『摩耶』
今回ちょっとグロいです。
夏彦は文箱に舞い戻った二条の刃を収めると、緞子に包まれた太刀を手に取り、口早に告げる。
「追うぞ、遠見サン。ぼやぼやして漆原達が起きたら面倒だ」
背後にへたばって嘔吐く摩耶へ目だけを呉れた。
「わかっています」口元を拭い、得物を取り直すと覚悟を決して立ち上がる。
思えば、尋常の人間と見えた者が怪異へと変貌する様を目の当たりにしたのは、彼女にして初めてのことであった。それはあまりにも暴力的な変態、人倫を冒涜するが如き代物であった。今にして彼女は自らの職分に恐怖を感じていた。
すなわち、このようなことは今後幾らとも出来するのだと。醜いだけの怪異など問題にもならなかった。害意を向けるものへ抗することに疑念を差し挟む余地はない。けれども、もし自分に近しい人間が変貌を遂げたのなら? 旧知の人間がその実、内に鬼の住まう怪異であったのなら?
それは殊更に自らを無愛想に無感動なものとして装う、遠見摩耶の致命的な隙であった。彼女はそれを都合良く、好んで看過してきた。裏切られたくない。故に自らを装う。人に一歩を置く。
しかしながら、彼女の双眸は、その神にも等しい浄眼は、面前に女の本性を暴いて見せた。それは同時に人間、遠見摩耶の弱所をも暴露し見晴るかすのであった。
職務を忠実に履行することで、自らを鼓舞していた。恐怖を胸の奥深くに仕舞い込んで。
孤立し、瓦に伍することなく、自らを慰撫していた。脆い心を見透かされぬよう。
暗々裏に認めていた全てを晒されたような思いであった。彼女は自らの未熟に歯噛みした。弓を持つ手が小刻みに震えている。今までもそうであったかもしれぬ。黙して、夏彦の後ろについた。
廊下には怪異の体液が夥しく飛び散り、甘ったるい饐えた匂いが立ち込めている。女の体臭を煮詰めたような匂いがべったりと肌身に纏わりつく。ぶちまけられた生温い体液は経血を思わせる。改めて怪異の腹の内に在ったのだ、と摩耶は怖気を震った。
夏彦が粘液に塗れた電池式ランプを拾い上げ、先導する。屈曲した廊下を急ぎ、館を後にした。
痕跡を辿り、浜辺へ降り立った二人の前に怪異が佇立している。必死の逃走で夜着も破れ、剥き出しにされた裸身が灯火を受けて赤々と映し出された。最早逃げられぬと観念したものか。ここで逆襲する腹積もりであろうか。蟹の足にも見える八本の足は、弱々しく右往左往した。
夏彦が手にした得物の緞子を取り去った。摩耶がそれへと目を遣った瞬間、僅かな間隙を見逃さず、怪異は彼らへ丸々と肥えた臀部を差し向ける。女怪の股座がぼきりと音を立てた。
開脚した生白い足が、限界を超えて折れ曲がったのだった。足指の股が会陰部に向けて根元まで切裂け、粘液が皮膜を張り、翼が出来上がる。内圧に耐え切れなくなった陰裂が左右に押し広げられ、膣が外部に勢い良く露出する。と見る間に、赤々とした肉壷が膨れ上がり獣面を成す。
これを眺めているばかりの調伏者ではない。如何に女性変化に肝を潰そうとも、逃げ去る訳にはいかない。出来る筈もない。何故ならとうの昔に彼女は怪異を知ってしまったから。どこへ行っても、この浄眼からは遁れられないのだから。
私は、やるしかないのだから。兄さんの代わりに、いえ、そうでなくっても。
(青によし 縁を結いて 神懸かる)
榊の枝を四囲に配し、場の聖別を行う。
(仰ぎ冀くは、天神地祇八百万神、正に此の処に降臨鎮座坐しまさば、祈請し奉る。その御力を顕現し給い、我が前途の危難を祓い給わんことを)
四辺は神気に満ちて、遠見摩耶の神懸りは成る。見開かれた両の目には金色の光が乱麻と輻輳し、遠見の浄眼は完成を見る。先からの恐怖心は薄れゆき、凪のように平静を取り戻す。感情の一切が抜け落ちて、自らが神の端末へと変性される感覚。全身に力が行き渡り、五感がより鋭敏に強化される。
どこが違うだろう。私と、彼女と。
熱の本流に脳天から貫かれて、そんな考えも露と消えた。下腹部がじんわりと暖かい。ついぞ感じたことのない感覚であったが、
――問題ない。
遠見摩耶は機械的な動作で弓を構え、矢を番える。
殊に今、その者は人にあって人に非ず。幽顕取り持つ一個の機関と成り果てた。その他に縋るものとて無く、焭然たるこの命、敢えて賭するものは無し。元よりこの身の、神に捧ぐる贄なれば。
(天譴を授けましょう)
見目麗しき細指が、矢筈を握る。
ばさり、と音を立て、暁闇の泥濘を化生が飛んだ。