往時の残影
あまり話が長くなるのもなんでしょうから、問題の焦点になる彼女に初めて僕が出会った時分のことから話し始めることにしましょうか。
当時、二・二六事件が世間を騒がしていた頃です。次々に叛乱の首魁が処断され、政界に動揺の走るなか、そういった世間には無関心に、一人の娼婦が起こした猟奇事件が取り沙汰されました。詳細に触れることはしませんが、有名な事件でもありますし、皆さんもご存知でしょう。新聞でも多く取り上げられましたし、事件の内容が内容なだけにそれは物見高い連中の好奇を誘うものでした。
僕には三佳という友人がいたのですが、彼もそういった世相に酷く心を誘われた人間の一人のようでした。彼は詩人を志す、僕に三つ歳の離れた、まあ兄貴分のような人間でしたが、その三佳に誘われて待合に行ったのがそもそもの始まりといったところでしょう。
彼は新しく取り掛かる一連の詩作にインスピレーションを得たいのだと云って、そんな色事には無頓着に足踏みする僕の手を無理にも取って、元水町の色町へと向かいました。
悪友はともかく、僕は見た目も貧弱な少年でしたから、危うく門前払いを喰うところを三佳がどうにか話をつけて座敷に上がり、やって来た娼妓が彼女、椿でした。
「餓鬼大将が、子分を連れてのご入来」
開口一番に彼女はそう云い、口の端を歪めて笑いました。だのに、それが意地悪い所作にも思われない。如何にも婀娜っぽい立ち姿であるのに、柔和で擦れたところがない。不思議な人でした。僕などは彼女から立ち上る乳香にくらくらときて、目を伏し黙っていましたが、三佳は胆の据わった男でしたから、自分も登楼するのは初めてだというのに果敢に目的を遂げようとするようでした。
向こうは相手が少年であるし、元より同衾するつもりは毛頭なく適当にあしらうつもりだったのでしょうが、ああだこうだとの三佳の粘り腰に目を細めて、すっと指先に窓辺に置かれた花瓶を差しました。未だにそれがどんな暗号であったのか、花柳界の流儀を知らない僕には分からないのですが、彼女の指差す先にある物を認めると、三佳はすとんと落着したものでした。焦茶色の陶器には椿が生けたものでしょうか、彼女の名の通りに真っ赤な椿が二輪、照り輝く濃緑の葉に支えられて咲いていました。
「今日のところはこれで不勝にしておくれな」云って、椿は琴を準備して、長唄を唄う。
彼女の腕前は見事なものでした。琴の腕は勿論のこと、彼女はやや声音の高い人でしたが、抑制された歌声に僕はすっかり参ってしまった。彼女は長唄に留まらずその時の流行歌も良くしましたから、僕と三佳とは実に愉しく座敷に遊んで、気分を良くして帰路に着きました。
「アレは良い女だなァ」などと、三佳は帰り道に零していました。
それから、僕らは頻繁に椿の座敷に通うようになりました。三佳の生家は金満家ですから、遊興費に困まるということはなかったのです。足繁く座敷に通う僕らを、椿は心配してもいるようでしたが、口煩く咎めることもない。次第に界隈には馴染みも増えて、三佳などは歳に似合わぬ一家言の風でした。その頃の三佳は同人雑誌に投稿した新体詩が大家の目に留まることとなり、勇躍、名を馳せる新人として期待を寄せる声も多く、正に青春の絶頂に在りました。
やがて三佳と椿とは恋人のように睦まじく逢瀬を繰り返すようになりました。事ある毎に三佳が僕を誘うので、これは仕方なしでもなく、稽古事に疲れた折々の気散じに彼について遊びにゆきました。そんな時には同じ見世の見習いが僕の相手をすることが多かった。椿には二、三人の弟子がありましたから。昔のように云えば禿といったところでしょうか。ああ、いえ、これは余分な話でしたね。
さて、それで三佳と椿の二人ですが、比翼の鳥のように睦まじい二人を引き裂いたのは、皮肉にも新進気鋭の詩作家という三佳の勇名でした。三佳は自身の詩作や遊女との恋愛を生家にはひた隠しにしていたのですが、それがとうとう彼の父親の知るところとなってしまった。今まで放任に任せていた父親にも、三佳の放漫は目に余るものでしたから。
関係の清算を求める訴えが、両人の元に下されました。話では椿が父親に面会した折、彼女の方から身を引いたとのことでしたが、ともあれ、二人の仲は元の木阿弥となった。三佳はこれに余程反発したものでしょう、生家を出て母親の名義で建てられた岬の別邸に移り住みました。亡くなった母親の為に建てられたその別邸が何を意味するものか。これは三佳なりの当て擦りでしょう。
次第に僕と三佳との間の往来も少なくなりましたが、彼の女遊びは細々と続いているようでした。またなにか、新しい女に入れ込んでいるということで、これは余人の白眼視を免れぬところでしょう。僕はと云えば自家の仕事に忙殺されて、旧友を訪う暇もなかった。
或る日、町の寄り合いに届け物をする必要があって、夕暮れに一ツ目橋を渡っていると、対岸からこちらへ見知った貌が歩いて来るのが見える。それは椿でした。
「お久しぶりです」とこちらが声を掛ければ、しばらくして気が付いたものか、
「ああ、ジュンちゃん。お久しぶり。また少し大きくなった?」
「いやまあ、ははは、お陰様で」
「お家の御用事で?」
「そうです。ちょっとこれを届けに」手に持った荷物を掲げると、
「そう。気を付けて行ってらっしゃいな。もうじき日も暮れるから」
僕はその時、彼女の疲れ果てた表情に、蹌踉めく足取りに、束の間何事かを思ったのです。会えば云いたいことも、あった筈なのです。けれども、気を付けて行ってらっしゃいと云うなり、橋の欄干に身を凭れて川面を覗き込む彼女に、口にするべき一句がどうしても思い浮かばなかった。また琴を聴きに行きます、また遊びに行きます、どんな言葉でも良かった筈です。けれども、僕は何も口にすることはなかった。会釈一つして、彼女と擦れ違った。夕陽が照らす鬢の解れた蒼白な横顔を後に残して。
その日の深夜、椿は岬の断崖から身を投げて死んだのです。
もし、あの時、僕が適当な言葉を彼女に掛けていたら。ひょっとしたら、彼女は死なずに済んだのではないだろうか。思い上がりかもしれませんが、それでも、ひょっとしたら、と。それが僕の未練といえば未練らしい彼女との思い出です。
はい、三佳がそれからどうなったかですか? さあ、彼女の自死は知っていることと思いますが、彼の心中を忖度しても仕方がないでしょう。別邸に引き篭もった後は、父親の紹介で知り合った女性と結婚したそうですよ。その妻とも先頃死に別れたようですが……。余程、女性との巡り会わせが悪い男なのでしょう。
彼の名前、ですか。今は漆原三佳を名乗っている筈ですよ。これは彼の母親の旧姓です。ええ、まあ、皆さんに隠し立てすることもないでしょう。三佳の父親は、皆さんもご存知の見崎昭洋氏ですよ。