山葡萄
一ヶ月前のこと。長らく続いた戦争が終わり、漸くのこと故郷に帰り着いた吉野は、意気揚々と妻の待つ自家へと帰路を急いでいた。
帰り着く場所があるということは、どんなに素晴らしいことか。無理無体の強行軍に熱帯雨林を彷徨い歩いていた時分には、頭の中身も虚ろに煙って、思い起こすこともなかった我が家。胸を焼く郷愁と、妻の笑顔。自然と吉野の足は速まった。
彼は何時か夢中に走り出していた。じめじめとした泥土ではない。郷里のやさしい、湿潤な太陽に温められた土。彼はぼろぼろの軍靴を脱ぎ捨て、しかと大地を踏み締めた。指の股を、じくじくと熱が伝わった。彼は知らず涙を流しながら、辿り着いた我が家の引き戸に手を掛ける。
「今、帰ったッ!」
彼の半生に於いて、ここまで自らを英雄的に、また幸福にも思ったことはなかった。
そうして勢い良く引き戸を開けた先に彼を待っていてくれたものは、妻の一瞬にして蒼褪めた顔と、彼女の懐に昼日中から手を差し込んで、今や情交に及ぼうかといきり立った、実の弟の浅ましい姿であった。
吉野はたちまちに激発した。弟の顔を、腹を、無心に殴りつけた。滂沱と涙を零しながら。妻の彼を止めようとする声を、遥か遠くに空しく木霊させて。
吉野は、死んでいた。死んだ、ということになっていた。妻は弟の妻となっていた。そうしてその日、吉野は帰り着く場所を喪った。
なかば自暴自棄となった吉野は、弟から僅かばかりの金を毟り取り、蔵から腹いせに盗んだ幾許かの食料を背嚢に詰め込み、懐かしい郷里を捨て去った。
行く当て所ない吉野の足は、彼の心情を酌んだものか、人気のない方へと寂しく運ばれてゆくのであった。山中に深く分け入り、見つけた炭焼き小屋に一夜を過ごして、もうここらで首でも縊ろうかと思案しながら歩くうち、不意に横合いから、
「なんだよあんた。旅行でもしてんのかい、山登りにしちゃ軽装で」
近くの山村の人間だろうか。四十位の中年が吉野に声を掛けた。吉野はそれを始め煩く思ったが、男が随分親切にしてくれたので、自らの憐れな境涯を訥々(とつとつ)と語り始めてしまった。男は吉野の話に頷きながら、情に絆されたものだろうか、これもなにかの縁だからと、吉野に握り飯をひとつ手渡して、
「なんにしてもしっかりやんなさい。郷里に居場所がないというのなら、私の村に来なさい。みんなきっと親切にしてくれるから。そこの坂をずんずん行くと、直に見えてくるから」と、肩を叩いて慰めた。
有難う、有難う、と吉野は男の真心に切々と別れを惜しんだ。
そうして握り飯を食いながら登攀を続けると、不思議なことに先の男と同郷の者だろうか、今度は二十歳になるかならぬかの元気の良い青年がやって来て、村ならもうしばらくで見えてくるだろうから、頑張れ、などと励ましてくれる。これに元気を出してぐんぐん進もうとするのだが、日も暮れかかっているし、どうしたものか、と考え倦むところに、折り良く古ぼけた炭焼き小屋が見えた。これは助かったと吉野はそこにまた一夜を過ごし、払暁を待って、再度彼の村へと登攀を開始するのであった。
しばらく坂を進むと、面妖な男が切り株に腰掛けてなにかをむしゃむしゃと食っている。ぼさぼさと汚らしく髪を伸ばした大男が、物騒な太刀なんぞを腰にぶら下げ、葉っぱの付いた生大根をぼりぼりむしゃむしゃと食っているのであった。男は吉野に目を止めると、
「やっぱり山登りって風情じゃないんだよな」
などと気味の悪い独り言。薄ら寒いので吉野はそのまま歩を進めてやり過ごしたのだが、どうやら大男は、こそこそと後を尾けて来るものらしい。時折後ろを振り返ると、木々の合間にひょろりと太刀の先が見えるなどして、頭隠してとはこのことである。なお気味悪いので吉野が全力で駆け出すと、諦めたものか、大男の姿は見えなくなった。
