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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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其の名おそろしきもの 裏


「駄目だ! 弓は使うな、遠見サン」


「どういうこと?」


 神懸かる摩耶が弓を射掛けようというところを、夏彦が制した。如何なる料簡かと摩耶は小首を傾げる。人形の作り物めいた金色の瞳が、ひたと夏彦を据えた。


「推測通りなら『伝染される』! 遠見サンはこちらの援護に回ってくれ。それと、奴の舌に影を舐められるな」


 言い残して、彼は空飛ぶ化生の元へと駆け出した。摩耶には忠告の意図が飲み込めなかったが、考えのあることだろう。館での不可思議な法具を見るに、確かに彼もこちら側へ一歩を踏み込んだ人間であろうから。夏彦の背に括られた太刀を、摩耶は黙殺した。


(遣り様は幾らでもある)摩耶は懐から束ねられた神符を取り出した。


 夏彦が刀印を結び、法力が顕現する。化生の重々しい慟哭が四辺に響き、どす汚れた体液が砂浜を濡らした。


(天譴を以って神愍(しんぴん)となさん)摩耶の金色の瞳が爛々と輝く。


 指の股に差し挟まれた八枚の神符が意を汲み、熱を持つ。踊るように優雅な手振りで、神符が投げ放たれた。舞い散る神符は化生の八方に殺到し、神威を以ってこれを縛する。縄打たれた化生は地に落ち、身動きひとつ出来はしない。


 化生の股座に生えた獣面からは、牛の鳴き声にも似たくぐもった音声が打ち零れた。それを金色の双眸が静かに見詰めている。不浄なものを不浄なものと見る。打ち据えるが如く、刑吏(けいり)の鞭のような眼差しであった。


 摩耶の痩身にじん、と熱い疼痛が走った。甘やかな痺れが神経を焼く。


(まさか私は)


 思い付いた疑念に摩耶は頭を振った。そんな筈はない。胸を焼くこの感情の、愉悦などであろう筈はない。仮にも神に額ずき、魔を敷く者には許されざることだ。


(集中、しなければ)


 夏彦はと見れば、化生を前に四苦八苦している。太刀を抜こうとしてそれが叶わぬことに気が付いたものらしい。化生の口元から赤く長い舌が垂れた。浜辺には屋敷からの灯火を受けて両者の影が長く伸びている。そろそろと、化生の舌が夏彦の影に伸ばされた。それをむざむざと許す摩耶ではない。弓を構えた。


 ところへ、間の抜けた胴間声。すわ何事かとその方を見遣れば、砂浜を見下ろす崖先から大声上げて飛び降りる人影。先夜から行方の知れなかった生臭坊主が、空を飛んでいた。


 唖然として口を開いたままの摩耶を尻目に、渡浪がすっ飛んでゆく。弾丸をさながらに一直線に化生の元へと突き進み、右足を叩き込んだ。どずん、と地響きがして、濛々と砂煙が舞い上がった。


 突然、腰を砕くような疼痛に見舞われて、摩耶はその場に座り込んだ。涙ぐんで喘いでいると、耳元で誰かがくつくつと笑った。砂煙のなかから立ち現れた大男は、少年を前に力んで四股など踏んでいる。何時に変わらぬ調子外れな相方の姿がそこに在った。


 摩耶はぐっと膝頭に力を込めて、なんとか立ち上がる。ちらと、夏彦と視線が交差した。どうにか無様を晒すことは免れたようだった。しかしながら、虚脱した身体はどうにもならない。全身が茹るように熱く、吐息も荒い。心臓が早鐘を打っている。


 渡浪と夏彦は太刀をめぐって喃々しているのであろうか。さても怪異を前に暢気なものである。怪異を封じていた神符がバリッ、と音を立てて破れた。


(しまった、集中が途切れた)


 摩耶が声を上げるより早く、怪異の脚爪が渡浪を襲った。突き込まれる爪をあわやというところで交わして、左手の甲で払いのける。同時に、摩耶の左手にも鈍重な痺れが走った。顔を顰めて歯噛みする。理由の判らぬ不調に摩耶は困惑した。


 怪異の猛攻は続く。八本の脚爪が縦横に繰り出され、渡浪は徐々に追い詰められてゆく。効力を失った神符の堅甲が、ぱらぱらと剥がれ落ちてゆく。夏彦が太刀を投げ渡す。渡浪は太刀を掴み取ろうと手を伸ばして、怪異の突進を受けて吹き飛ばされた。


 摩耶の身体を衝撃が見舞う。先までの疼痛とは打って変わって、内臓をフックで引き摺り出されるような激痛。眼界が赤く白く明滅する。腹部の違和感を吐き出すと、少量の血が零れた。


