痛覚同調 破
ちゃり、ちゃり、ちゃり……。
山の中腹であろうか、心寂しく開けた草原を往く老婆の姿が在った。人気の無い昼日中の山中に、このような老齢の女性に如何様の用向きのあることか。齢の頃は七十をとうに越えているだろう。老婆の背中は折れ釘のように曲がっていた。頭には破れ傘を目深に被り、右手に杖を突いてよろぼい歩いている。
ちゃり、ちゃり、ちゃり……。
音は、老婆の足元から聞こえているようであった。見れば銘仙の着物から覗く枯れ枝のような両の足には鉄錠がかけられ、そこから伸びた鎖が地面を引き摺られているよう。それが老婆の牛馬の歩みに追走するように、ちゃりちゃりと頼りない足取りの反映を響かせているのであった。
これを数間の先にある木立からじっと息を殺して観察する者が二人。和装の壮年と、同じく仕立ての良い着物に身を包んだ少年とである。
「あれが、そうなのですか。お祖父様」少年が頭上を見上げながら訊ねる。
「そうだ。あれが今回の標的だ」祖父と呼ばれた男は傍らに控える孫には視線を落とすこともなく、そう簡潔に答えた。
二人は暫くの間、老婆の当て所ない道行を見守った。それというのも、こうしている間にも老婆の足が止まることは久しくなかったにも関わらず、彼女は草原の一定の区画をぐるぐると回遊魚のように廻っているばかりであったから。彼女の足元にはすっかりと地肌の露出した轍が真円を描いている。
「これが、人に害を成すとは思えないのですが……」
祖父は少しく眉根を寄せた。そうして老婆からは決して目を逸らさずに、重々しい口調で少年に云って聞かせる。内心では少年の態度を苦々しく思っているのであろう。祖父の威圧感に身を竦ませながら、それでも意を汲もうと少年は一言も逃すまいと耳をそばだてた。
「姿形に惑わされるようでどうする。今はまだ穏当な様子であるに過ぎない。奴らはな、極単純な原生動物、或いは昆虫のような運動と触覚の集積に過ぎない。一定の行動原理に従って運動し、外界からの反応に作用する、剥き出しの触覚のような存在だ。接触の度合いに応じて定められた反射を示す、投射機のような存在だ」
少年は無言でそれに頷いた。祖父は少年の年齢というものを一切斟酌しない。それでも少年は祖父の言わんとするところをある程度は把握した。身形からも判るように、相応の教育を受けているものと見える。祖父は続けて口にする。
「一度敵対すればむきつけに本性を現すものと覚悟しろ」
「はい」少年は口腔に溜まった唾を嚥下して、短くそう返事をする。
それで幾らか祖父の語調も穏やかになったものと見える。次第、少年に事の仔細を話しておこうという気になった祖父は、今回の依頼のあらましを語って聞かせた。
「お前の初めての仕事になる。しっかりと記憶しておけ」
依頼主は四十絡みの既婚中年女性であった。彼女には共に暮らす、年老いた両親が在ったが、父親が卒中で他界すると俄かに自家が騒がしくなった。両親は共に不仲ではあったが、父親が亡くなると母親は支えを失ったように急速に衰えていった。母親が老耄から認知症になり、ふとした争議から依頼主とその夫が離縁することになるまで、そう時間は掛からなかった。
ほどなくして依頼主は仕事筋で出会った男性と再婚することになり、母親の面倒を看ながら働き詰めの毎日が続く。母親の病状はいよいよ高じて、彼女の必死の介護も報われることはなかった。
