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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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幻化の花・一


 女は冷笑した。紅を掃いた薄い口唇を歪めて。くっきりとした二重瞼に、黒目がちな目。頬は(やつ)れ、汗ばんだ貧相な身体には肌着がぴたりと貼り付いて、出来の悪い菩薩像を思わせる。

 

 私より少しだけ若い女。病を知らぬ女。薄靄のように曖昧な女。そして私より、美しい女。


「馬鹿な甘っちょだねえ。まさか本気であんな坊やに入れ込むなんてサ。破れかぶれの思い切りにもほどってもんがあるよ。なんにもなりゃしないってのに」


 座敷に二人。女の背後の出窓には幻灯のように、赤い蝶がくるくると踊っている。


「なんの意味もありゃしないんだ」


 眼裏にちらつく陰が、私をよろめかせた。


 ストン、と。私の匕首(あいくち)は女の胸に吸い込まれた。抵抗はなかった。女には初めからその気はなかったのだろう。一度、二度、たたらを踏んでもつれあい、窓辺にどうと倒れた。女の蒼白な、人形じみた手が跳ね上がる。出窓に置かれた花瓶が転がり落ち、私のほつれた鬢が一房、女の口元へ垂れた。


「馬鹿だねえ」


 それは誰が口にしたのか。私は女の顔を食い入るように見つめながら、彼女の口元に浮かべられた笑みの、冷笑でなかったことに気が付いた。


 花瓶の水が、じっとりと私の足袋を濡らしていた。幻灯の蝶は消え、窓には黒々とした空間が嵌め込まれているばかりだった。



(永い、夢を見ていた。浅い眠りから目覚めると、私は座敷の布団に横になっていた。頬には乾いた涙の一条。いつも、夢の内容を思い出せない。それで、良い。私は夢に興味はない。私は夢想することを好まない。眠りから目覚める私は、いつもこの私だからだ。ただ目覚めを待つだけの肉身。それが私だ。もし、目覚めるのが、私ではない誰かだったなら? それでなんの不都合があろう。無意味なことだ。益体もないことだ。私はただ、目覚めを待つ肉身に過ぎない)



 傍らに共寝する青年の、髪を梳く。むっと男の体臭が鼻先に匂った。


 ――可愛らしいものだな。


 青年は私の胸乳に頭を寄せて、嬰児(みどりご)のように安らいでいる。口から漏れる細い寝息がこそばゆい。この瑞々しい口唇で、彼は詩を諳んじる。片割れた果実。詩人の口唇。胸にそっと押し当てると、ひんやりと幽かに冷たい。


 今夜が最後の逢瀬だった。明日、私は青年の父に面会する。彼の父が、私に息子との関係の清算を訴えた為だ。私は招聘に応じることとした。それは当然のことだった。前途ある青年にして、こちらは不見転(みずてん)芸者の成れの果てだ。道理に(もと)れば情誼(じょうぎ)に悖る。手練手管を尽くして、色道に引き摺り、留めおくような真似は、少なくとも今の私にはできそうにもなかった。


 なにしろ情が移ってしまった。このような場所に入り浸るようではいけないと、強く想うほどには。それにもう、私も若くはないのだから。半端なことは止して、こちらから身を退くこととしよう。


 私は、青年のいない生活を考えてみた。私の暮らしはなんら変化を蒙らないだろう。私以外の誰でもがそうであるように、私は自分の孤独にすっかり馴れているのだから。別の男と、夜の白々明けを迎える日々が続いてゆくばかりだろう。それは今も、同じことだった。


 青年は私を忘れるだろうし、そうなれば、私も彼に興味を有たないだろう。


 恋人の目覚めを待つ間、私はそんな愚にも付かないことを繰り返し念じていた。


 少しうつらうつらするうち、夜はすっかり明けていた。ジュッ、ジュッ、と姦しい椋鳥の声が、庭先から聞かれた。頬杖を突いた青年が、こちらを真っ直ぐに眺めている。


「ごめんなさいね。ちょっと、うとうとしていて、起こしてあげようと思ったのだけれど……」


「いいよ、いいよ」


 まだ寝てたっていいんだ、と青年は目を細めた。


「あんまりだらしなくしちゃ、女将さんに怒られちゃうわね」


「店の看板をどやせるもんか」


 しっかりしなけりゃね、と返して、私はゆっくりと時間を掛けて起き上がった。


「行き先の候補は見つかった?」


 青年の世話をしていると、唐突に彼が云った。私は彼のジャケットを手に、どう答えたものか、僅かに悩んだ。


「でも、直ぐには無理でしょう? 海外旅行なんて」


 我ながら空々しいとは思った。けれど他に返答の仕様がない。青年は私の手から受け取ったジャケットに袖を通した。肩越しにこちらを振り返って、


「そりゃ、時勢だもの。落ち着いてからにはなるけどさ。行きたいところくらいあるだろう? おれだけ浮き足だっているようじゃ、つまらないじゃないか」(かたち)の好い口唇を尖らせた。


「貴方はエジプトに行ってみたいんでしょう。私は特にこれと云ってないけれど……。強いて云えば、モンゴルかしらね。草原と星空を見に、行ってみたいとも思うわ」


 偽りの旅程を口にすることに、私の心はささ乱れもしなかった。罪もない嘘だ。それに、私がモンゴルの雄大な山々や、果てもない草原に心を誘われているのは本当のことだった。遮るものひとつない、原初の星空を渇望しているということは、私の偽らざる本心だ。


「それも好いな。あそこも砂漠みたいなもんだね。緑の嚝野だよ」


 彼は子供のように無邪気に喜んで、熱砂の大地と大草原のしるしを数え上げた。圧し掛かるような空だとか、大きくなったり小さくなったりして続いてゆく、瑰麗(かいれい)な山()()。簡易住居。頬を撫でてゆく風。光の雨。


「どちらでも構わないが、なるたけ淋しいところへゆきたいな」


「なんでしょう。頼りないことを云うのね」


 ジャケットのボタンを嵌めて、彼は優しげな顔で私に向き直った。


「真実らしい事実じゃないか。人も植物も、淋しいところに在るのが、ずっと好い。工芸品だってそうだ。おれはそう思うよ。ところで、最近はちょっとサボテンの栽培に凝っているんだ。こいつは生憎とサハラには生えないらしいけど」


「やっぱりそれも淋しいから好いの」


「変に気になるんだ」


 私は、終日サボテンと向き合い暮らしている彼を思い浮かべた。幾つもの鉢に植えられた、様々なサボテン。あの奇妙なコケットリー。愛嬌のある孤独な多肉植物。これを愛好する彼は、やはりサボテンのような孤独を有つのだろう。確かに、それは彼に似つかわしい。


 誰もが同じことだ。陰を落とさぬ太陽の下に等しく、青年は白熱する砂丘に、私は緑の雲海に、それぞれの孤影を刻んでいる。決して分かち合うことのできないような仕方で、当たり前のこととして。


 夜は明け、私は彼を送り出した。





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