その日も結局、明け暮れ坂道を進んだにもかかわらず、山村には辿り着けなかった。なんとか夜を過ごす場所をと探し回るうち、またまた炭焼き小屋が見つかった。こうも都合良く現れてくると、なんとなく不気味なものがある。しかし背に腹は代えられぬと、小屋に入る。すると、そこには昼間の面妖な大男が、薄暗がりにぎらぎらと光る抜き身の太刀を翳して、なにやらぶつぶつと一人ごちている。不意に眼が合ってしまい、
「おお、あんたか。待ちくたびれちまったよ!」
などと、にっかり破顔一笑するのだから堪らない。くるっと踵を返し、吉野は脱兎の如くその場を後にした。
「うわあ」などと情けない声を上げながら。
「おいっ、なんで逃げる」
「なんでもかんでもっ、そんにあぶないもん、もっとるが、ものは、ないっ!」
一心に駆ける吉野を大男が追う。どれこれで逃げ切れたろうと後ろを振り返ると、大男の姿は見当たらぬ。自慢の俊足を撫してほっと息を吐く吉野であったが、あにはからんや、大男はその巨体に似合わぬ野猿のような敏捷さで、吉野に肉薄していた。音もなく、さながら天狗のように。それもその筈、あろうことかその大男は地面をではなく、頭上を参差と横切る枝々を飛び移り、今まさに吉野の背後へすとん、と落ち来たったのであるから。
「ぎゃあああ、」
と、吉野の絶叫は中途で掻き消えた。
薄明かりから吉野が意識を取り戻すと、件の怪しい大男が仁王立ちにこちらを見下ろしている。となれば、どうやら自分はその場に膝を突いていたものらしい。
「おう、目が覚めたか。ちと加減が悪かったので、大事ないかと内心気が気でなかった。うむ。これで一安心。わっはっは」
わっはっはどころでない。またぞろ逃げ出そうと身を捩ると、なんということか、両手両足を木蘭色の布切れできつく縛り上げられている。見れば大男は諸肌脱いで、切り裂かれた壊色が風にたなびいている。恐らくこれで吉野の身を縛したのであろう。吉野の背を冷や汗が伝った。
「あ、あんたはなんだ、藪から棒に。山賊なのか? お、おれの財産なんぞ奪ってどうなる。大したものは持っていないぞ」
男はぼりぼり頭を掻きながら、
「まったく、逃げるべきものから逃げんと、逃げんで良いものから逃げようとするんだから。おれは見ての通りの僧侶だよ」
呆れ顔でのたまう大男はどこからどう見ても蛮族の類に思われた。大男は吉野の怪訝な顔つきに眉根を寄せつつ、
「まあ見て判らなくとも、そうなんだ。毎朝の日課を終えて寺に帰ろうというときに、あんたを見かけてね。どうにも不審であったので、どうやらこれは、と思って後を尾けてきた」
「ええ?」
「あんたには判らないか。なかなか面白い見物だったよ。あんたが涙を流してぺこぺこと杉の木にお辞儀をしたり、美味そうに泥団子を食ったりなんぞしながら、炭焼き小屋からここらまでを行ったり来たり繰り返してんのは」
「はい?」
この男はなにを言っているのだ。禅問答かなにかをしているのだろうか。いや、それよりもこの男は数日ずっと私の後を尾けていたのか? 単に私の前に姿を現す以前から。なにか、不安よりも先に立つ焦慮が吉野の胸中を圧した。なにを云っているのだ。なにを、云うつもりなのだ。
「まあ、そろそろどうにかしないといけないと思ったんで、声を掛けた。あんた割合に健脚なんだな。良く鍛えられている。さておき、因をなしたあんたにはこれが見えているのかな?」
男は横手の、何気ない杉の木をコツコツと手で小突いてみせる。何の変哲もない。普段に見慣れた杉の木である。
