会見 前篇
長夜の夢や覚む。窓から差し込む朝日に渡浪が瞼を上げると、横手の寝床はすっかりと片付けられて、ちゃぶ台に差し向かいで摩耶と琴子はなにやら手仕事に励んでいる。のそり、と布団から熊のような上体を起こすと、渡浪は生欠伸を噛み殺しながらおはようさんと声を掛けた。
「おはようございます、渡浪さん。少し煩かったでしょうか?」
「いや、少しも」
長時の打眠を諫める風でもない摩耶の口ぶりから察するに、まだ朝も早いのであろう。窓から覗く表には白々と夜気を残した街路に清新な光が循環し、恐らくは階下からであろう、朝餉を仕掛ける湯気が立ち上り、とんとんと微かに物音が聞こえる。壁に掛けられた時計を見ると、なるほど、時刻は朝の七時に遠い。
「それで、なにをしているんだ?」
起き上がり、ちゃぶ台の上を見てみると、そこには大小様々の紙片や液体などが入った小瓶がぞろぞろと並べられている。
「お札とか道具の確認をしてるの」と、摩耶に代わって琴子が答える。
手にした小瓶を上下に揺すってみたり、逆さまにしてみたりと、その様子は道具の点検というよりは保護者の仕事を横目に気を散じる子供そのものであったが、なるほど、琴子が手にした小瓶にちゃきちゃきと音を立てている内容物は白米であった。恐らくは天木芳香を往き合いから救ったという清めの米に違いない。破魔札などはその幾つかを譲渡されたこともあって見慣れた物品であったが、液体の入った小瓶などは始めて見る呪物である。
呪物、などと聞けば定めし苦い顔をするに違いないと思えど、その不可思議に規格外の効能を目にすれば、神道の圏外にある渡浪からすれば至極真っ当な所感であろう。まじまじと卓上の物品を眺め回して、
「ほう、随分雑多にあるもんだな。これはなんだい」
どうにも気になった渡浪が乳白色の液体が注がれた小瓶のひとつを手に取ろうとすると、それを察した摩耶が慌てたように横手から小瓶を奪い取り、胸元に庇うように渡浪の目から隠し込んだ。
「こ、これはいざという時に使う大事なものですから」と、珍しく動揺した様子。
「へえ、隠し玉って訳かい。中身はなんだろう。聖水かな、いや、神道ならお神酒でも使うのかね」
まあ、そのようなものです。答えると摩耶はそそくさと後ろ手にその小瓶を背嚢に仕舞い込んでしまった。小瓶に堅く封印が施されてあったのを認めた渡浪は、なにか人の目に晒すことがその威力を散じてしまう結果を招来するものであるかもしれない、と一人合点して満足そうに深く頷いた。秘法しかり、秘仏しかり、秘奥聖殿は容易に人の目に触れて良いものではない。
さて、その様子を面白く観じていたのは琴子である。心底嬉しそうな顔をして、片手に持った小瓶をちゃきちゃきと振っていた彼女はやおら、
「さっきまでそれを作っていたんだよ」
「作った? お神酒をか?」
果たして、吐胸を突かれ、目を剥いたのは摩耶である。なんとか琴子を制止しようとするが、咄嗟のことに言葉が詰まって出て来ない。
「まあ、なんにしても、手伝いをするのは良いことだ。一日働かずば一日喰わずと云う。偉いぞ琴子」
どの口が云うか、と我々が渡浪の放蕩っぷりを揶揄しようとも、この一時、摩耶の念頭に教導の一字なぞ浮かぶ余地もない。顔を赤らめて、あたふたと差し出した両手を中空に彷徨わせるばかりである。渡浪が琴子の頭に手を乗せると、
「ううん。作ったのは摩耶。琴子は作れないもん。だって」
「琴子!」
琴子が先を続ける前に、漸くのこと口の回るようになった摩耶が制した。
「ごめんなさい、摩耶」
保護者の熱渇に琴子はしおらしく首を垂れた。琴子を呼ばわる摩耶の調子には、寸前の気恥ずかしそうな様子は微塵もなく、平素に変わらぬ生一本な調子が戻っていた。なにがなにやら皆目判らぬ渡浪は頬を掻いてどうしたものかと案じていたが、折り良く階下からこちらへ足音が聞こえてきた。
「さては腹ごしらえだ。一仕事始める前に力をつけておかんとな」
卓上の物品を仕舞い込むと、女将手ずから仕掛けた朝餉を喰うことになった。食事中は黙して語らぬ性質の摩耶であったが、何時にもまして思案気な様子で、度々差し伸ばした箸を止めては、何事かを胸中に反芻するようであった。
朝食を済ませ、あらかた仕度が整うと、三人は旅籠を後にした。先刻、摩耶に怒られて少しはしおらしくなったかと思えば、さもさも当然のように同道する気でいたらしい琴子との間に、なにやらまた一悶着があったが、それもどうにか片付いて、三人は目的の見崎邸へと辿り着いた。
旅籠から半時山道を登り、二ッ目橋に掛かる中途にその屋敷は在った。港町を眼下に望み、山裾に近くも緑の色濃く、噎せ返るような湿気と香気とが重厚な造りの旧家の周りに漂っていた。どことなく陰気の立ち込める風情の門構え。三人が表門を潜ろうとすると、入れ違いになかから一人の少年が現れた。
