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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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秘中秘の一



 やれやれと腰を撫で擦りながら、渡浪は身体を起こした。


「もう平気だ。迷惑をかけたな、琴子」


 ふるふると首を横に振る琴子に代わって、大して悪びれた風もない渡浪を腕捲りが非難する。


「幾ら呑み過ぎたからって、子供に心配かけるようじゃあいけねえよ、旦那」最前まで自分も泥酔していたことなど忘れた風である。白々と眼鏡がそちらを見遣った。


「ああ、あんたたちが連れて来てくれたのか」


「なに、おれたちは嬢ちゃんのお供をしたまでさ」


 なあ、と腕捲りが琴子に笑いかけると、彼女は静々と頷いた。人見知り、というよりは人の好みがはっきりとした琴子のことである。渡浪はそうか、と短く零して琴子の頭に手をやった。彼女は目を細めて満足そうな表情で息を吐く。彼女の小さな冒険は成功裡に終わったのだ。


「なんにしても助かった」


 ともあれ一度宿屋に戻ろうと云って、歩き出した渡浪が大きく蹌踉めくのを慌てて眼鏡が横から支えてやる。


「っとと、まだ酔いが回っているじゃないですか」


「酔っ払ってる訳じゃない。別に仔細のあることだ。単に足が痺れただけだよ」


 四人は連れ立って宿屋へ向かった。繁華街に案内人の二人と別れ、宿屋へと帰着した。帳場のおかみが二人を出迎える。御金神社からの沙汰はないようであった。


「姉ちゃんは戻らんか」


「神社の人と、骨董商の人と、漆原さんって人に会いに行くって云ってた」


「漆原?」


 怪訝そうに云って、渡浪は室に据えられた座布団に腰を下ろす。琴子も彼に倣い、ナップザックを置いて対面に座した。


「依頼主の息子」


 短く云い添えて、琴子は先夜に御金神社で話し合われたことを伝えて聞かせた。


「おじちゃんは、」と云い差して、琴子は渡浪の腰元に目を遣った。平素なら背中に括り付けられてあるか、腰に落とし差しにある太刀が見当たらぬ。どうしたの、と問うに、渡浪はバツが悪そうに後頭部をぽりぽりと掻いた。


「勝谷の坊主にな、してやられた」


 古刀であれば骨董としても価値のあるものなのか。尤も、抜けないとなれば竹光と同じことであろうが。琴子は頷いて、ナップザックから画帳を取り出すと、机の上に広げて見せる。


「霊夢を視た」


 渡浪がそれへと面を向ける。摩耶から伝え聞いてはいたが、初めて雅楽川の異能を目の当たりにする。琴子の描画の腕前は前々から知っていた為に、殊更驚くようなことはない。


「……本当に、この通りのことが起きるのか?」


「絶対に起こる。くつがえることはない」


 ふむ、と渡浪は腕組みをする。そうであればこそ、渡浪の姿を方々に探して回ったのでもあろう。画帳には見たこともない異形の姿までもが描かれている。どの道、太刀をそのままに捨て置く訳にもいかぬ。角を生やした摩耶の剣幕が目に浮かぶようである。


 しかし、それにも増して渡浪に気掛かりなことは、


「空を、飛んでいるように見えるんだが」


 画帳の或る項には、いかさま空を飛び異形へと飛び掛る様が描かれている。渡浪は霊刀を抜いた時に感じる、不思議な感覚を思った。それが霊威なのか、呪いなのかは判らぬが、身体の底から力の湧いて出る感覚を。しかしながら、画中の男は無手である。


「大丈夫」気負うことなく琴子は云う。


 大丈夫なようにする、と繰り返して、琴子はナップザックをごそごそと漁り始めた。渡浪はしばしそれへと目を呉れながら、考える。未来視は絶対だという。条件が揃えば、絶対的に予知の通りに事は進む。換言すれば、必ず条件は揃うのだ。琴子はナップザックから神符の束と液体の入った小瓶を二つ取り出した。


「服を脱いで、おじちゃん」


 云われるままに黒壊色をはだけると、筋肉の隆と締まった上体が露になった。琴子は小瓶の封を切ると、中身の液体を指に掬って神符をぺたりと裸身に貼り付ける。液体の効能でもあろうか、神符を貼り付けられる度、すっと後をひく清涼感がある。渡浪はされるがままである。


