波間に消ゆ
妖蝶の荘厳な乱舞に心を奪われたのも束の間のこと。真っ先に動きだしたのは、一同の先登を勤める摩耶であった。神符を指の股に挟み込み念を込める。彼女を中心として展開された神符は白い光輪と変じて、闇夜に朧と浮かび上がった。摩耶の浄眼が対象を捉え、意を決すると、神符の光輪は滑るように弧を描きながら、妖蝶もろとも夜の闇を切り裂いてゆく。
無抵抗に身を開くばかりの妖蝶は、羽虫のように呆気なく霧散していった。神符は不規則な軌跡を描きながら疾駆し、鼠花火のように音を立てて四散すると、今度は辺りに漂う妖蝶を無作為に巻き込んでゆく。
その前衛芸術の如き光景を前に固唾を呑む相羽青年であったが、どうしたことか、並び立つ渡浪までもが何事かをむっつり考え込む様子である。
果たして、渡浪は見崎氏に面会した折、彼が口にした亡魂という言葉を思い出していた。よし触れた人間に悪夢を見せるという怪異であったにしろ、目の前に転々翻る妖蝶は、怪異と呼ぶには些か貧弱に過ぎた。それは人に仇なす存在というにはあまりにも弱々しく、正に亡魂、人魂と云うような印象を渡浪に与えた。或いは救いをでも求めるかのように、何事かを訴えんとする亡魂。
――何れ、斬れば分かることだ。
しかしながら太刀を抜くことを躊躇うのは、彼の生業に由来するものであろうか。そんな渡浪の逡巡を捉えた夏彦はどこか底意地の悪い笑みを口元に浮かべて、
「こちらの方が本職らしいことだね。或いは、趣味が悪いだけかもしれないけれど」と零した。
どういうことです、と夏彦の繰言を耳にした相羽青年が聞き返すも、少年は苦笑いをひとつ。満足な返答を与えもせず、大仰に首元をすくめて見せた。
ここで、妖蝶の動きに変化が見られた。神符の脅威に恐慌に陥ったものか、一同の周囲を緩やかに漂うばかりであった妖蝶は、一斉に高度を上げる。雲霞のように寄り集まり、天に向かって伸びる薄紅の光帯を成すと、何処かへ飛び去らんとするようであった。
「都合の良いことですね。密集したところを一網打尽にします。琴子」
「ん、わかった」頷いた琴子が追加の神符を手にして摩耶へ駆け寄るところを、
「それは待った方が良いんじゃないかな、遠見サン」片手で制した夏彦が云う。
案の定、険しい貌をした摩耶が何故かと問い返すに、
「妖蝶のこれが敗走だとは限らないからだよ。なにか目的のあることかもしれない。片っ端から調伏するのは、それを確認してからでも構わないと思うんだけどね」
「……話になりませんね。相手の出方を窺うなど下策も良いところです。凡そ、我々を危地に招じ入れようという魂胆でしょう。それにうかうかと乗るような真似はできません。今ここで、討ちます」
「まあ待てよ、姉ちゃん。坊主の云うにも一理ある」
何時の間にか渡浪の小脇へ非難していた琴子を連れて、渡浪がずいと二人の間に入った。眉根を寄せながら物言いたげな夏彦も、加勢とあれば横合いに口を挟むことも憚られた。
「……渡浪さん」
「確かにおれたちを招じ入れようという魂胆のあることかもしれん。しかし、おれたちの目的はあくまで事態の解決であって、妖怪退治じゃない。無論、必要があれば退治するのも吝かでないが、それは妖蝶発生の全容を把握してからだろう。事実確認は依頼主の意向でもある」
「しかしそれでは」
「手応えのないのが、気に掛かるんだ。それに、どうも数が多すぎる」
何れとも、摩耶の訝しく思うところではあった。今ここに殲滅することは容易であっても、妖蝶発生の原因が分からない限り、根本的な解決にはならないことも理解していた。それでも、被害の甚大に及ぶ可能性を敢えて選び取ることを、摩耶は肯んじなかった。
「摩耶は心配性」ぽつり、琴子が零した。
驚いた摩耶がそちらを向けば、童女と大男は仔細らしく目配せなどしている。
