痛覚同調 序
刻は黄昏、閑古鳥が鳴くしがない民宿である。
元気良く発した渡浪の一声に、帳場のおかみは怪訝そうに眉を顰めた。
値踏みをする、と云うにも当たらない。どこを見ても尋常一般からは逸脱した風貌の大男が、民宿の暖簾を腕押しで、帳場を見かけるなりに、にっかりと破顔一笑して「宿ろうかい!」などと口にしたのであるから。おまけに傍らに珍しい色の髪をした童女を同伴しているともなれば、おかみの心情、推して知るべしといったところであろう。
手入れのされていない蓬髪に、垢ずれた着物の大男が背負った風呂敷包みからは、布に包まれた棒状の荷が突き出ており、それが体勢の次第で天井の辺りをふらふらとするので剣呑だ。あわや天井に吊られた電灯にぶつかりそうになったところを、傍らの童女が静かに大男の袂を引いて、注意を促した。大男が頭に手をやって、面目次第もない、といった按配に恥ずかしそうにぺこりと頭を下げたところで、おかみははっと正気に立ち返った。
「いらっしゃいまし」なにはともあれ、客商売の第一である。
まさかに誘拐魔ということもあるまい。けれどもこの風体である。なにか厄介事を持ち込まれでもしたら堪らない。元より老いた母が道楽で始めた商売であったし、実家にいる間は致し方なくと渋々手伝いをしていたところへ、当の母親が近頃すっかり呆けてしまったものだから、万事を自分が取り仕切るようになってしまった。千客万来とはいかぬ安民宿ではあれど、これでなかなか雑事も多く易々とは行かぬ。そこへきて一見して訳ありの風を泊めて、一つ屋根の下に夜を越すのも憚られる。おかみは極力平静を装いながらも油断なく思量する。なあに、ここで門前払いをしたところで、母親に知れる心配もない。
結果、折角お越し頂いたところを大変申し訳ないのですが……、と口にしたところへ、暖簾を潜って新たに宿泊客のご入来。この安宿に、さても珍しいことである。
ふう、と小さく息をついて帳場に現れたのは、目の覚めるような美女であった。
未だ少女の面影を残した顔に、意志の力を現すような涼やかな目元。どこか弾性を欠いた、硝子のような剛性を思わせる凛とした佇まい。彼女が帽子を手に取ると、月光を吸った濡れ鳥羽のような黒髪が電灯の下に露となった。
(あ~と、なんて云うんだっけ。確かお母さんが前に云っていた、立てば芍薬、座れば……、なんだったっけ。でもそんな、花とかって感じじゃなくて、もっとこう……)
この辺りでは滅多に見かけない人相である。単に美人、というのでない。男好きする女や愛嬌のある女は幾らもある。彼女より顔の造作が良い者も大勢在るだろう。けれども自分が目にしている女性の美しさはそういったものからは隔絶した美しさだと思われた。おかみが美人の形容をあれこれと考えていると、芍薬であるところの彼女は静かに正対しておかみに一度目礼する。再度はっ、と我に返ったおかみは幾らか上擦った調子で口にする。
「い、いらっしゃいまし」
「今晩は。本日宿泊の予約をしておりました、遠見と申します」
「トオミ、様ですね。えぇと……」
確か今日は予定客はなかったような気がするが、とおかみが帳簿をぱらぱらと捲る。やはり、本日の宿泊予定は空白のようであった。
「失礼ですが、日にちをお間違えではないでしょうか」
念の為、近日の予定も確認してみたが、悉くが白紙であったという。トオミと名乗る女性は少しく首を傾げて、
「なにか行き違いがあったのかも知れませんね。見崎さんからはこちらに宿を用意すると伺っていたのですが……」
「申し訳ありません。確認して参りますので、少々お待ち頂けますか?」
摩耶が部屋さえ空いていれば手間は要らぬ、素泊まりでも一向構わないとこちらの意向を示す前に、おかみは慌しく帳場の横手の階段を駆け上がって行ってしまった。見たところ三十手前程の年齢と思われるが、随分とそそっかしい女性である。階下に取り残された三人はおかみの後ろ姿を見送りつつ、自然と顔を見合わせ苦笑した。
「さて、先程はなにか部屋がなさそうな物云いだったがな」と渡浪。
それを横目にじろりの摩耶が云う。
「大方、先方の様子を見て忌避したのでしょう。なんですか、やどろうかいとは。表まで聞こえましたよ。大体がそのような格好なのですから、当然の反応です」
そう摩耶に指摘されると、渡浪は自らの纏った襤褸切れの匂いをくんくんと鼻を鳴らして嗅ぐ。摩耶の眉根はますますのこと狭まるのであった。ふむ、と一頻り匂いを嗅いで心得顔の渡浪が云う。
「別に匂わないぞ。臭くない」
呆れ顔の摩耶に代わって渡浪の横に所在無げにしていた琴子が穂を継いだ。
