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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
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顕現

 

 一同は階段を水辺へ降りた。足下にはバッテリーに接続されたケーブルが、動脈のように伸びている。提灯を置いた相羽青年が、昼間に用意した工事用の照明を点灯する。重厚な照明器具は血流を得て、目蓋を押し上げた。燈明は黄色く闇を裂いて、山肌を睨めつける怪獣の眼光の如く。確かにそれは永い沈黙の眠りから、幾人の黒影の集まり来る気配を察し、暗中に瞬く怪獣の眼差しに相違ない。重たげな目蓋は今やはっきりと押し上げられ、舞台の幕は上がったのである。二条の太い光線が川面に差し向けられ、夜を暴かんとするその光帯のなかに、飛蚊羽虫の類が塵と共に黒く輝きながら動揺する。暫し押し黙ったままに、一同は辺りを窺った。


 低く唸りを上げる動力系と川のせせらぎの他、四辺はただ(げき)として幾許の変化もない。

 

 焦れた摩耶が、「現れませんね。まさか我々に恐れをなして隠れてでもいるのでしょうか」

 

 受けて渡浪、「それこそまさかだろう。確かにこちらは多士済々といった具合ではあるがね。鬼面人を威すと云うが、文字通りの鬼が我々の事情を忖度する訳もあるまいよ」ゆるりと待とう、と手近な建材の小山にどっかと腰を下ろして懐手。


 せめて準備は抜かりなくと、摩耶は琴子に彼是と指示を飛ばす。琴子は背中からぱんぱんに膨らんだナップザックを下ろすと、封を開ける。なかからは、よくもまあ短時間にこれだけ詰め込められたものだと感心する程の、退魔の品々がこれでもかと取り出されてゆく。束ねられた神符だの、清められた米やお神酒の込められた小瓶、甚だしきは小振りの榊の枝までもが、手品宜しくにょきにょきと取り出されてある。


 摩耶は少しく考えるようであったが、「相羽さんに事後を任せる以上、結界式は拙いですね。それに相手は蝶の姿をしていることですから」

 

 琴子が小首を傾げながら、「弓も要らない?」


「ええ、正体がまるきりの不明では神威の発動は成りませんからね。純粋な弓の腕前だけで飛来する蝶を射抜くことなど私には不可能事ですから」こちらでいきましょうと、束ねられた神符を手に取り、光源に照らされた川面に厳しい視線を向ける。


「渡浪さんが先陣を切る形にはなるでしょうけれど、いざとなれば私にも多少の心得はありますから」腰帯に差し込まれた白木造りの短刀を逆手に引き抜けば、燈明の光を受けて一層、吸い込まれるように白々と鈍く冴える刀身の、不気味な程であった。


 やれやれ、なんとかに刃物とは良く云うが、まるで任侠者のような貌付きをするんだからなあ、などと呆け顔に、様子を横目の渡浪が貌付きの、なんとも締りのないこと。


 興味深げに事態を袖に見守っていた相羽青年であったが、実際に当たっては些か当惑した面持ちのようでもあった。なにせ自らが本職の神職である。怪異調伏に実力を以って当たろうとは思ってもみなかったところで、彼等がまさか刀剣を手に直接に怪異を調伏せしめんとしているとは考えもしなかったのであった。しかも妙にそれが堂に入っていると来れば尚の事、遠見のお墨付きとはいえ、どのような素性であるかも知れぬ漂蕩児についと目を向ければ、腰差しにした太刀の柄をトントンと叩きながらの拍子取り、先生、暢気に小唄などを口ずさんでいる。

 

「それにしても、随分と手馴れた様子ですね」と相羽青年が水を向ければ、


「なに、こればかりは経験だろうよ」柄を弄りながらも、渡浪の視線は水面に差し向けられたままに小揺るぎもしない。


「僕などは緊張してしまって……。駄目ですね」


「まあ、そんなに卑下するものじゃない。今、出来るだけのことをすればいいのさ」


 渡浪の何気ない一言に相羽青年はなにを思ったものか。腰を下ろして立膝突いた、この荒事師のような大男の横顔を食い入るように見詰めて、


「こういった仕事はもう随分になるのですか」


「いや、近々数ヶ月といったところだな。尤も、面妖な輩との付き合いは長い方だろうが」


「確か、遠見さんの兄君と知り合いなのでしたね」


「そうそう。それでこういった事は割合に身近な事だった。当時のおれは秋徳の仕事振りを手もなく眺めているだけだったがね。まあ、現在は成り行き次第でこうなったという訳だ」


 同道中、相羽青年の摩耶に聞くところによればこの大男はこれで山寺の僧侶だという。神社に生まれつき、生粋の神職者として教育された相羽青年の目には如何にも掴み所がなく、聖者の面目の如きもどうやら見受けられぬと思われたが、こうして二言三言交わしてみると、どことなく投げ遣りで鷹揚な禅味が底にあるとも観ぜられた。そこで、先程は言葉尻を濁したままに置いたことを、改めて聞いてみる気になった。


「……先程から僕は気になっていたんです。僕が儀式を失敗したのではないかと口にした時、貴方はよし失敗であるにしても、妖蝶発生の時期が特定できたのならその意味合いが異なる、と。それは、どういうことなのですか」


