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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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夏彦暗中に利剣を投ずる条



 夏彦は漆原の家人にはあるべき影がなかったと云う。それでは、あの婦人は人に非ざる物の怪なのであろうか。摩耶の職能を以ってしても、今ここに弁別することは難しかった。


 客間は一階部の最奥に位置している。この身は既に怪異の腹中に在るのやもしれぬ。一度沸き起こった疑念は瞬く間に摩耶の念頭を領した。


 直に判るさ、と云い置いて、夏彦少年は腰に吊った古惚けた文箱を畳の上にそっと安置した。右手を上蓋に当てて、じっと何事かを確認するような所作。取り乱した様子もなく泰然とした夏彦に、摩耶は心付いた。


「前に訪問したときから気が付いていたのね」


「ご明察だよ、遠見サン」


 そうであればこそ、多少荒っぽい遣り方でも霊刀の奪還は断行されたのであった。小林の捜索は出目が悪ければ諦める。彼にしてみれば小林の生死はおろか、怪異との遭遇も問題事ではなかった。たとい捜索の糸目を見失うことになろうとも、それなりの報告を上げれば良かった。怪異と遭遇したのなら小林婦人の他、あの奇特な雇い主に別様の調査報告書を提出するまでのことだった。これで幾許かの金子は手に入る。なにより、霊刀の威力をこの眼に確かめることができる。勿怪の幸いとは正にこのことだと、夏彦は内心ほくそ笑んでいた。


「本当に人が悪いですね、君は。準備があったからいいようなものの……。いえ、危険であることには変わりありませんが。昨夜の一ツ目橋も織り込み済みですか」


「いいや、まったく。相羽さんから話を聞いて、面白そうだから行ってみた。それだけのことだよ」


「何時もこのような荒事ばかりしているのですか、骨董商というものは」


「人捜しの方は、そうかもね。それなりに場数は踏んでいるから、遠見サンの足を引っ張るようなことはない筈だよ」


 夏彦の軽薄な物云いは摩耶に面白くなかった。しかし、これ以上に喃々して殊更不愉快を味わうこともあるまい。どの道この危地を共に脱しなければならないのだから、精々その腕前の程を見せて貰おう。摩耶はそう心に念じて問うた。


「頼もしいことですね。それで、夏彦くんはどのように考えているのですか。その、仮にあの女性が物の怪の類であったとして、一ツ目橋の怪異と関係があると思いますか?」口調は自然と拗けたものになった。


「そんなこと知らないよ」


 夏彦は取り付く島もない。摩耶は沸々と腸の煮え返る思いである。これが歳上の風来坊であったなら、飲み込んだ言葉の変わりに拳骨が飛び出ていたやもしれぬ。


「昨夜は興味本位に話を合わせたけれどね、僕の考えは遠見サンと同じなんだ。怪異なんてものはね、出会った端から調伏すれば良い。それを可能にする道具立てがあるんだから。後のことは後の者の勝手にすれば良いんだよ。それをあの大男みたいに、やれ事態の解決だの、全容の把握だのと話しをややこしくするのは、ナンセンスだよ。傲慢だよ。職業人は仕事に徹するべきなんだ」


 問わず語りに話し始めた夏彦を前に摩耶は奇妙に胸が騒ぐのを感じていた。夏彦の怪異に対する態度は、摩耶に本然の流儀となんら異なることはない。只その表情ばかりが異なった。彼は嗤っているのだ。冷笑しているのだ。それがどうかすると摩耶に心憎くて堪らなかった。相似していればいるだけ、僅かな差異が不愉快でならなかった。

 

 摩耶は急躁(きゅうそう)にして彼の前言を相殺する言葉を捜し求めていた。


「……そんなことではいつか死にますよ」喘ぐように、搾り出した。


「そりゃいつかは死ぬだろうさ。怖気づいても仕方がない。そういう仕事だもの。僕はお金を取ってる訳じゃないけれど、これが自分の定めた仕事なんだから、納得しているのさ」


 夏彦は淀みなく答えた。予め準備された台詞を読み上げるように、さらりと云ってのける。


(まるで簡単なことのように云う)


 納得していると。私は、自分の仕様に納得しているだろうか。彼は腰を据えて満足している。全ては意のままであると、敷物のような身体に胡坐を掻いて、一芥(いっかい)の疑念も抱かずに。


「弓を、張りなおします」


 夏彦はぽつりと口の端に微笑を点じて、頷いた。


 ♦


 ちちち、と。断続的に擦過音が聞こえる。


 一刻が過ぎた。あの女は屹度、ここへやって来ると夏彦は云う。


 物騒な代物を家に持ち込まれては、常人とて不安を煽られよう。それが良人の知人であっても等閑にはせず、動向を窺いに来る事は想像に難くなかった。


 彼女は漆原の眼前に闖入者を害するつもりはないのであろう。その気があれば機会は幾らでもあった。そも漆原にしてからが魔に魅入られたものであれば、共謀して食事に毒を盛ることも出来たのだ。