「おじちゃんは切り干し大根の匂いがする」
「えっ、切干し大根。切り干し大根って、どんな匂いだったっけ?」
云い出した琴子も当惑したように、二人揃って小首など傾げたりしている。
「いえ、それよりも。抹香臭いというのなら兎も角、衣服からお菜の匂いがするようでは面目が立たないというところではないですか」
「いや、いや。体臭の話だろう? しかし、仏道に食事の関係がないとは――」
などと会話をしているうちに、階上からは、あらぁ、あんたそんなことも知らないで、と間延びした金切り声が聞かれた。少しして、顔色を変えたおかみが帳場へと戻って来た。ばたばたと実に気忙しい女性である。
「すみません、大変お待たせを致しました。遠見様、確かに一室のご予約を承っております。確認の次第はこちらの手落ちです。申し訳ありません」
「いえいえ、構いません」
頭を下げるおかみにやんわりと摩耶が云う。しかし意外にもこれに反発したのが渡浪である。ぼりぼりと何時もの癖で後頭部を掻き毟りながら、実に歯切れ悪く、
「いや、不味い。不味いなあ。一室というのが、いかん。どうにか二部屋工面できんもんかなあ。男女七歳にして、と云うだろう? 一室というのは、どうにも不味いなあ」と口にする。
放蕩無頼が影身についた渡浪の言とは思えない始末であるが、なにも男女間の風紀について彼がその信条を披瀝したものでもない。それは輾転反側とは無縁の彼には、また別様の悩みから要請された苦しい言い訳みたようなものであった。
この場面に強いて特筆するべきことは、それを耳にした摩耶が同調もせず、といって先方の都合からと容喙もせずに、少しく俯き加減に黙り込んだ様子であろう。それが男女間の交際における含羞の念から起こった沈黙ではないというところに、遠見摩耶という一個の女性のかあいらしさ、実にいとけない人間味を観ることができるのであったが、彼女のそういった一面を揺さぶる最初の一撃を加えた当の本人は、そんな様子にお構いもなく、参った、参った、と頭をぼりぼりの唐変木。一人滑稽な人間劇を観察する琴子のみが、どんぐり目を光らせて、興味深げにふむふむと頷いていたりなどする。
さて、おかみが一室しか用意のないことを伝えると、渡浪は渋々といった様子でそれを承諾した。二階の左手の部屋だとおかみに案内され、一向はそこで漸く旅装を解いた。迷惑をかけまいと辞退した夕食をおかみの勧めに応じて平らげると、三人はほっと人心地ついて、畳張りの六畳間に適当に身を寛がせた。琴子を先に寝付かせると、残された二人の間に交わされる会話は自然と今回の仕事の内容へと進んだ。
「今回の件は地主を通しての依頼ということだが、普通自治体が依頼するものだろう。橋の工事も自治体の管轄だろうに、どうして地主などが出て来るんだ?」
窓辺に腰掛けた渡浪が、琴子の傍らに寝姿を見守る摩耶に云う。琴子の腹部を軽くぽんぽんと叩いていた手を休めて、摩耶はそのもっともな質問に答えた。
「自治体は動いていたのですよ。例の妖蝶が現れるようになり、一度工事を中断して、神主を招聘してお払いをした。結果を空しくしましたが、表立った被害もありませんからね。自治体は早期竣工を目指してあくまで断行の姿勢です。それに危険を感じた神主が地主と協同して屋敷に依頼したというのが、詳説です」
「ふむ。知らぬが仏と云うが……」
「尋常の人間であれば致し方のないことなのかも知れません。しかし、自治体の姿勢は身勝手に過ぎると思いますね。本当になにかあってからでは取り返しがつかない。殊に怪異に触れれば、容易にその吉凶は判じ得ない」
「人生万事塞翁が馬って訳でね。あやめの姉さんも結果としちゃ良いところに落ち着いたかも知れんが、結局は」
「はい。我々にとっても、その存在が好ましい形へと収束するかどうかを見極めることは困難です。いえ、不可能と言い切って良いでしょう。ですから、結果する以前に、望ましくは発生以前に消滅させることが要諦なのです」
発生以前に。発生以前に。渡浪は己が内から酷く苦しい笑いが込み上げて来るのを、必死に堪えねばならなかった。それが自身に対する自嘲の念であることを知悉していたが為に。
「まあ、上手くやるさ。そう云えば、件の川、近くに身延山の御堂と同じものがあるんだろう? なんて川だったかな」
「もうお忘れですか? 黄瀬川ですよ。境川の支流です」
立ち上がった摩耶が窓辺に寄り、眼下に見える一本の支流を指し示す。青黒い月の光に川の表は判然としなかったが、乏しい町の明かりがその輪郭を曖昧に浮かび上がらせている。