「……なるほど。初見なんだな。それにしては騙され過ぎだ。大方、首吊り目的で山に入ったのだろうが」
ぎくり、とした。心臓を錐で突かれたように。
「まあいい。さて、道中あんたに親切にしてくれた、どこかの誰かさんは……。例えばそう、こんな顔をしていなかったかな?」
やにわに、大男は太刀の頭で杉の木を鋭く突いた。
するとどうだろう、衝撃にびりびり震える杉の木は、なおもその振幅を増し、ぶるぶると生き物のように震え出す。そうして、堪えに堪えた息を盛大に漏らすかのように、一際大きくその身を軋らせた。瞬間、周囲一体の木立にさながらキノコか葡萄の房のように、ぶわあ、と人の頭が生え出した。
「ひいぃぃ!」
それは、丸々と肥えた仄暗い肉の房である。幼子の頭もあれば、末枯れた老人の頭もある。老若男女を取り合わせ、人頭の標本じみた青白い面には色とりどりの苦痛が花と咲いた。暮れなずむ常道の森は、今や肉色の魔界と変じた。
周囲を取り囲む、その不気味な肉果実の一粒一粒は目に涙を溜めて嗚咽する。言葉にならぬ苦悶の重層が、地響きとなって微かに足元をも揺るがした。ぎょろりと、怨嗟に濡れた千万の瞳が、吉野の元へと蝟集する。恐怖に歯の根が合わぬ吉野は、危うく小便を漏らすところである。
「わっはっは。見えたか。これがあんたのお辞儀をしていた相手だよ。精気を余さずちゅうちゅう吸い取ってから、亡骸も美味しく頂くつもりだったんだろう。小賢しくて、貪婪だ。……さて、お前だな」
それは絶対的な宣告であった。大男は肉の房から年老いた髭面を引っ掴むと、音もなく太刀を引き抜いた。お、おあぁあぁぁぁぁ。憐れを誘う、忌物の聲。大男の目が細められる。
「ぶ…フぶ……タ、タズ、たすけて……」
大男は無言のままに。怪妖は目を見開いた。無造作に太刀が閃き、迅速且つ無慈悲に、化の物は処断された。滞留した瘴気が、涼風に払われる。そうして怪異は何処かへと掻き消え、四辺は元ある峠の静寂へと還ってゆく。
大男は吉野に振り向き、頭なぞ掻きつつ。先の鬼気迫る様子とは無縁の、子供のように無防備な笑顔を足下の吉野に差し向けて、
「低級な輩だからな。昼食を三度で良い」
吉野は腰を抜かしてへたり込んだまま、これはもう、笑わずにはいられない。
これが、鬼餓身峠に於ける吉野と渡浪の初会であった。
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「今夜辺りってんなら、見物に行っても?」
「おうよ。おれの主人公っぷりを見せてやらあ。と、んん」
云って、渡浪は右手を吉野に突き出した。どうやら見料をとるつもりらしい。なんとも、せせこましいことである。袋に詰め込まれた闇米三合、この見料安いのだか高いのだか。生臭坊主はほくほく顔で、うむ、と剛毅に頷くさまの、なんとあどけなくも傲岸な。
「しかしまあ。惜しかった。実に。砲弾みてえなおっぱいしてるんだもの」
と、この調子の肉欲塗れ。矛盾に塗れた似非説法を弄したかと思えば、最前の苦悶ころりと忘れて、久方ぶりの米に欣喜と雀躍。左手の瓢箪ころりと振れば、中身が尽きそう涙目だ。まあまあ、なんとも。薄雲を掴むかのような男である。老成した子供のような男である。
そんな渡浪を、やはり吉野は心安く思うのであった。一方では横紙破りに心を砕きつつも、また一方に、この男にあっては塗炭の苦しみであれ、怪異怪妖であれ、体を成さぬものではないか。この一個の天然の自然児を、誰が緊縛できようか、と。これは些か歳にも似合わぬ、憧憬の念を以って。
軽くシナ蕎麦なぞを仲良く喰らい、仮寓している吉野のあばら屋に寄ってから、二人は山頂の山寺に到着した。
――さて日もすっかりと落ち、今宵は中秋の名月である。