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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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横雲に牡丹

 

 夜が更けて尚、人足の絶えぬ元水町の飲食街を坂上へ向かう。古惚けた石畳に軒を連ねた飲食店の赤提灯、ぽつぽつと疎らに植わった棕櫚の木々。酒場『ヨイヨイ』を通り越してぐんぐん進むと、漁師、船乗りが日毎に杯を交わす安直な遊び場から、やや時代がかった町並みへと趣きを変える。未舗装の街路に蓑垣が見え始め、夜陰に黒々と青桐、門を潜りて歩三十、小路をゆけばなまこ壁の二階建て、料亭『横雲』である。正面ドアに通された、昨今流行の二重取っ手を掴み、ずいずいと店内へ。


 応対に出た老婆へ渡部の紹介であると告げると、少しく風体を見定める様子。なにやら書見でもするような老婆の目付きの、眼光紙背に徹するが如く。而して店内奥手の細長い階段を上がって案内された一室にて待つ事しばらく、とんとんと軽快に階段を上がる音、襖越しに応答して、現れたのが生意気そうな貌した着物女。盆を片手に褄を取り、すらりと室内に入り来る。足元にちらちらと覗く緋の長襦袢の、火炎のような艶かしさ。


「なんだねえ、本当に野武士みたいのが来たもんサ」


「応さ」


 商売っ気のまるで感じられない擦れた挨拶は、男の風体を気にしてのことであろうか。対する男の態度も拘りなく素っ気無いもの。女が快活に笑えば、口元に八重歯が光って、少女のようにあどけない。


「渡部さんの知り合いだってね。アタシは牡丹って云うよ。宜しくサ、旦那」妙な口調で女が云った。


 それに男、渡浪幾三はまたとも鷹揚に返事をしたことである。


 さて、諸兄ご賢察の通り、我らが主人公が一、渡浪幾三の姿はむきつけな云い方をするならば娼館に在った。尤も、この家は表向きそういった事業を廃している。云わば常連客向けのサービスということで、客と寝るかどうかは全て当人たちの自由となっている。当節、娼妓や半素人の腰掛けとしてカフェーが流行しているが、なに、同じようなものと思えば通りが良い。元三業地の名残みたようなものである。


 終戦後の八月暮れ、都市部に進駐軍向けのRAAが生まれると、まもなく黒人兵が大挙して押し寄せた。RAAはRecreation and Amusement Association の略で、内閣主導の下に創設された民間団体であった。それは一般の婦女子を性の放埓から守る為に作られたのであったが、結局のところ性病の蔓延や人倫の低迷などを理由に、翌年早々にGHQは兵士に全ての施設への立ち入りを禁じた。


 RAAには既存する遊郭が指定されることが多かったようだが、都市部から隔たった元水町が指定されることはなかった。RAAが後の赤線と呼ばれる特殊飲食街のモデルであれば、ここ元水町は政府非公認のもぐり酒場、赤線に対する青線であった。


 故に所轄警察署の娼妓名簿に登録のない、云わばフリーランスの娼婦、なんとか楼主から自由となった廃業娼婦、不良少女に不見転芸者、多種多様の娼婦が各々、表面上は料理屋然とした佇まいのそこここに名を連ねていた。待合、貸座敷ほど縛りは強くなく、女給や料理などを主だった労務とすることから、半素人のような者から玄人まで、長く腰を落ち着けている者は多かった。その胡乱とした営業実態から、曖昧屋、曖昧宿などと呼ばれるものの一つがここ、料亭『横雲』であった。


 思うところもあって、先日地引網をした地元の漁師、渡部の云う『良い所』へとやって来た渡浪である。一体に地元に永く勤めた人間は自然、柳暗花明に通じるものである。それが肌の日に焼けた伊達男であれば尚の事。先ず、その眼に狂いはなかった、とほくそ笑む渡浪の、一心に思うところあれども肉欲の隠せない様子。先の妖蝶変化に気が昂ぶっていると見える。万人に等しいとはとても口に出せたものではないが、男女の別なく葬式に呼ばれて朗々と経文をあげる折々には、訳もなくむらむらと獣欲の麻の如く集まり来て、しばしば彼を困惑させたものである。


 して、ここを先途と床を重ね、快楽の底まで浚わんと情事に没頭した後、渡浪は床から抜け出すと出窓に腰掛けての後生楽。メカブと大豆の煮物を肴に酒を呑みつつ、眼下の柳並木を眺め遣る。如何にも女の幽霊が現れでもしそうな、寂しい街路である。もそり、と床から裸の上体をそのままに起き出した女、牡丹が崩れた髪を撫でながら気だるげに云う。