 顔を上げる彼女の視界の先、白刃を提げた渡浪が幽鬼のように佇んでいた。


 ♦


「さて、仕切りなおし」


 神符の護りは既にない。これよりは一切の痛手が致命となる。己が剣法、届くか否か。脳裏を過ぎるのは秋徳との稽古。切歯扼腕の日々。思う様に描いて、斬り捨てた。


 睨み付ける先には八本の凶爪。元は色女の成れの果て。


(弁天様にしちゃあ、ちと醜怪だが)


「推して参るとしようかい」無造作に一歩を差した。


 柄巻に唾して握り込む。手に馴染んだ愛刀の調子を計る。強く、弱く、愛撫するかのように。彼我は未だ遠間に在る。一挙動で殺し尽くすにはまだ足らぬ。


 渡浪の気迫に圧されて、怪異は攻めあぐねていた。渡浪はジト目を呉れながらも、僅かに摺り足で距離を詰める。彼我の間は指呼(しこ)の距離。正眼に構えた太刀が、僅かに上方に逸れる。


 怪異の前脚が唸りを上げた。二本の脚爪の撃ち下ろし。予備動作のない一撃が渡浪の両肩を切り落とさんと襲い掛かり、勢いそのままに()()()()()()()


 びしゃり、と噴出した体液が黒壊色を染め返す。


 (かんぬき)落とし。


 怪異の脚が振り下ろされた時には、渡浪の姿はない。相手の一撃に同期してするりと半身になっている。鼻先を掠める凶爪。この時、既に渡浪の白刃は横合いから影のように追走している。怪異が面前に白刃の閃きを見た時、両の脚は離れ落ちている。


 剣術に先の先、先、後の先の三機がある。前段の技術は後の先に当たる。相手の攻勢をいなし、打ち終わりに畳み掛ける。相手の体勢の崩れたところへ不可避の一撃を見舞う技術である。


 しかしながら、相手の攻撃をいなしてから打つ、受けてから打つ、というのでは遅い。それでは後の先の先たるを得ない。凡庸な反撃になってしまう。機制を制してこその後の先である。


 動作の起こりをして相手の攻め気を誘い、回避と同時に斬り下ろす。如何に主導権を握るかが肝要事である。そうして初めて、遠見秋徳が好んだ小手返し、閂落としは完成する。


 故にこの技の妙諦はじりじりとした間合いの調節と、己をも欺く剣先の幻惑にある。それに比すれば、流水の如き身のこなしも斬鉄の一振りも余技に過ぎない。


 果たして遠見の術理の再現は成った。後は返す刃で止めを呉れてやるばかり。


(さて、どうするか)


 おれはこれを斬るのか。このままに斬れるのか。


 それは怪異への憐憫であろうか。夢に見た光景が蘇る。斬りたくない、そう心に念じる幼い秋徳の姿。寸時の動揺は愛刀を握る手を捕らえた。


「なにやってんだ!」


 夏彦の怒声にはっと正気に返った。怪異は面前から飛び退り、またも上空に逃げやらんとしている。背後の摩耶に目を転ずれば息苦しそうに蹲っている。


(このままにもしておけないか)


「追い詰めるぞ」云うが早いか、夏彦は手にした文箱から護法燕を招来する。


「応」遅れじと渡浪が駆ける。


 二匹の燕は左右に大きく旋回し、館に面した雑木の合間を縫って怪異を追跡する。慌てて後を追う渡浪の耳に人声が聞かれた。館に通じた階段から人が降りて来ようとしていた。


「おい、引返そう。危ないからさ、ミカ」


 なにが危ないものか、慣れているんだ。ステッキを手に制止する相羽青年を押しのけてやって来る者は館の主、漆原であった。怪異がそちらへ身を転じる。漆原の横合いの雑木林に護法燕が白く輝いた。渡浪は舌打ちをひとつ、猛然とそちらへ駆け寄った。


「あっ」


 それは誰の声であったのか。漆原の眼前に上体を起こした怪異が降り立った。女の白い腕が、漆原をひしと抱き留めた。時を移さず、横合いから飛来した刃が怪異を貫き、躍り懸かる渡浪の霊刀がこれを両断する。


 漆原の咽喉が言葉にならない声に震えた。


 怪異は露と消え、目の前には荒気ない息を吐く容貌魁偉の大男。ギトギトと不気味に冴えた刀身を引っ提げ仁王立ちになっている。相羽青年が声を掛けると、大男は白目を剥いてその場にくず折れた。


 まるで糸の切れた人形のように、膝から倒れる。どやどやと人の集まる気配がする。


 雲間から欠けた月が覗く。哲学者の眼差しのような邈焉(ばくえん)たる光が、静かに浜辺を見下ろしている。









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