のルンペンプロレタリアートだ。今は時代があのような浮薄を許容しているに過ぎません」


「浮薄、と云いますけれど、いつの時代も芸術はそうした無力から浮き上がって来るものではないでしょうか。私には真実、彼が魂の解放を願って創り上げたものと見えました。それが内容浅薄だとは思えません。彼の作物の実体をご覧になれば、おわかりになることでしょうが、彼の作品は世間を必要としません。儚く、無力ではありますけれど、それが為に不滅なのです」


 実体ね、と苦々しく見崎氏は零した。


 このような面談の場に、芸術について話し込もうとは思わなかった。なにより、そこでこれから手を切ろうという一青年の為に、彼の物した詩文を尤もらしく世間の目から擁護することになろうとは、私の想像の外だった。


「それだから、尚のこと性質が悪い」


 咳払いをして、見崎氏は続ける。


「貴方は、本当に息子を愛してくれているようですね? 一般に女性の愛情とは、夫の愛撫と安穏な生活に対する返礼なのです。貴方の言葉を借りれば、実体、ですか。普通の婦人はこの実体のない愛情を真実の愛と思い定めている。独立自存する実体になんら関わりを有たぬ受動的な感情を、世間では愛と呼ぶのです。支えを求める蔦がどのようなものにでも絡みつくように、どのような対象にでも条件次第に絡みつく、そのようなものをです。アレはこういったことには我慢のならぬ人間のようです。ところで、貴方は連理木をご承知でしょうね? ええ、そう。中国の。どうやらこれと同じことらしい。どのような愛情も、支えなくしては育たない。不滅の愛など、人間にはどうにも荷が勝ち過ぎて、いけないようですなあ……」


 どうやら私にも話が飲み込めてきた。息子をアレと呼ぶ口振りに反して、彼は立派に息子の庇護者だった。差し詰め、私は危なっかしい芸術と愛の庇護者、穏やかな生活の転覆者ということらしい。息子が彼に反目するのも道理だと、私は思った。


 私自身の内実に照らして、見崎氏の見解はセンチメンタルに過ぎ、馬鹿に大仰だった。私は焦れていた。


「アレには私の仕事を手伝わせようと考えています。詩を創るのは、仕事をしながらでもできるでしょう。生活に根を張って、然るべき知見を得て、改めて取り組めばよろしい。わかっていただけますね?」


 見崎氏の長広舌にはうんざりだった。世間と愛と連理木の話など、私にはどうでもよかった。息子さんのことは諦める。二度と彼の前には姿を現さない。それだけのことを約して、邸宅を辞した。

 

 表は薄曇りで、少し肌寒い。小雨がしとしと降っていた。



 数日、熱を出して寝込んでいた。来客が数人あった。木越という実業家の太客と、小林という商人、それから漆原三佳だった。小林だけを座敷に上げた。


「おや、ご病気ですか。貌色が優れませんね。真っ白ですよ」


 床に着いた私の貌を覗き込んだ小林が云う。西洋の魔術師めいた風貌に、中世的な声色。本業は骨董屋とか美術商とか云ったが、どうにも胡散臭い。それでも、折に触れて座敷を訪れては珍しい品を見せてくれるし、頼めば風変わりな日用品も用立ててくれるので重宝していた。


「直に床上げですよ。ちょっと雨に濡れて疲れていただけだから」


「それは良かった」


 少しも実意の込もらない口振りが、却って心地良かった。


「今日はどんな品を持って来てくれたの?」


「ああ、今日はほんの貌見せにご機嫌伺いに参った次第で。特にこれといってありません」


 前に買ったのは香木だったろうか。確か沈香ということだったが、眉唾の代物だった。私には少しばかり、贋作や疑わしいものに向けられる愛好があるのかもしれない。


「ここらも少し冷えてきますから、次は暖まる漢方でもお持ちしましょうかね」


「苦いのは厭よ、私」


「なに、味覚に引っ掛かりがある方が、クセになるもんでして。案外、気に入るかもしれませんよ。おや、その本は」


 目敏く枕頭の一冊に気付いた小林が目を輝かせた。革張り装丁に金の箔押し。表題には『検索機関』とある。漆原三佳の処女詩集、その特別本だった。


「読ませて頂いても?」


「どうぞ、お好きに」


 小林は半時ほども詩集に目を落としていただろうか。やおら貌を上げると、本を閉じて熱っぽい吐息をほうと漏らした。


「いや、堪能しました」


「面白く読めまして?」


「それはもう。可愛らしくて、食べてしまいたいほどです」


「食べてしまいたい?」


 さほど可愛らしい内容とも思えないのだけれど、と首を傾げる私に小林は微笑んだ。全てを柔らかく包み込む慈母の笑みのような、それでいて見た者の不安を掻き立てるような、妖しい微笑みだった。


 小林が帰った後、風呂へ行き、簡単な食事を済ませた。仕事に備えて早く眠りたかったが、目が冴えて仕方ない。仕様もなく机に向かって、漆原の詩集を開いてみた。


 ――に。私の名に続いて、献辞。続いて、『月の伽藍』と題された散文詩が始まる。


 月には、一宇の破れた伽藍があるのだ。


 そんな一文から始まる詩だった。私は短く繋ぎ合わされた語句から喚起されるイメージに自分を重ね合わせてゆく。


 ――像は朽ち、板敷は土に還り、僅かに外観を留めるばかりの伽藍には、庭園に燃え上がる隠数的な灯火に照らされて、青々と血塗れの紫陽花が狂おしく咲きそめている。


 おれはそこで、一人の完全な人間を夢見ている。おれの夢から生まれる、血の通った、完全な人間を……。


 私は詩集を読み進めた。不確かな疑念は、徐々に確かな形を露にしようとしていた。


 信じられないことだった。悪い冗談だと思いたかった。私の夢を食い破り、ひとつの人影が、産声を上げようとしていた。すると、私は本当に……、


 ぱたり、と。紙面に音が跳ねた。


 漆原三佳を、愛しているのだ。



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