「旦那も勇気があるねえ、こんな女と寝るなんてさ。検査も碌にしてない女として、病気でも貰ったらどうするサ」


 箸の先に大豆を摘もうとして、ぽろり、取り落とした渡浪が振り返り、


「なに、貰えるものはなんでも貰うのさ。美人が呉れるなら尚の事、冥加冥加」箸の先でくるくると円を描いて見せる。


「あっはっは、それを冥加に尽きるって云うんサ。変な坊さんだな。まあ、こっちも検黴なんて願い下げだからね。あいつら、人を物みたいに扱いやがる」毛布を腰巻にこちらも出窓に腰を下ろした。


 渡浪は頓着せず、煮物の小皿から別の受け皿へと黙々と大豆を選り分ける作業に熱中している。ぽとり、またも失敗した。取りこぼした大豆の一粒がてんてんと床を転がった。


「ぶきっちょだねえ」


「細かい作業は昔から苦手でなあ。力の入れ具合がむつかしい」


「むつかしいことがあるもんか。そうだ、梨食べる?」


「それじゃあ、貰っておこう」


 冥加冥加ってね、とくつくつ笑いながら牡丹は寝床の脇に置かれた盆からまだ切られていない、青々しい梨を手に取ると、箪笥から小刀を手に戻ってきた。


「ひらり、ひらり。やい、旦那。お前を殺して、アタシも死んでやろうか」小刀を弄びながら牡丹がおどければ、わははと渡浪が笑う。


 このような場所の作法として刃物の持ち込みは厳禁である。それが為ということもあるが、渡浪は料亭の脇の藪に太刀を隠していた。太刀を佩いた大男を座敷に上げる馬鹿者もいない。働く女給、娼妓にしても座敷への刃物の持ち込みはご法度であった。尤も牡丹が手にした小刀は小指ほどの小さな物で、鉛筆を削るか、果物を切り分けるくらいにしか使えそうもない代物。余程の技量か害意がなければ大事にも至らない。牡丹は小器用に梨を切り分けて皿に盛り付けると渡浪に手渡す。


「そうだ、酒の肴に琴でも弾いてあげようか。これで結構、唄には自信があるんサ」


「うむ、まあ、またにしておこう。事が前後すると興醒めだ」


「妙に形式ばったことを云うねえ。それじゃ残念だけど今夜は止すかね」


 二人しばらくは梨を食いながら酒を呑む。箸の先に牡丹の乳房を愛撫するなどして遊んでいたが、


「ここは良いところだな。長閑で、食い物も美味い。海辺の町ってのも、悪くない」


「ああ、元水町? 確かに良いところなのかもね。こういう商売してちゃ、どこにあっても同じことかもしれないけれど、うん、そうかもね」


「仕事で来たんだが、今度はゆっくり遊びに来ようかね」


「仕事って、お坊さんの仕事? この辺りで誰か亡くなったかなあ」


「妖怪退治に来たんだ」真顔で渡浪が云う。


 目を丸くした牡丹が、堪えきれずに口に含んだ梨を噴出す。飛沫が渡浪の黒壊色に飛んで、慌てた牡丹がごめんごめんと袖口に拭う。


「地主の見崎さんからの依頼でな、御金神社に協力することになったんだ」


「ああ、それじゃあ妖怪退治って、御祓いってこと? 云い方ってものがあるだろうに、変な云い方をするから笑っちゃったサア。それにしても御金神社っていやあ、相羽の坊ちゃんのトコか。今、橋の建て直しにごたついてるから、その関係かな? どう、当たり?」


「大当たり。なんでも神主が病気を患っているらしくてな、その相羽の坊ちゃんと仕事をしているのさ。お前さんは相羽のことを知っているのか」


「そりゃあ、この辺りに長くいる人間なら誰でも知ってるサ。ジュン坊、ミカ坊の悪戯小僧二人組みは」


「へえ。ミカ坊はどうか知らんが、相羽は真面目そうな青年で元不良にも思えないがなあ」


「そこが悪戯小僧ってことサ。子供のクセにこんな色町の方をうろうろしちゃ芸妓にちょっかい出してたんだよ」


 収穫は思いの外であった。牡丹の話に釣り込まれるように渡浪は話の穂を継いでゆく。相羽青年と牡丹、両者の年齢に然程の差はないだろう。坊、坊と呼んではいるが、界隈に名の知れた悪戯小僧とは、牡丹自身の青春の象徴でもあろう。彼女は往時を懐かしむように話し出した。


