痛覚同調 急
鬼の出現する怪談、伝承、伝説は枚挙に暇もない。ここで同好諸氏の蒐集せるところを一々に論ずることは難しいけれども、分けても鬼に対峙した武芸者の武勇伝に的を絞り、幾つかのエッセンスを抽出することによって、尋常の埒を逸した人ならざるモノとの邂逅に、どのような気組みが是非とも必要とされるものか、これを詳らかにすることは容易であろう。
古来、多くの鬼譚に於いて鬼は女の姿をとった。戻り橋の鬼女然り、山に棲むという山姥の如き女鬼然り、冷雨の庭園に歌を詠む食人鬼然り。山に郎党を組み、平野の武芸者達と権勢を競う鬼達とは別様に、己が力を恃む武芸者の前に忽然と姿を現すモノは、どうやら女の姿を借りていることが多いようである。或る時は生臭い風を伴い、また或る時は昼日中の街中に、それは唐突に現れる。
武芸者達はこれにどう対処したものか。一つには徹底してこれを看過すること。一つには決然とこれを斬り捨てること。後者の場合には相手を斬り伏せ得るだけの得物が必要であることは云うまでもない。事実、こうした巷談には名剣、宝刀の類が頻繁に現れる。なにもそれは刀剣の形を取る必要はなく、冥府魔道を截然と別つ機能を持っていさえすれば良い。高僧の一喝とは正に利剣の一撃であろう。
もしもそれが適わぬとなれば、前述の通り、あやかしの声に耳を傾けず、さっさと全力でその場を離れたが良いという話。もっとも、それで彼方に結ぼれた彼我の因が切れるかどうかは別の話であるが……。
して、この場合にもっとも不注意な事態というのが、姿形に惑わされて致命的な判断を下してしまうこと。つまりは、彼のあやかしの哀切極まる深怨、凄艶なる色香、温かい血肉と現世への執着に、玉の緒を牽かれてしまうことである。
腕に覚えのある者とて、いや、そうであればこそ、時ならぬ鬼哭に惻隠の情を禁じ難い。肉体的非力という彼我差、或いは社会的、人倫的同情など最たるものであろう。平素であれば一蹴できたやもしれぬ事柄。しかしながら惻々(そくそく)と伝わるペーシスに何事かを思うのなら。それは遅効性の毒のように、武芸者の心の奥底に眠る最も人間的な弱所を突く。そうして、致命的な隙ができる。あやかしがついに鬼となる契機を与えることになる。
故に、伝承にある真実の武芸者とは多く、冷酷である。非情である。冷血である。彼等はそれが自身の依って立つところを増補し、なお強固にし、一倍に賦活するということを知り抜いていた。為にそれは独りよがりの思い上がりなどではなく、自らを律し、他を生かす生動する妙法であり、乾坤只一人の境地である。生かすも殺すも自在の境地である。これが人倫の枠内にきちんと収まりがつき中庸であることを武士道と呼び、人倫の埒外まで極端に先鋭化したものを左道、魔道と人は呼ぶ。
そして、遠見秋徳は両者ともに該当せぬ少年であった。
彼に確固たる信条はない。とりわけ優れた、或いは際立って異質な思考の持ち主でもない。自家に於いて仕込まれた斯く在るべしにただただ恭順して今日までを生きてきた、素直だけが取り柄の純朴な少年である。
しかし、実戦に赴き、霊刀を引き抜き、彼の者と対峙した現在。諄々と教え諭された旧習を墨守するだけであった少年の胸の内には、初めて疑義の念が生じた。本当に自分は正しいのだろうか。これが事態の解決になるものだろうか。なにより、
――僕は、斬りたくない。
それは致命的な逡巡。有り得べからざる間隙、気の迷いである。そこを突かれた。どうにか和平的な解決を、どうにかこれを綾なす方策を。そうした彼の余分な思考は伝播する。刃を抜いてからに、これ以上の間抜けの、在る筈もない。
気とは彼我の間に横たわる間を指す。気が迷い、本来ならば接続する筈のなかった両者を結び付ける。彼我の間は幽世に通ず。同調とはすなわち、玉の緒を牽かれるに等しい。霊刀があやかしの存在の確たる証拠であるように、著しい同調、信仰心、恐怖心もまた、彼の存在を強固にする。老婆の変容も、あながち向けられた冷刃によるものとばかりも云えないだろう。
そうして、少年は現在する危殆の位置へと投げ込まれた。
見下ろすざんばら髪の老婆のおどろおどろしき、洞穴の両の目に射竦められて身動ぎひとつできぬ。蛇に睨まれた蝦蟇とはこのこと。少年は憐れな石像へと変じてしまった。老婆の大きく開かれた口からは唾液の滴る鋭い牙が覗き、朽木のように萎れた手指からは猛禽類を思わせる強靭な黒い爪が、今や少年の命の穂を刈り取ろうと狙いを澄ます。
傷ついた肩口を抱いた少年はその場に蹲り、目を見開いた。後悔の念の生じる猶予もない。じん、と痺れるような感覚が脳髄を焼き、心臓の鼓動ばかりが耳に近い、写し絵を眺めている。片端から寸断される、襤褸屑様のモノローグ。
少年は観念したかのように老婆の足下へと頭を垂れた。老婆の足元には鉄の枷。そこから伸びた鎖が自分の肩口を貫き、両者を結束している。あぁ、なるほど、器用だ。そんなことを考えた。そうして、遠見秋徳は覚悟を決した。
目玉を抉り出さんと老婆の手が突き出される。秋徳はその枯れ枝のように痩せさらばえた残像を、熱風の如き激痛のなか、目まぐるしく変転する視界の隅に捉えていた。肩口から鎖を引き抜き、死に物狂いで地べたを転げ、後ろも見ずに太刀の元へと走り寄る。