歳の頃は十五、六であろうか。およそ学生であろうとは思われるが、随分と着崩した格好をしている。サスペンダーの付いた黒いスラックスに白いシャツ。サスペンダーは肩に掛けられることなく、両腿の脇にだらりと垂れ下がっている。自然、目の向く先の腰元にはベルト通しから大工の腰道具のように幾つもの小物が吊り下がっている。木箱のような物から、柄の付いた作業用と思しき道具まで。
一瞬、彼らの視線がかち合った。少年の視線は敏捷に一同を掠めるように一瞥する。胸元のループタイに手をやって、静かに目礼し、少年はその場を立ち去った。
「家の方でしょうか?」少年の後を見るともなく摩耶が云う。
「大方、家に関係のある者だろう」渡浪は素っ気無くそれに答える。
一人、琴子ばかりが少年の後を見返り、その背中を凝視していたが、摩耶に呼ばれるとそそくさと二人の後を追って表門を潜って行った。
玄関口から案内に出た書生風の青年はこちらを認めると、深々とひとつお辞儀をして、
「遠方よりご足労頂き、申し訳ありません。私は病床の父の名代で参りました、御金神社の相羽順一と申します」と口にする。
どうやら使用人の類でもなく、細面のこの青年はこの地の神職者であったものらしい。一応の挨拶を済ませた後、四人は奥の間へと彼の案内に従った。なんでも急な来客の為に家主はその対応に追われていたのだという。それで失礼ながら自分が案内に立ったのだと相羽青年は済まなそうに口にした。それで一向、失礼にも思われない渡浪には、青年が何故これほど平身低頭しているのか、事情は呑み込めてはいても、些か以上に余分な態度であると思われた。
一方、先頭に立って歩きながらも、青年は通路を曲折する度に後方の摩耶の様子をしきりに気にしているようでもあった。その視線に摩耶自身も気が付いていた。ちらちらと及び腰に自分へと注がれる視線は異性に対する、秋波の如きものではない。なにか、云わなければいけないことを云えないでいるような、そんな遣る瀬無い心情がそこから汲み取られた。
それでつらつらと自分と彼に繋がりが在ったかどうか、どこかで見知った貌ではなかったかと摩耶は自問した。そうして、思い当たる人物が在った。相羽順一という人間に見当が付くと、摩耶は羞恥に顔を赤く染めた。なんとも本日二度目の、珍事である。
数年の昔、摩耶が十六になると屋敷に続々と縁談が持ち込まれるようになった。古い家だけに因習の如きものと考えられるだろうが、女人を早々に他家へと嫁がせるような慣習は遠見には存しなかった。遠見の女人はすべからく神へと身を捧ぐ巫であるべし。これは当然とも云えることだろうが、そうとすれば巫女の純潔を対価に縁談を持ち込むなど理が通らぬ。
それが祖父の働きによるものか、兄の働きによるものかは判らない。また別様の理由の在ったことかも知れぬ。ともあれ、祖父も兄もこの縁談については全てを黙殺した。摩耶は次々に持ち込まれる縁談をただただ機械的にこなしていった。摩耶に結婚の意志はなかった。自家の者にも、それを強く望んでいるような節は見当たらなかった。兄が一言、この人の元に行きたいという人が在ったなら、そうすれば良いと口にしたのみ。兄が失踪してからは流石にこういった話もなくなったが、先には随分と閉口した。
なんら積極的な意味を見出せなかった為に、日々繰り返される縁談に些かの印象も残ってはいなかったが、ただ一人、神職者の息子という言葉から連想される青年が在った。名前は覚えていなかった。顔貌も不明瞭であった。けれども、その馬鹿丁寧な口調にはどことなく覚えがある。困じ果てたような表情に覚えがある。嗚呼、そうだ。私は確かにこの青年と会ったことがある。
「あっ」と短く声を上げて、摩耶は慌てて口元を押さえた。
振り返った相羽青年はその様子から察したのであろう。少なくも胸のつかえが取れたように、小さく微笑むと済まなそうに一度目礼した。なんとも言い様のない表情でもじもじとする摩耶に、先頭を行く渡浪は気付かない。果たして、最後尾をちょこちょこと付いてゆく童女のみが、その一瞬の応酬を興味深げに観察しているのであった。
「こちらです、どうぞ」
相羽青年が応接室のドアを叩くと、なかから低く、くぐもった応えがあった。
応接室のテーブルには茶器が二組、片付けられずにあった。黒革張りのソファに腰掛け、物憂げに目頭を押さえていた肥満した男がゆっくりと身体を起こした。固太りというのだろう。肉の付いた身体ではあったが、骨格はしっかりとしている。短く刈った髪に鼻眼鏡。人に威圧感を与えるのにこれほど適した人間はいないだろうという好例が、そこに座していた。
来訪者に立ち上がり、
「どうも、遠くまでご苦労様でした」云って、先頭の渡浪に右手を差し出した。
順々に握手を交わし、ソファに再度大儀そうに腰を落ち着けると、さもさもこれで面倒な折衝がひとつ片付いた、というように見崎昭洋は重々しく嘆息した。