「目下、心配の種と頭痛の種とは貴方方お二人のことなのですが……」と、これには幾分毒気を抜かれた様子。
摩耶はなにも相方の提案を無碍にしようという訳でもない。先日の一件で渡浪が挙げた功績を、内心ではそれなりに高く評価していたのであるから。手放しに賞賛できる代物ではなかったにしろ、門外漢であった男が事態解決に貢献を成したことに疑いはない。尤も摩耶の流儀に負けず劣らずの荒っぽい遣り口ではあったが。
(してみれば、どちらも似たり寄ったりということですかね)
また、近々見知ったばかりの少年までもが一同に列している今、状況の把握と仕切り直しに異論はない。斯様に奇怪な光景を目の当たりにして動じる様子もない夏彦少年は、彼自身の云うように一般人ではなく、こちらの道に一脈通じている人物であるのかもしれなかったが、そうであれば尚の事、言い含めておきたいこともある。
「……わかりました。では、次善の策を講じましょう」
「応、それが良い」と、態度の軟化した摩耶に渡浪は胸を撫で下ろした。
「妖蝶の跡を付いてゆくということですか?」
相羽青年の尋ねるに、振り向いた摩耶は云う。
「はい。目標の討滅から、方針を転換しようと思います。確かに、情報は多いに越したことはないでしょうから」
相羽さんはどうしますか、とうっかり続けそうになるところを、摩耶はぐっと堪えた。ともすれば不躾な物云いと捉えられかねない言句の出掛かったのは、部外者の夏彦をどう処置したものか、そんな考えが摩耶の念頭を離れなかった為であった。相羽青年に彼を送り届けて貰おうかと思案したが、妖蝶は家路を辿る者を追走するということだから、彼らが一同に別れて背中を向けた時、果たして無事であるかどうかはわからない。妖蝶は気が付けば彼らに併走しているかもしれないのだから。
「そうですね、それが良いかもしれません。勝谷さんですが、彼は僕が宿まで送り届けてきましょう。なにかあってはいけませんからね」
「僕は皆の後に付いて行くよ、相羽さん。あの蝶々には興味があるしね。それに、ここで僕を送って帰るなんてのは、下策もいいところだと思うよ。遠見サンも自分の眼の届くところに僕を置いておいた方が安心できるんじゃないかな」
あくまで我意を通そうとする闖入者に、相羽青年が細く溜息を吐いて傍の摩耶を窺う。彼女は渋々といった様子で首を縦に振った。それを目にして、してやったりと快活に笑うが夏彦少年。何れ排他我見の跋扈する小世間なれど、この横紙破り、颯爽とした出で立ちとは裏腹に厚かましいと云おうか、強かと云おうか。毛色は違えど面倒な人物を抱え込み、保護者二人は悩ましくこめかみを押さえたことである。
「勝谷さん、貴方は自分を一般人ではないと云っていましたが」ちらと妖蝶の去りゆくのを見ながら、歩きながら話しましょう、と摩耶。一同もそれに首肯して、川辺を下り始める。
「――骨董商なのでしょう? 貴方は」
「うん、骨董商で、学生で、蒐集家なんだ。どれも仕事の範疇だよ」
「いえ、そうではなくて」
「ああ、うん。天眼通だっけ? それとも浄眼と云った方が良いのかな。僕のこれは後天的なものだけど、はっきりと視えるよ。怪異に遭遇したことはなにも今回が初めてのことではないし、ほら」云って、腰道具のようにベルトに吊った木箱や柄の付いた小物をぽんぽんと叩いてみせる。
「幸いなことに古寺に纏わる家系の出でね。寺はとうに潰れちゃったし、法具法橙も散逸して久しいけれど、護身に使えるもの位は用意があるよ」
「それでも、神職者という訳ではないのでしょう? こちらの事情は相羽さんの様子を察するに理解のあることとは思いますが、遊びではないのですから、このように危険な事に関わるのは関心しませんね。なにより学生ということですが……」
