懐かしき献酬
柱時計が零時の鐘を打った。漆原邸の居間にはかつての悪童二人が、言葉少なくちびちびと酒を舐めている。女は旧友の再会に配慮して、自室に引き上げたものらしい。漆原が席を立った。
「代えの酒を持って来よう。まだ飲むだろう?」
「ああ」相羽青年は充血した眼を向けた。
ゆたゆたと台所に向かう、漆原の背中には宿命的な哀愁が漂うものと見えた。部屋に物が少ないのも、彼の病状を慮ってのものであろうか。あった、あった、と酒瓶を両手に持って漆原は席に戻る。相羽青年は目を伏した。
「そんなに飲めないよ」
「なに? 今日に封を切らないでどうする」
云いながら一本の封を切り、相羽青年の猪口に注ぐ。ぐっと一息に呷った相羽青年の返杯を、漆原は相好を崩して飲み干した。今夜は相手が潰れるまでは付き合おうと、心に決めた二人である。同行人は既に客室に休んでいる。気兼ねなく、献酬を重ねた。
「それにしても、お前が家業を継ぐことになろうとは思わなかった」
「そうか。そうだな。昔は実家が厭で厭で仕方がなかったから。それでも、弱っている親父を見たら、なんだか放っても置けなくてな。他にどうとも片付かない身だったし、丁度良いだろうと思って」
「お前は昔から、そういうところがあるよ。情け深いところが。実家が嫌いだって云っても、本心じゃ親父のことを嫌ってた訳じゃあるまい。おれとは違う」漆原は物思わしげに瞼を閉じ、酒を舐めた。
「そんなことはない。心が弱くなったんだ。見苦しい弁明だよ、ミカ。僕は心丈夫に自分のやりたいことを貫き通せるお前が羨ましい」
「それにも、限りが有る」打ち零して、酒を干した。
それにどう返答したものか。言葉を探し回りながら、相羽青年は新たに酒を注いだ。沈黙が続き、耐え兼ねて口を開いたのは漆原の方だった。
「既に命数は決しているんだ、ジュン。直にこの両目は塞がる。果たしてそれでやっていけるのかどうか。……苦しいなあ。どうにも、これは」最後は声が震えた。
親友の胸裏にはどれほどの苦悩が渦巻いているのか。余人の想像に及ぶ限りではなかった。相羽青年は彼の膿み爛れた心を癒してやる術を有たなかった。漆原は詩人としての命数を賭け、この館を終の棲家と決めて躍り懸かる運命に抵抗している。それに、どのような形であれ口を挟むことは出来そうになかった。遣る方ない思いを胃の腑に込めて、聞き手は黙して待つ。
「どうやって生活していったものか。彼女はおれがどうなろうと、ここに残ると云ってはくれているが」
「あの女性か。……女のことに関しては、僕がとやこう云えたものじゃないが。経済が足らないだろう。それに、きちんとした治療を受けるべきだ。彼女がお前との生活を今後とも望むのなら尚の事だよ。このことを親父さんは知っているのかい。事情を話せば、悪いようにはしないのじゃないか。当分の生活に目処が立つまででも」
「それは無理な話だよ。彼女は『横雲』の昔馴染みだ」
相羽青年は天を仰いだ。前妻を亡くしたばかりの友人に縁付いた女は、またしても色町の女。ここへ殊更に公序良俗を謳うのではない。なにあろう漆原の父、見崎昭洋こそ、議会の人間と協同して元水町から少なくとも表面上は売春宿を淘汰した張本人であった。そこには氏の、前妻に対する当て付けがましい私怨が多分に含まれていた。そうして事を前後した家庭争議から、漆原と父とは水と油のように反目し合っているのだった。
「第一、あの男に頭を下げるなんて業腹なことをおれがすると思うか」
「違いない。けれど、仕方がないじゃないか。……椿さんのことだってそうだ。お前がきちんと間に立って、話し合いをするべきだった」
漆原は小さく呻いた。
「今更蒸し返すなよ。終わったことをおれにどうしろってんだ」
「そういうことを云ってるんじゃない。少しは反省するべきだという話をしているんだ。また同じようなことを繰り返すつもりか? 意地を張って、無茶苦茶にしたいのか」
「ああ?」
漆原は獰猛な貌を向けた。目は据わり、追い詰められた獣のように歯を剥いて。
「お前こそ随分と拘るじゃないか。椿さんによ。気でもあったのか」
今度は相羽青年が呻く番であった。
「……はあ、悪かったよ。ミカ、僕の配慮が足りなかった。別に君を追い詰めたくて云うんじゃないんだ」
椅子に深く背を沈めて、漆原は深々と息をついた。惘然と酒瓶に手を伸ばし、そのまま口を付けて呷る。焼け付いた熱い息を吐き出しながら、
「すまん。熱くなりすぎた。疲れているんだ」
「今夜はもう寝るとしようか。酒が悪いところに入ったんだ、二人とも」
虚脱した漆原に肩を貸しながら、相羽青年は居間を出た。
「なあ。もし本当に行き詰まったなら、僕を頼れよ」
何事かを漆原は口中に反芻した。客室の近くへ差し掛かると、右へ曲がれと云う。
「おれの部屋に来いよジュン。好い詩集が入ったんだ。おれの詩も、もうすぐ、ヒック、出来上がるところなんだ。前よりずっと、好い」
漆原はうつらうつらと、半ば夢の中の様子である。恐らくは意識もないのだろう。わかった、わかった、と相羽青年が背を叩く。彼の脳裏には取り止めもない言葉が廻るのだった。それは一定のリズムで、リフレインする。
ずっと歳を取ったんだ。変わらないものなんてない。変わっていかなけりゃあ、ならないんだ。