 やがて渡浪の上半身は神符で覆い尽くされた。さながら鎧を纏ったかの按配である。


「まるで耳なし芳一のようだなあ」


 上半身が済むと、自然、琴子の視線は渡浪の下半身へついと伸びた。


「貼り付けるだけなら、誰がやろうと構わんのだろう。下は自分でやるさ」


 童女に尾篭な真似をさすまいという気遣いであろうか。渡浪はその場へ立ち上がり、腰帯へと手を掛けた。万万が一ということもある。耳なし芳一のようにうっかり取られでもしたら目も当てられぬ。


 そこへ、すい、と襖を開けておかみのご入来。仕掛けた晩菜を上げにでも来たのであろう。返事も待たずにとは不調法なこと、粗忽も粗忽である。


「はい、はい。お待たせしまし、た?」おかみは皿のように目を見開いた。


 裸の上半身に御札を隈なく貼り付けた大男がこちらへ仁王立ちになり、彼の足元には背を向けた童女が端座している。大男は腰帯に手を遣り、今にも腰のものが露になろうとしていて、


「そんな馬鹿な!」おかみは興奮した。


 慌てて口を押さえて、しかし視線を逸らさぬおかみに、


「なんだ、晩飯かね。適当にそこいらに置いておいてくれ」渡浪は頓着した様子もない。


 それから変な誤解をされても面倒だからと、琴子へ少しの間おかみについて一階で待っているように云い付けた。あい、と応えて琴子はおかみを伴ってそそくさと一階へと降りた。


 おかみと琴子の間にどんな会話のあったことであろう。琴子が平然とした貌付きで戻る頃には、渡浪の始末はすっかりついていた。黒壊色を着て、普段に変わらぬ渡浪である。先ずは折角の晩菜を頂こうということになって、二人揃って慎ましい食事を終えた。


「満足、満足。半日なにも腹に入れていなかったからなあ」


 腹を擦っている渡浪に、琴子が一本の小瓶を差し出す。先ほど神符の押さえとして用いた小瓶ではない、もう一方の小瓶である。


「これを飲んで」


 鼻を摘んで飲むと良いと琴子が云い終わる前に、躊躇するまでもない、渡浪は無造作に開封して中身をくぴりと呑み干した。


「うぇっ、これは酒か? 随分と酸っぱいな」思わず渡浪は顔を顰めた。


「……摩耶が怒るよ」


「なんで姉ちゃんが怒るんだ?」


 琴子はそれに応えず、とにかくこれでおじちゃんは大丈夫、と太鼓判を押した。そうか、それなら良いか、と渡浪も深くは考えずに頷いた。よいせ、と掛け声一つに立ち上がり、


「よし、それなら腹も膨れたことだし、そろそろ行くか。お前さんはここで待っていな」


「わかった。いってらっしゃい」


 漆原の屋敷は先日妖蝶変化を見た岬に程近いと聞く。他に人家も少ない寂しいところであるから、大凡の見当は付くだろう。渡浪は階段を駆け下り、


「出掛ける、小さいのを頼む」とおかみに言い捨てて、返事も待たずに宿を出た。


 画帳に視た光景が、今夜起こるとは限らない。しかし、今夜起こらぬとも言い切れぬ。渡浪は夜の元水町を岬へと駆けた。


 ♦


 変化は劇的なものであった。突然、道を急ぐ渡浪の全身は、火に投ぜられたかのように熱した。駆け足の所為ではない。視界が澄み切り、明瞭となる。後方に流れる景色が、速力を増してゆく。五感が研ぎ澄まされ、自己が拡大する。琴子の授けた秘術の賜物であろうか。何れとも知れぬ神明の助勢を受けて、渡浪は海辺をひた走る。


 どこで道を間違えたのか。渡浪は浜辺を眼下に見る切り立った崖へと行き着いた。浜辺は屋敷からの灯火で頼りなく照らされている。そこへ彼らの姿は在った。


 深々と息を吐く。琴子の言を思い出す。彼女の予言書には太刀を構えた己の姿が在った。してみれば、ここで死ぬことはない。


(良かった。()()()間に合った)


 怪異をしかと見据え、長く助走をつけて地を蹴り跳躍する。大男の影絵が宙を舞った。






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