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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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続・雅楽川琴子の冒険


 さて、時は昼を回って午後二時というところ、大衆酒場『ヨイヨイ』には平時に変わらぬ酔漢が席を占めていた。昼食を終えた労働者が長っ尻で自分の家のように寛いでいる。多くは日雇いの港湾労務者であったが、飲食同業者やご隠居、馴染みの貌を求めて休日の昼から酒瓶を干す者もある。なかでも一際体格の好い、開襟シャツを腕捲りした大男がカウンターに陣取ってうんうんと唸っている。


「……なあ、ちょっと薄くないか?」銚子を一本空けた彼が抗議すれば、


「やだねー。そんな混ぜ物、ウチはやりませんよ」カウンター越しに代えの銚子を用意したおかみが応える。


「そんなことないだろう。……混ぜているんじゃ、ないか?」呂律の回らぬ様子で、ふらふらとこゆるぎする始末。


「そりゃ主人の腕が良いからですよ。それでそんなに酔っ払っちゃってるんだっての」


「本当か? ……なあ、本当か?」


 今度は横合いの眼鏡を掛けた小男に絡み始めた。職場の後輩でもあろうか、気安い調子である。眼鏡は自分のお猪口を轆轤のようにコロコロと回していた。もう随分呑んでいない。


「そんなこと知らないよ。呑み過ぎなんじゃないの」


「馬鹿いったらいかん。これが呑まずにいらいでか。おれからな、酒を奪ったらなにが残る?」


「なにも残らないんだろ」


「それで、おれは、眼鏡……。呑んでもいいか?」


「良いよ。好きなだけ呑みなよ」


「かっかっかっ。最高だな、お前は最高の相棒だ、眼鏡」


 追加の一本、と口にする前に腕捲りの前には銚子が置かれてある。それをさもさも満足そうに手にして、上機嫌に痛飲する。眼鏡とおかみがこればかりは仕方なしと目配せする。


「おれが死んだら、眼鏡、葬式に来てくれ」


「うん、行くよ。それであんたの両の鼻の穴に酒瓶ぶち込んでやるよ」


 かっかっかっ、お前は最高の相棒だ、と嬉しそうに腕捲り。彼は泥酔すると、雑に扱われるのが嬉しくなるタイプの酒呑みであった。


「おう、こんな時間か。……女房に花買って帰らないと」すっくと立ち上がると、視線を宙に彷徨わせたまま、皇帝ペンギンのように身動ぎもしない。


「この辺りに花屋なんてないだろ」眼鏡が云う。


「……おしっこ出る」


「一々報告しないでいいから、早く行って」眼鏡がひらひらと手で追いやる仕草をすると、腕捲りは時折テーブルにぶつかりながら厠へ歩いて行った。


「兄さんも大変だねえ。面倒なのの世話を毎回押し付けられてさ。渡部さんも匙を投げる訳さ。なんであんなにして呑むのかねえ」


「なに、酒呑むのが恥ずかしいから、酒呑むのさ」


「星の王子様」


 眼鏡はにっ、と口の端を寛がせて、


「アレで泥だらけの、傷だらけの、天使みたいな人だよ」


「うーん、やっぱり駄目な人じゃない?」


 あっはっは、と貌突き合わせて興じる二人であったが、ついついと眼鏡の袖を引っ張る者がある。ちょっと目を向けると、


「わ、吃驚した。なんだいお嬢ちゃん、こんなところに」


「アラ、この子何時の間に」


 傍らには洋装の童女が佇んで、服の袖をちょいちょいと引っ張っている。髪の毛は日本人らしからぬ赤毛、体格に比して幾分大きなナップザックを背にした彼女は云う。


「おじちゃんを探してる」