 ふむ、と一つ零して。頭を掻きながら渡浪が云う。


「あんたも神職者であれば、壇上障礙(だんじょうしょうぎ)と云えば通りが良いだろうが、大方その変形だとおれは考えている」


「壇上障礙と云うと、行者の悪念妄想や肉体的な穢れが魔事を呼び起こすという、あの障礙ですか」


「はっきりと口にすればな」


 渡浪の忌憚のない意見に、相羽青年は厭な顔をするでもなく、先を促した。受けて、渡浪は自身の見解を説いてみせた。


「勿論それが全てという訳ではないがね。儀式の運行に問題がなかったとすれば、自然そこへと帰着する。尤も如何な神職者とはいえ、悪念妄想を完全に切り離すことはむつかしい。そこで念押しとばかりに潔斎する訳だが、そこまでして駄目だとなるとな」


 いっかな要領を得ない渡浪の口振りに焦れたか、相羽青年はもどかしそうに、


「確かに、儀式の運行自体に問題はなかったことと思います。やはり僕の未熟が原因で儀式は失敗したのだとしか……」


「いやいや、儀式は成功したんだろう。ただ、神を降ろす筈が、反対にこの地に眠っていた何者かを呼び寄せる結果に終わったというだけだ」


「それが妖蝶の正体であると?」驚く相羽青年に渡浪は尚も続けて、


「そうでなければ平仄が合わないからな。今まで土地の人間に害を成すでもなかったのだから、それは儀式前までは大人しく眠りに就いていたのだろう。これは経験則だがね、怪異とは能楽に於けるシテとワキのようなものだ。それが拒絶であれ受容であれ、何事かに惹かれ合うようにして両者は出会う。必然的に、出会ってしまう」


 ごくり、と生唾を嚥下する音。


「あんたの知り合いに、遊女はいないか?」落とすように渡浪は云う。


「それは……」と、言い淀む相羽青年に真面目な面持ちで訊ねるも一瞬のこと、渡浪はすぐと相好を崩して、なにやら嬉しそうに青年の背中をぱたぱたと叩いて、


「と、ここまできては無粋だろうな。第一、立場もあれば口にも出せまい。野暮なことは云いっこなしとしよう。神仏に額づこうとも、お互い男一匹の境涯だ。わっはっは」


 楽しそうに馬鹿笑いをしている相方を摩耶の鋭い視線が睨めつけたが、いっかな動じる気配のないのも平素からのこと。呆れて溜息をつくばかりの摩耶であった。しかしながら、彼是四半時はこうしていようというのに妖蝶が現れる気配は未だせず、摩耶の固く張り詰めた緊張の糸も切れようかというところ。


「しかし、本当に現れませんね。機を改めた方が良いでしょうか」


「さて、そろそろ頃合だな」渡浪はのそりと立ち上がると、摩耶の隣に立ち並ぶ。


 それはこの暗闇に確実に潜んでいる。ちりちりと、宝来鈴の音が聞こえる。それは怪異出現の前兆にしては幾らか頼りない音ではあったが、渡浪の頭蓋の内にはっきりと木霊している。鈴の音に拍子を取っていた手がぴたりと止まり、ちりり、風に呷られたように一際強く鈴音が響き、果たしてそれは一同の目の前に姿を現した。


 川面の光帯にするりと妖蝶は姿を現した。それはどこか鉱物的に透き通り、薄紅に輝きながら、夢見るように、或いは蹌踉めくように揺蕩する。その美しさに誰もが息を呑んだ。


「……きれいな蝶」と琴子の感嘆の声が上がる。


「いえ、しかしこれも」


 人間を害する妖異なのですよ、と摩耶が云い差したところへ、一同の背後、建材の影からこちらへとやって来る者がある。彼は足音も高く一同の元へと歩み寄り、


「確かにこれは綺麗だね。艶麗なる踊り子の、白拍子も斯くやと云ったところだ」


「勝谷さん、あれ程ここには来てはならないと!」


 柄にもなく声を荒げたのは相羽青年であった。これを平然と受けた闖入者、勝谷夏彦は一同の怪訝な視線をも受け流して、口元にちょいと手をやりながら何事かを考えるらしかった。当然のこと、何故一般人に秘密を漏らしたものかと、摩耶が相羽青年を難詰する。しどろもどろの彼に、はたと気が付いた夏彦が助け舟を出す。


「無理を云ったのは僕ですから。それに、心配には及びませんよ、遠見サン。これで僕は、一般人じゃあない」


 そうこうして揉めている間にも、渡浪の目は水面の上を漂う妖蝶にひたと食い付いて離れることはない。同様に傍らの琴子も、これは多分に好奇の勝るところであろうが、二目と見られぬだろう妖蝶の姿に、魅入られたように微動だにしない。


(ふむ。あの二人はあれでなかなか平静なものだ。尤も姿形がアレでは警戒心が薄らぐのも無理からぬところではあるけれど、本職の神職者がこれしきの事で大事を見損なうほど動揺するのは、どうにも頂けないな)


「僕のことより、今は目の前の蝶をなんとかするべきなんじゃないのかな」落ち着き払って夏彦が云う。


 云われなくとも、と眦を川面に差し向ける摩耶であったが、妖蝶はそろそろと及び腰にあちらこちらへ転々翻っているばかり。どうにもこれではなあ、いっそのこと、捕まえてみるか。見識を深める為にも、妖蝶の魅せる女地獄、一度この目に味わってみるのも悪くない。そんなことを渡浪までが考え始めていたところ、


「あっ!」短く、琴子が素っ頓狂な声を上げる。


 ――気が付くと、辺りには無数の妖蝶が乱舞していた。


 どこから現れたものか、突然に夥しい妖蝶の群れは四辺を飛び回り、薄紅の軌跡は蛍火のように。川面の反映は、おぞましい程に幻想的であった。それかあらぬか、これを膺懲せんとする者達をさえ、無言の裡に圧倒する。心胆寒からしめるは、その美しさ。山間の幽邃境に嘽娟と、一ツ目橋には紅乱舞。





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