葦切り山を水源に海へと続く境川の支流の一つが、黄瀬川であった。その黄瀬川に架かる一ッ目橋というのが、件の橋なのであった。一ッ目などと云うと、目玉が一つの妖怪の如きを想像してしまいそうになるが、これは間違いである。単に一ッ目とは、一本目といった意味合いで、最も海に近い橋から一ッ目、二ッ目、三ッ目、といった具合に都合三本の橋が架かっていることから、通し番号のようなものと考えることが出来る。尤も、より海に近いところから、恣意的に通し番号を振ったことには別様の意味があるのかも知れない。橋の渡された時期が、通し番号とは食い違う為である。むしろ、竣工の日時が通し番号とは正反対であるということには、ある種の寓意を感じるところではあるが、今回の筋に関係することでもない。ちなみに、鬼の御堂は一ッ目橋から程近い岬に位置していた。そこには鬼の右手が封ぜられていると云う。
ともあれ、今回の現場はその一ッ目橋である、と一頻り摩耶が説明を終えた。
「鬼の右手に妖蝶ねえ」
「今回の件に鬼は直接の関係を有たないとは思いますが、御堂の確認もしましょう。折角、ここまで足を伸ばしたのですから、実地に確認をしなければ」
何を想うのか、黙然と眼下を睨みつけている渡浪に、明日も早いですから、もう寝ましょう、と摩耶が云う。ああ、と曖昧に答えて、間に琴子を挟んで二人は床についた。暫くして、ぽつり、何故このようなことをしているのだ、と渡浪が零した。
「……それが、当たり前のことだからです」
眠ったとばかり思っていた摩耶からの反応に、一瞬のこと渡浪は窮した。
――当たり前のことと云うが、あやめの時の反応といい、当たり前ということが少しも自然でないんだ、お前は。当たり前ということを自身の報酬にしてしまっているんだ。
「その為の覚悟も、用意もある。渡浪さんこそ、どうして続ける気になったのですか。刀を返却していれば、危険に巻き込まれることもないのに。やはり、物質的な必要からそうするのですか」
「ははは、確かに金はあってもいいだろう。しかし、それだけじゃあない。第一、返そうにもこれではな」
枕元に置かれた太刀を引き寄せ、枕から頭を起こした摩耶へと手渡した。
「抜いてみろ」
摩耶はほんの少しだけ太刀を鞘から抜くつもりで力を加えた。なにか刀身に異常でも見付かったのであろうか、一瞬そんな危惧が脳裏を掠めたが、あの怜悧な刀身は鞘から現れることはなかった。刀身と鞘とは石のように微動だにしない。強か力を込めても変わりない。
「別に刀欲しさに細工した訳でもなけりゃ、刀身がひん曲がっちまった訳でもないぜ。おれとしてもお前さんに返すのが筋だと思うしな」
「ええ、それは判ります。万が一ということも考えましたが、素人に細工できるような代物ではないのです、これは」
驚いている摩耶に渡浪が聞く。
「知らなかったのか。というのはつまり、こういったことは以前にはなかったのか?」
「……少なくとも、私の知る限りは。兄が持っている時に一度だけ触らせてもらったことがありましたが、こんなことはなかった。その時には容易く引き抜けたのですが」
「ふむ。面妖な。まあ、しばらくはおれに預けておけ。使う分には問題ないし、秋徳なら詳しいことも知っていようよ」
それに摩耶は短く、ええ、と頷いて横になった。
――これは外在的な働きによるものなのか、内在的な働きによるものだろうか。
摩耶は考える。
もし、後者だとして。屋敷の人間はこれを知っているだろうか?
もし、知っていたのだとしたら。彼らはこれを秘匿していたことになる。
なぜ、特に秘匿する必要があるのか。
では、その彼らに利する必要とはなんだ?
いや、それよりなにより。
何故屋敷の人間は、血縁者とは云え、未熟な私を捜索に当てて等閑に付すことが出来るのであろう。現当主の失踪という異常時に、何故こうも鷹揚と構えていられるのだろう?
屋敷は全てを私に開示してはいない。
恐らくは、兄と親交を有っていたという、この人も……。
傍らに寝苦しそうに横になる渡浪を見遣る。この人も、全てを開示してはいない。私も。そして、兄も。
先程見た黒々とした黄瀬川を思い出す。あらゆる人間の間に横たわる隔たり。それを摩耶は川のようだと思った。そうして川縁にある僅かな照明がその曖昧な輪郭を現すように、自分の意識の照明に現れる肖像は、何時もどこか曖昧で、おぼろげで、外光派の抽象画のように、彩り豊かな色彩とは裏腹に、どこかしら不安の影を帯びている。
不安の影。自分の影。他者の影。それらが同一であるということ。
流れ逝く先は大海であるか。
まどろむ意識のなか、摩耶は大海から吸い上げられるかのように、山へと逆行する水流を見たと思った。