「お、おじちゃん?」


 随分と物怖じしない子だなあ、と眼鏡が聞き返せば、彼女はナップザックから画帳を取り出してカウンターに広げてみせる。それへは精巧な似顔絵が描かれていた。


「わ、凄いね。君が描いたのか」


「へえ、上手なものね。この人を探しているの?」


 おかみに琴子はこっくりと頷いた。


「おかみさん知ってる?」


「うーん。覚えがないかな。貌を覚えるのは得意だけど、ちょっと見たことない人だね」


 二人がなんとか思い当たるところはないかと頭を捻っているところへ、厠からふらふらと腕捲りがカウンターへと戻ってきた。何故か頭から水浸しになっている。


「お、蟹のお嬢ちゃんじゃないか。どした、こんなとこで?」


「この子知ってるの?」


「うん、この間、渡部さんと地引したんだよ。そん時にな。琴子ちゃんていったかな、今日は渡浪の旦那と綺麗なお姉さんは一緒じゃねえのか」


「なんでもその、渡浪さん? ていう人を探してるみたいだよ」


 腕捲りはカウンターに置かれた画帳を一目見て、


「ああ、渡浪の旦那だ。男前に描けてらあ。お嬢ちゃんが描いたのか、すげえなあ」


 琴子は胸を張って誇らしげな様子である。これには腕捲りも酒毒の抜ける思いであったろう。肝心の渡浪の行方については、先日渡部と意気投合していたところ、当地の遊び場を探しているということであったから、旧飲食街へでも行ったのだろうと腕捲りは云う。先夜から帰らぬということは先ず間違いのないところで、大方流連しているのだろう。


「ちょっとちょっと、子供の前でそんな話やめてよね」


「ええ? ああ、おかみの古巣だっけか」


「いや、そんなことは関係なしに、よ」


 腕捲りはひょいと手を上げておどけて見せると、どれ、丁度帰ろうと思っていたところだから、お嬢ちゃんを案内してやろう。一人で行くのはなにかと怖かろう。ずいずいと店を出てしまい、琴子は後をひょこひょこと付いて行ってしまった。


「仕様がない。おかみさん、僕も行くよ。お勘定はここに置いとくから」


「ほんとに。気をつけてあげてね、お兄さん」


 『ヨイヨイ』を後にした三人は旧飲食街へとゆるゆる坂を上って行く。腕捲りと琴子が先を行き、眼鏡が後を追うという形である。道中、腕捲りがなにくれとなく琴子の世話を焼くのを眼鏡は見守った。重たいだろう、とナップザックを持ってやる。側溝に嵌るなよ、と手で制す。知らず、眼鏡の目頭は熱く潤んできた。


 目の前を行く酔漢にも、琴子と同じい年頃の娘があったのだ。彼の娘は疎開先の防空壕で蒸し焼きになった。海老のように背をこごめて、死んでいたのだそうだ。


「おうい、眼鏡」先を行く腕捲りが背後を振り返る。


「ん、なんだよ」


 眼鏡は殊更ぶっきらぼうな調子を装って、俯き加減に応えながら、腕捲りが早く前を向いてくれないかとじりじりとした。今にも、目の淵に溜まった涙が、零れ落ちてしまいそうであったから。


「しっかりついて来いよお、琴子ちゃんに負けるようじゃあ、男が廃るぜ」


「わかった、わかった」


 腕捲りが前を向いたのを確認して、眼鏡を押し上げて涙を拭った。そうだな、と心にひとつ念押しをして、眼鏡はにっと快活に笑った。前では適当な小枝を手に持った琴子がぺしぺしと腕捲りの腿を叩いてなどいる。


「おっ、おっ、旦那の真似か? はっはっは」


 旧飲食街に辿り着いた頃には、山間にとろとろと陽の暮れかかり。適当な家を訪れては人相書きを見せて回ったところ、四軒目が当たりであった。家の婆さんが彼を覚えていた。丁度相手をしていた芸妓の座敷が空いているところであったので、牡丹という芸妓が階下に下りて応対をした。


