表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
序章 渡浪大蝦蟇斬事
4/67

月下奏楽 裏

 

 電光石火、駆け出した渡浪の目睫(もくしょう)に、肉の穂先があわやと迫った。

 

 前方に倒れこむように伏した頭上に、瘴気を纏った大蝦蟇の舌が擦過する。じっ、と音を立て、おどろに振り乱した渡浪の蓬髪(ほうはつ)が宵闇に溶解する。

 

 (さまで敏活でないのが救いよ。戻すに合わせて距離を詰める)


 渡浪は勢いをそのままに、大蝦蟇に肉薄せんと臆することなく疾駆する。弧を描くように転進すると渡浪は、しかしはたと気が付く。


 横目に見る、避けた筈の大蝦蟇の舌が消え失せていた。


 ――それは口中に引き戻されることなく中空に紫雲となって滞留し。

 

 ――引き手も見せぬと云われた剣聖の、秘奥聖殿(ひおうせいでん)の如く。


 大蝦蟇の形姿がその存在にどれほどの意味を持つものか。怪異怪妖の実際に規矩準縄(きくじゅんじょう)はあたらぬ。それが故に、怪異は怪異足り得るのであるから。ぞくり、と背筋に蟻走感(ぎそうかん)


 ぽっかりと開いた大蝦蟇の口からは第二、第三の鞭剣(べっけん)が軟鋼のようにしなりながら()()され、寸毫(すんごう)の暇をも与えず、渡浪を邀撃(ようげき)する。


 この迂闊はけだし、叱責されて然るべきであろう。薬師の口吻(こうふん)を真似れば、程度の低いザマ、ということにもなろう。しかしそこは渡浪の野性の勘が冴え、第二撃を横っ飛びに回避しながら砂埃を上げて着地しつつ、迫る第三撃を太刀の鞘で払い、軌道を逸らすことで窮地を脱した。


 しかしながら、攻め手を欠く。これ以上の不用意な接近は危ぶまれた。渡浪は己が不用意の代償に、太刀に絡げた左手の甲を負傷した。僅か紫雲に触れた左手は、凍傷に焼け付いたように(ただ)れ始めている。してみれば、大蝦蟇本体の周囲に色濃く漂う彩雲の脅威は、これに比べるべくもない。急速接近による一刀なぞ、はなから望むべくもなかったのである。


 (侮っていた。認識を改めなければ)


 渡浪は状況の不利を見て取ると、庭園を横断して、横合いの雑木林に身を投げ入れた。その間も大蝦蟇の追撃は止むことなく、ひとつ、ふたつの石灯籠が、鞭剣の一撃を受けて発破にかけられたように容易く四散した。遮蔽物に隠れていたとて、気の休まることはない。


 (これで少しでも目を誤魔化せれば……。目が、あればの話だが)


 こちらを正眼に見据えた大蝦蟇は攻撃の精度を落とすことなく、寸時まで渡浪の在った空間を、木々諸共に抉り取ってゆく。それは精確に狙いをつけるというよりは、一刻な、遮二無二(しゃにむに)な、掃射といった様子である。回転数はいや増して、瀑布(ばくふ)のような鞭剣の掃射は、確実に渡浪を追い詰めてゆく。破砕され、辺りに飛び散り跳弾する木片や、剣呑な樹皮が、渡浪の背と云わず足と云わず、全身の肉に深々と食い込み、体力を毟り取ってゆく。


 ここは一度退くべきか、ちらとそんな考えが脳裏を過ぎった。

 

 このまま逃げ続けたところで、体力の尽きた端から喰われるか、追い詰められて蜂の巣にされるが必定の道理であろう。これで早々と万策尽きたものか、手にした太刀の他、対抗する術とてない渡浪は、


 結局のところ、またぞろ捨て身の疾走に賭ける他ない。


 じりに焦れて、半ば自暴自棄に雑木林を飛び出そうとしたところを、凛、と響く鈴の音。高速の飛来音。


 ――乾。


 大蝦蟇の巨躯がゆらりと傾いだ。周囲を取り巻いていた彩雲が、一息に吹き払われた。

 

 矢鳴りだ。渡浪は過たず認識する。

 

 それは破断の嚆矢(こうし)であったものか。頭上より飛来した矢が大蝦蟇に突き刺さるのとほぼ同期するように、機と見た渡浪は林を飛び出し、一身を賭して疾駆した。寂々たる湖面を渡る風をさながらに。彩雲は晴朗と吹き払われた。今度は、止まらぬ。


 迎え撃つ鞭剣の一を半身に交わし、卒然、大蝦蟇の姿が視界から掻き消えた。


 いやさ、それは逡巡を許さぬ、捕食者の跳躍である。


 月光に大蝦蟇が踊る。


 舌を巻きつけた梅の木を支点に自らを牽引しながら、全身をこれ貪婪な食欲そのものと擬して、断頭の冷刃(れいじん)の如く落ちかかる、蝦蟇の(うろ)


 しかしそれは、


 あまりに拙速ではなかったか。


 あまりに単純ではなかったか。


 あまりに無謀ではなかったか。


 大蝦蟇が瘴気を身に纏うように、まだ、渡浪は太刀を抜いてすらいないのだから。抜く必要が、なかったのだから。


 この男もまた……。

 

 渡浪に一倍優れた怪異調伏の技術など、有りはしない。彼に出来ることと云えば、腰に佩いた一辰刀(いっしんとう)の力を借りて対象を叩き切るという、この一事のみ。霊刀の助力無くしては、怪異怪妖を両の目に捉えることも出来たかどうか。元より小賢しい手妻を嫌う渡浪である。獣のように正面きってのぶつかり合いの他、持ち得る手段がないものとすれば……。


 故に、それは単純な帰結である。


 渡浪は深々と腰溜めに一足を踏み出し。


 大蝦蟇は今や彼を飲み込まんと虚ろな大口を頭上に拡げ。


 渡浪が(わら)う。


 宵闇に銀糸が走る。新鮮な蜘蛛の糸のように、艶やかに軽やかに、されど致命の速度を以って。


 ――ばちり。


 それは、何時の間に収められたのか。大蝦蟇は月影に雲散霧消し、渡浪はくるりと踵を返して。抜く手も見せずの、黄泉路送(よみじおく)り。


 本殿の屋根には、白装束に身を改めた薬師が、丹塗(にぬ)りの弓箭(きゅうせん)を手に佇んでいる。渡浪、彼方にひっしと目配せしつつの、力こぶ。薬師、暗澹(あんたん)と溜息をついたという。





 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