 館は静まり返り、海風がひょう、と寂しげに木枠の窓を揺らした。


 漆原と相羽青年は寝静まった頃合であろう。身の安全は同断の限りではない。


 摩耶は寝具に包まったまま息を潜め、夏彦は窓際に立膝突いて文箱に手を当て瞑想している。文箱から漏れ聞こえる擦過音は、小鳥の囀りのように高調していった。


 囀りは転調し、発条の螺子を巻くように二度戦慄く。


 見開いた夏彦の双眸に宿った確信の光は、伏して待つ摩耶に電雷の如く疎通した。


 渡浪幾三が自らの流儀に反した得物を持つように、勝谷夏彦もまた自らの流儀に反する切り札を呑んでいる。渡浪の僭称する黄泉路送りが対象を抹消し彼岸に送る神器であれば、夏彦のそれは対象の仮面を剥ぎ取り、秘密を暴露する。勝谷の遠祖が興した顕現寺に伝わる秘密法具でそれはある。


 暴いて、滅す。慈悲と理智、二つ合わせて活殺自在。魔性を裁く顕現寺が最奥は今、夏彦の手中に収められていた。


 真言密教の祖、空海が西安から本国へ運び込んだものは真言の秘奥に止まらず、夥しい数の宝器経巻に及んだ。なかには武器もあれば、日用品もあった。目録に漏れた品々にも神仏が宿ると見做され重用された。


 顕現寺縁起の伝えるところによれば、文箱は弘法大師手製の品であるという。或る時、空海は庭先に生まれ出たばかりの雛が二羽落ちているのを見つけた。そのままに置いては犬猫に喰われてしまうだろうと、辺りに巣を探したが見当たらない。親鳥の姿もない。せめて空を飛べるようになるまではと、この文箱に肥育することとした。


 天から落ちた雛は無事に成育し、彼の手を離れ空へと飛び立った。燕石珠(えんせきたま)(らん)じ、璞鼠名渉(はくそなわた)るという有名な句は、後年これを思い起こして書き起こされた、というのは大嘘も良いところであるが、文箱に霊妙な徳の備わることは間違いがない。


 やがて、文箱の警告のとおりに、床板の軋む音が聞かれた。


 きしり、きしり、きしり。足音は次第に客間に近づいて来る。


 摩耶の咽喉元がごくりと鳴った。夏彦が腹中に読誦する。


 ――観想するは深遠なる金胎両部曼荼羅。我が右方に胎蔵界、種を孕みて英々たる霊峰を成さん。我が左方に金剛界、理智を以って九会九山(くえきゅうせん)を成さん。四囲には五大の明王廻りたり。(くだ)れ天の瓔珞(ようらく)。全天の魔の(いづく)んかある。


 黒一色の廊下に灯火が浮かび、客間に颯っと障子の影が走った。同時に映し出される、女の墨絵。


 機は熟したり。夏彦が文箱から手を退ける。

 

 果たして、文箱に収められたものは如何な宝器か。

 

 空海が空に放った二羽の小鳥は彼の元へ帰ってきたのだった。天の使いとして、彼の教えを曲者から護る為に。文箱に収められたのは、二羽の燕。軒下に燕が巣を作れば、一家繁盛間違いなしという。燕は農家に損害を与える害虫を悉く食べる。商家に於いては客人の多く入り来る証左として尊ばれる。仏法に於いても然りである。


 二匹の燕は仏法の守護となった。ならば、彼らは害虫を食むのであろう。端正(きらきら)しい仮面を剥ぐのであろう。


 そっと、女が戸に手を掛け、夏彦が命じた。


「飛べ」


 ぱん、と小気味好い音を立てて、文箱の上蓋が跳ね上がった。


 解き放たれた二枚の円盤は、銀光を放ちながら眼にも止まらぬ速さで飛翔する。それは柄のない、韮の葉状をした二振りの刃だった。回転しながら乙字を描いて交差しつつ、障子を突いて女の墨絵を切裂いた。


 凡そ人間のものとは思われぬ重々しい呻きが上がり、噴出す体液の黒影が障子紙にばらりと散った。


 布団を蹴り上げた摩耶は、この時既に矢を番えている。一射必倒の神気を込めて、間髪入れずに射掛けた。僅か掠るばかりの矢は板壁に突き刺さる。女が身を屈めた為である。


 倒れ伏した女の手元から灯火が落ちる。大写しになった女の背中が、膨れ上がるのが目の当たりにされた。ぐちゃりと肉を裂いて、内側から突出したものは蜘蛛の足か。太々した節足が蠢き、体勢を入れ替える。丁度、仰向きになった女を節足が支える格好に。


 生理的嫌悪に摩耶は口を押さえた。逆流した胃液が咽喉を焼き、口一杯に溢れる。夏彦が舌打ちして太刀に手を掛けるより早く、正身(むざね)を暴かれた怪異は廊下の窓を突き破って、海辺の晦冥(かいめい)のなかに没していた。




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