「なに、旦那が帰らないって?」


「そうらしいね。行き先に見当は付かないかな」眼鏡が云う。


「さあ、とんと。朝方ここを出ていったけど……、随分疲れている様子だったから、他の家に行ったとも思えないねえ」


 眼鏡が少しく貌を染めるのを見逃さず、牡丹が秋波を送って見せたが、困惑する彼を置いて腕捲りがさっさと家を出るので慌ててそれへついて出た。


 その後数軒の家も訪ね回ったが結果を空しくし、一同は来た道を引き返すこととなった。辺りは陽も暮れて徐々に行灯の灯り始める時刻である。ひょっとしたら入れ違いになっていることかもしれぬし、年端もいかぬ童女を夜に連れ回すのも問題があろう。


 旧飲食街のだんだん坂を下っていると、どこかの辻で頻りにうーうーと野犬が吠えている。


「まあ、旦那のことだからひょっこり宿に帰っているかもしれないわな」


 腕捲りが云うのに、琴子は不承不承といった様子で頷いた。その間にも野犬は彼らに盛んに吠え立てている。


「うるせえ山犬だなあ。懲らしめてやる」


「止めときなよ。山犬ったって危ないよ」


 眼鏡の忠告も構わず、腕捲りは野犬の声が聞こえる林の方へと一人でぐんぐん進んでゆく。どうしようかと迷っているうち、琴子までが興味を惹かれたのかそちらへ歩いてゆくので、仕方なしに眼鏡も後を追った。


「ちょっと琴子ちゃん、危ないよ。放っておけばいいんだって」


「うわっ、なんだ!?」


 腕捲りの声が辺りに響き、眼鏡は慌ててその場へと駆けつける。すると腕捲りの足下、雑木の根方に身体を凭れて座り込んでいる大男の姿が在った。目を見開いてこちらを向き、うーうーと唸っている。口からはボトボト涎の零れ落ちて、まるで白痴のような按配である。


「……旦那じゃねえか」


 おじちゃん、と声を上げながら琴子が走り寄る。渡浪はそれをしっかと目に捉え、頻りと何事かを訴える風であったが、どうにも声にならない。先程に山犬の吠えるものと聞こえた音声の正体がこれであった。渡浪の口から涎が一滴、吃音に混じって滴り落ちる。


「これぁ、随分としこたまやっつけたみたいだな」


「だ、大丈夫なのか、この人。急性アル中にでもなってやしないか」


 大人達が銘々に口にするを手で制して、琴子がじっと渡浪を見据える。その様子に腕捲りと眼鏡は気を呑まれて、彼女の動向を見守った。琴子は瞑目し、すっと目を開くと朗々と神歌を唱えた。透き通るような美声である。


「年を経て、身妨ぐる荒神も、皆立ち去りて、千代と見せる」


 歌い終えると、素早く九字を逆順に切った。


 九字とはすなわち、外縛二中立印から始まり、宝瓶印に終わる、臨兵闘者皆陣列在前の九字である。本来、陰陽道の大事とされるこれには様々な異説がある。夏彦の用いる密教の系譜の他、神道にも禁厭法中にこれに近似したものがある。


 九字を切り、神明を指頭に降臨せしめ、対象を縛すのが金縛りの秘術であるから、これを解除するにあたっては九字を戻すことで、宿った神明を送り還せば良い。故に、九字を逆順に切る。除垢の呪は密教では、オンキリキャラ、ハラハラ、フタラン、バソツ、ソワカであるが、神道では先の通りである。


 琴子は術者が夏彦と知る由もないが、渡浪がそうそう酔い潰れるような人間でないことは良く知っている。そこで状態を鑑みて持ちうる知見から打開策を選定した。


 途端に筋肉が自由になった渡浪は盛大にごほごほと噎せ返った。解呪は成功したのである。口元の涎を拭い取ると、ふう、と一息吐いて、


「助かったあ!」


 おじちゃん平気? とその場にしゃがみ込んで渡浪を覗き込む琴子を前に、同道人の腕捲りと眼鏡とはなにが起こったのやら。貌を見合わせてぱちくりと目を瞬かせた。






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