まるでさんざんだと思った。自分はどこまで愚かなのだと自責した。
自分はまるで楽天的であったのだ。どこか、心の奥底で抜き難い予断が働いていた。
それは神仏の救いのように、自身の窮地に与えられるであろうと。
自らの心の奥底にある願いが、通じると信じ込んでいたことに、少年は今更ながらに自嘲する。
この身を太刀の元へ。地を蹴り、投げ出された太刀へと縋りつくように駈けてゆく。肩口からは堪え難い痛みが赤く着物を染め上げてゆく。奥歯が噛み割れんばかりに歯噛みして、少年は太刀を拾い上げ、老婆の気配迫る背後へと向き直る。太刀を正眼遠間の構え。一歩を差して打突の間。地走る剣先爬行の型。絶望の滲んだ黒い瞳を決然と前に向け、遠見秋徳に迷いなし。
老婆の突進に流れる水のように身を合わせ、繰り出された左手の刺突を逆袈裟に払う。両者は互いに擦れ違い、老婆の左腕が軽やかに宙を舞った。ぼとりと音を立て、それが無造作に地に落ちたのを合図に転進。両者は互いに相手を認め、老婆は残された右腕を振るうが、少年は尚速い。凶爪は振り下ろされるままに、虚空を掻いた。鬼気迫る秋徳の一刀は老婆の身体を真一文字に薙ぎ、切り離された上体は得物も空しく終には霧散する。
荒く息をつき、秋徳は抜き身の太刀を地に突き立て、寄りかかるように暫し放心した。今すぐにでも身を投げ捨てたくなるほどの虚脱感が彼を見舞った。彼は自分の頬を一筋の熱い涙が伝うのを感じた。その理由に、彼はなんとも説明のつけようがなかった。あらゆる感情が一時に彼を見舞ったが故に。そうして、自らを襲う狂濤のような感情のうねりに、彼は太刀を唯一の拠り所として抗していた。老人がそうするように、彼は太刀に身を預け、そうして、
「終わりました」と、短く口にした。
「そうか。無様だったな」
懐手の祖父は不興気に云い捨てると、颯と踵を返してこの場を後にした。少年には一瞥も呉れなかった。
◆
「……さん。渡……ん。大丈夫ですか、渡浪さん」
ひらと頬を撫ぜる感触に目を覚ますと、眼前には遠見摩耶の憂い顔が在った。先程から頬を擽るのは、身を屈めてこちらを見下ろす摩耶の黒髪の幾筋か。
「う…ん。摩耶」混濁した意識で、渡浪は照会、認証に移る。
「ええ、私です。大丈夫ですか? 渡浪さん」
――遠見摩耶。遠見秋徳の妹。該当、なし。
そうか。そうであってみれば、これは現実だ。いや、そうであって当たり前じゃないか。
未だ夢中にある寝惚け眼の渡浪は目を瞬かせた。次第に意識も覚醒してきたと見える。
「随分と酷いうなされようでしたよ、渡浪さん。私、心配になってしまって」
「姉ちゃんがそんな殊勝なことを云うなんてな。明日は槍が降るぜこりゃあ」
心底から渡浪の身を案じていたのだろう、呼びかける声も性急に必死であった彼女に、覚醒した渡浪の口から漏れたのは常と変わるところのない、人を喰った減らず口であった。少しばかりむっとした表情の摩耶であったが、やや意地悪く口元を歪めると、
「そんなことを云って。自分の様子が判らないからですよ。頬を触って見てください」
自分の頬を片手で触ってみると、渡浪は表情を強張らせる。
「生まれつき涙腺が弱くてな。横になると漏れて出る」
「そんなに緩い蛇口がありますか。本当に酷いうなされようだったのですよ。厭だ、斬りたくない、というようなことを繰り返し」
「他になにか、云っていたか?」
「いえ、他には特になにも……。とにかく苦しそうでした。渡浪さん、もし、この仕事を負担に感じているのでしたら」
「あぁ、あぁ、その先は良い。心配無用だ。おれを誰だと思ってる」
渡浪はぼりぼりと頭を掻きながら、そう口にした。ばつが悪そうに目を逸らす様は平素の渡浪らしくもなかったが、言外にそれ以上の追及を拒む気配が濃厚であり、摩耶は強いてそれ以上に踏み込むことはなかった。しばらく月明かりのなかに無言であったが、渡浪がぽつり、
「そう云えば、琴子はどうした。起こしちまったかな」
「いいえ。あの子はぐっすり。何時も一度寝てしまえば朝まで静かなものですよ」答える摩耶の静かな声が旅籠の夜に優しく沁みこんでゆく。
「そうか。……寝入りしな、話したついでを云っておこうと思ったから、そうすることにするとだな。この仕事をする理由、ひとつだけそれらしいものが思い浮かぶ」
「なんですか?」
「憧れだよ。おれは秋徳に憧れていたんだ、ずっと」
摩耶はころころと笑った。「柄にもないことを口にしますね。兄とは数ヶ月の付き合いでしょうに。貴方がそれほど人情家だとは思いませんでした」
「人情、と云うと違うかもしれんが、時間なんてそう関係ないもんだ。秋徳とはなんだかんだで十年来の付き合いにはなるが」
「それこそ驚きました。これも初耳です」
「ちょくちょくと山には遊びに来ていたからな。うちの爺さんが生きていた頃からだ」
「大潮和尚の……」
「まあ、今度色々聞かせてやるさ。今日はもう遅い。朝も早いし、寝なおそう。起こしちまって悪かったな」
「いえ……」
両者とも漠と思うところはあれど、口にはせず。同道三人の夜はしんしんと更けてゆく。