母親はおかしなことに、近年一滴も口にしたことのなかった酒類を無闇矢鱈と欲しがるようになり、手製の携帯用の煙草盆を作ると、日がな一日荒んだ目付きで煙草を吸うようになった。彼女は自分を二十代の娘であると思い込んでいた。いやさ、それは確信とも。そうして彼女の目には、自らの娘は最愛の夫を奪い去り、ばかりか男を囲い込んで放蕩に耽る仇敵と映るのであった。自らがどのような次第で現在の位置にあるのかには一向考えの及ばない様子である。
自らの献身が報われることもなく、ばかりか当の母親に泥棒猫の淫蕩娘との謗りを受け、憎悪の目に晒される痛苦は如何許りか。余人の推し量れるところではない。母親にとってはそれが唯一の意趣返しのつもりなのであろう。酒と煙草を呑み続けに呑んで、たまに娘の化粧台から白粉をくすねては化粧をするようになり、夜毎近隣を徘徊するようになった。
途方に暮れた依頼主が夫に相談すると、彼は足枷でも着ける他あるまいね、と力無く笑った。彼も疲れ果てていたのである。けれども、依頼主に夫のその態度は許せるものでなかった。夫の一言に、最後の支えが、防壁が、わらわらと音を立てて突き崩されるような思いがした。もう、駄目だと思った。堪えられないと痛切に実感した。
そんなときであった。母親が忽然と姿を消したのは。
朝方に寝床を確認すると、母親の姿はなかった。部屋からは彼女の煙草盆と白粉が見当たらぬ。さては何時ものようにそこいらを徘徊しているものと考えたが、夕刻を過ぎても戻る気色もない。ここに至って倉皇として行方を追い、捜索の手を尽くしたが、それらは結局結果を空しくした。
それから一年。依頼主は奇妙な噂を耳にする。それは近隣に広まる巷談で、内容はこのようなものであった。
夜半過ぎ、表から戸を叩く音がする。仕方なしに応対すると、それは破れ傘を被った、腰の曲がった婆さんであるという。右手に杖を突いて、腰に煙草盆をぶら提げた婆さんは、決まって「酒か、煙草、くんないかい」と無心をするそうで。
仕方なく所望の品を渡してやると、それで満足して帰ってゆく。ここで決してやってはいけないことは、彼女の足に着けられた鉄錠はなんなのかと指摘することである。もしも、なんだい婆さん、じゃらじゃらとそんなものを引き摺って、と聞こうものなら、彼女はその鎖を持ち上げて、こいつあ、あの泥棒猫の奴に無理矢理履かされたんだ、などと戸口に長っ尻で朝方まで延々と話を聞かされる羽目になる。明け方うつらうつらしていると、何時の間にか老婆の姿は消えてなくなっているという。
もし、煙草や酒が惜しくて、これを老婆に渡したくない場合には、応対に家の若い者を向かわせると良い。老婆は何時ものように酒と煙草の無心をするが、相手が子供であると知ると、「なあんだ、子供じゃ仕方ない。邪魔したねえ」と朗らかに笑って去って行く。しかし去り際に破れ傘を取って、有難うさん、と告げる老婆の顔には白粉がべたべたと塗りたくられて気味の悪いこと夥しい。無闇と子供の肝を潰すのも忍びないから、結局のところ望むだけの物を手渡して、そうそうにお引取り願うのが最善手である、という話。
最近ではこの話に尾鰭がついて近隣に伝播し始めている。あれは母親の生霊かなにかなのではなかろうか。最近は寝付こうとすると、鎖を引き摺るような音が聞こえてきてどうにもならない。なんとかして貰えないだろうか、と。それが今回の依頼の仔細であった。
「それが、あの御婆さんなのですか。私には普通の御婆さんに見えますが……」
「あれが生霊であるのか、物の怪の類であるのか、それは判らぬ。依頼主の母が今どうしているのかはこの際関係がない。私達は人探しをしているのではないからな。だが一点、あれが今回の標的であることには疑いを容れる余地はない。特徴の一致、この草原の失われた呼称が蓮台野であるという事実、そしてなにより、依頼主から聞かされた巷談、それが全く彼女一人の空想であるという事実がそれを指し示している」