摩耶の些か教戒じみた弁舌に夏彦はのらりくらりと返事をしては楽しそうに笑っている。それを黙って後ろに観察していた琴子が、
「なにかむずかしい話?」と渡浪を仰ぎ見て尋ねれば、
「なに、難しいことはない。アレは警戒しとるんだ。自分の領域に見知らぬ人間が踏み込んで来たので、態度を決め兼ねているんだな」
「なわばりあらそい?」
「縄張り争いだな。どうにか一応の身分証明が出来たので、安心したんだろう。何時ものように舌が良く回っているだろう?」
「じゃあ、アレはあいさつみたいなもの?」
「挨拶だな。どうにか主権を確立出来そうなので、安心したんだろう。アレで意外と人見知りをするからなあ。態度が決まれば、気兼ねもないというものだ」
「大体、何であれ一本気に打ち込むが良いのです。あちらこちらと目を転じれば、一向、身に付かぬものなのです。それが」
くるりと、摩耶の顔が背後を向いた。見咎められた渡浪がひゅう、と口笛を吹く。琴子は真似をしようと口を窄めるが、細く息が零れるばかりで綺麗に音色が出ない。
「そんなはしたない事は覚えなくて良いのですよ、琴子」
「……おこられた」
「怒られたなあ。口笛は駄目でも、草笛なら怒られないかもしれないぞ。どことなく品があるからな」
そんな按配に軽口を叩きながらも、一向は妖蝶の群れを追って、尚も川辺を下ってゆく。弛緩した空気が漂うなか、終始無言であった相羽青年の、海辺に近付くにつれて表情の強張ってゆくのを、摩耶の小言を聞き流しの夏彦少年一人が、どこか醒めた視線に見逃さなかった。
◆
行き着く先は岬の突端、浜辺を迂回して辿り着いた断崖の下。波飛沫を浴びて薄絹一枚の女が、波間から頭を出した巌の上に倒れ伏していた。
「そんな……」誰かがそう口にする。
白い襦袢は切れ切れに、木っ端屑のように巌にへばりつく女。割れた頭蓋から脂ぎった脳漿をぶちまけているもの。折れた手足から石膏のような骨の突出したもの。腐敗が進行し、体内に発生した瓦斯に肥大化したもの。口内や肛門にぞろぞろと虫の群がっているもの。夥しい女の屍骸の上、妖蝶の群れは妖しく旋回していた。
緋色の蝶は次々に落下してゆく。女へと姿を変え、奈落へ落ちる。白い肉の塊りは押し潰され、折り重なり、何時しか山と積み上がる。それは惨たる極みであろうが、どこか滑稽な、出来の悪い喜劇のような光景でもあった。胸焼けのする冗漫さでもあった。
ふと、気が付けば女の白山は忽然と姿を消し、妖蝶の姿も見当たらぬ。岩を洗う波音の繰り返しばかりが耳朶を撲つ。
「視たか?」と、渡浪が聞けば異口同音、皆が視たと答える。
これは参ったと頭を掻き毟りながら、渡浪がぽつり、
「自殺の名所とはなあ」
古来、蝶とは東洋西洋の別なく魂の象徴である。見崎氏の亡魂とは正鵠を射た物云いであった。夜に現れる蝶は仏の使いだという巷説もあるくらいだから、別段本職の人間でなくとも無意識に浸透している感覚ではあるのだろう。それは言語感覚と同じように、意識することがなくとも、現在を生きる人間に予め用意されている。歴史と同じように、感覚の背面に裏書きされた存在なのだろう。
言葉少なく、今後の方針をぽつりぽつりと話しながら、一同は御金神社に向かった。相羽青年の話にある通り、神社に在れば危険も少ないことであろう。道々、先の珍妙な光景を思い出しながら渡浪にひとつ気に掛かることは、
「しかし、どれも同じ貌だったような気がするがなあ」
はっきりと断定できはしないが、身を投げる女の貌付きは、どれもこれも同じもののように思われたのであった。
御金神社に辿り着くと、ひとつ用事を思い出したと云い残して、渡浪は摩耶の制止を耳にも入れず踵を返し、ぽつぽつと灯りの燈る飲食街に足を向けた。