「アタシのお師匠さんが、ここの看板でね、椿って源氏名だったんだけど、ミカ坊がその椿姐さんに岡惚れしちまったんサ。それでこの辺りをジュン坊とうろうろし始めるようになってね、一躍有名になっちゃった。みんな子供は好きだから、からかわれても上手にあしらってたもんだよ」


 話は牡丹の思いつくままに、あちらこちらへと話頭を転じた。『横雲』の看板に与えられる源氏名が椿であること。牡丹の師匠である椿の『横雲』以前の来歴が不明であること。椿の人品優れたること。元は元水町の良家の生まれであると噂されていたこと。琴の巧かったこと。話は尽きなかった。


「それで、ミカ坊の恋愛は成就したのかね」


「良い仲ではあったみたいだけどね。椿姐さんの方から身を引いた」


「それから」


「それから? ……色々あって、姐さんは死んじゃった」


「岬の断崖から身を投げて」


「……なんだ。全部知ってたのか。趣味が悪いね」牡丹は落胆の色を隠すことなく、貌を強張らせた。すると、あんたもあの口さがない記者連中と同じって訳だ。いや、興味本位な分性質が悪い、と蔑むかのような物云い。渡浪、静かに杯を干して、


「全部は知らないさ。まあ、興味があることは確かだが、ここまで聞ければ充分だ。どうやらおれにも自分の仕事が判り始めてきたよ」


「あんたの仕事って坊さんなんだろ」


「ああ。椿の姐さんの供養が、今回のおれの仕事らしい」


「そう。なら、丁寧に供養してやって欲しいな」


「ああ」


 葬儀とは死者に永別する生者の為のもの。死者の為の葬儀があるとすれば、それは正しく死者を死なせることに他ならない。未練を断ち切る、亡者の葬殮でそれはある。


 床に戻ると、早々に渡浪は眠りについた。それを、牡丹は暫くの間、曰く言い難い表情で見下ろしていた。


 翌朝、空の白々と明ける頃、渡浪は料亭『横雲』を後にした。見送りに出た牡丹が、


「まあ、今度は琴を聴きに来るサ」


「愉しみにしておこう」


「それと、相羽の坊ちゃんに会ったら、たまにはここへ貌出すように云っておいてよ」


「ああ、伝えておく」


「多分、来やしないだろうけどね」


 小首を傾げた渡浪が振り返るに、悪戯な表情に牡丹、


「坊ちゃんの筆下ろしの相手、アタシだったんサ」二人、全くなあ、と笑いあって。


 ひらひらと手を振ってその場に背を向けて、藪から太刀を回収すると、渡浪は『横雲』の門を潜り、柳並木を坂下に向かった。先夜の疲れが取れていないのであろう。全身に鉛のような疲労が残っている。手足の先に、ちりちりと痺れまでもが出ている。はてさて、これはちと頑張り過ぎたかなあ、と一人ごちる渡浪の前に、どうやら見知った貌の少年一人。


「おう、坊主。どうしたこんなところで」


「そりゃこっちの台詞だよ、おっさん。どこに向かうのかとこっそり後を尾けりゃ、曖昧宿にしけ込むんだからな」


 先日とは打って変わった少年の態度に些か面食らった渡浪であったが、どうやらこちらが本地らしいと得心すると、


「それはおれの自由だ。用向きもあったことだしな」


「女遊びがそんなに愉しいかね。全く、お陰で朝っぱらからここらであんたを待つ羽目になっちまった」


 なにか、様子がおかしい。渡浪がそう思った時には、手足の痺れがいや増し、肘先、膝小僧までが麻痺して感覚を失っている。なんだ、と声を出そうとして、声が出ない。


「鈍感だからなのか? 一夜を掛けた降伏修法も効き目が薄いんだからな」


 勝谷夏彦は自由の利かない渡浪から太刀を取り上げると、不敵に笑い、両手を突いて身動き出来ぬ大男を見下ろした。


「遊び疲れたろう? しばらく休んでいると良い」


 素早く九字を切り、神明指頭に降臨し、


「ゆるくともよもや許さず縛りなわ不動の心あるに限らん」


 ――オンビンビシ、カラカラ、シバリ、ツワカ。


 それは不動の金縛と称される、活殺自在の緊縛呪である。渡浪の全身には冷や汗が伝い、心臓は早鐘を打ち、視界が眩暈に揺らぐ。程なくして、放蕩無頼の大男は秘術使いの少年を前に、手もなく意識を取り落とした。






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