なにを思うのか、少年は老婆にじっと視線を注いだ。とん、と祖父に背中を押される。少年が振り返ると、祖父の手には太刀が握られていた。
「迷妄を払え、秋徳」云って、祖父は太刀を眼前に差し出す。
尚も躊躇する秋徳を祖父が叱責する。
「なにを愚図愚図している。取れ。お前が使うことに意味がある」
おずおずと少年は太刀を拝領する。矮躯には分不相応な得物。そのずしりとした重み。
僕は、この刀であの人を斬るのか。あの、御婆さんを、この手で。
人間ではないにしても、限りなく似たものを。
それで、僕は迷妄を払ったことになるのだろうか。
依頼した女の人はきっと思ったんだ。御婆さんが居なくなった時、ああ、良かったと、ほんの少しだけ。それが自分で許せなかったんだ。鎖を着けるしかないと云った旦那さんのことをあれこれ云う資格なんてないんだって。
だからあの御婆さんは、依頼した女の人の罪の形、罰の形なんだ。
でも、本当にそれだけなのか。たったそれだけだったのか。
だって、御婆さんは笑っていたのじゃなかったか。
去り往く間際、それが空想に過ぎなかったとしても。
有難うさん、って。脈絡もなく、笑って見せたのじゃなかったか。
それが全くの身勝手な思い込みであったとしても。確認のしようもない事であっても。
嘘みたいな希望、救いであったとしても。
今ここで僕が御婆さんを斬ってしまったなら、綺麗さっぱりなくなってしまうんだ。
逡巡を飲み下して、少年は老婆に対峙する。一足一刀の間合いにはまだ遠い。手を太刀に絡げて、
「ああ、あんた。酒か煙草、くんないかい?」
息が詰まった。極度の緊張に、秋徳の左目の瞼は神経質にびくびくと痙攣する。
「う……、僕は、持っていません」なんとかそう答えるので精一杯だった。
「ああ、なあんだ。子供じゃ仕方ない。邪魔したねえ。それじゃあ、ありが」
「遠間の構え!」後方からの祖父の声に老婆の声は掻き消された。
身体は即座に反応する。自家において叩き込まれた技術は秋徳の全身を反射的に操作する。一定の行動原理に従って運動し、外界からの反応に作用する、剥き出しの触覚のような存在。自己を滅し、接触の度合いに応じて定められた反射を示す、投射機のような存在。それが、遠見が求める完成の形。
(斬るのか。斬れるのか、僕は)
「抜刀!」
――そうして、遠見秋徳は鞘を払う。
刃長は三尺、反りは九分。刀身無銘、来歴不明。抜き放つ、刃の波紋は生死の投影。黒漆拵えの鞘から抜き放たれた氷刃は、陽光を受けて切っ先にうっすりと光輪を浮かばせ、幼き次期当主の手元に、その威容を収めている。
(……やるしかないんだ)
正眼に構えた遠間から一足一刀の間合いへと一歩を差す。打突の姿勢へと移る瞬間、秋徳の眼前に茶色い量塊が迫る。一瞬のこと身動ぎした後、それが老婆の被っていた破れ傘であることに気付いた時には遅かった。
「馬鹿者っ!」
祖父の声が遠い。身体がふわふわと浮付いて力が入らない。破れ傘を突き破って二条の光が走って、秋徳の肩口を貫いた。熱い衝撃に取り落とした太刀は数間先へと弾き飛ばされ、秋徳はその場にくず折れた。
見上げる秋徳の頭上には、こちらを見下ろす老婆の姿が在った。剣気に反応し、今やその暴力性を顕にするところのモノ。分厚く塗りたくられた白粉は能面のよう。それがくしゃくしゃと皺に揉み込まれて、黒い洞穴のような両目が確かにこちらを見ている。見られている。
秋徳はその時初めて、自分がどのような存在に対峙していたのかをはっきりと理解した。