電気石の妖蝶
六月の初旬、渡浪達一行の姿は深山を離れて、元水町の海岸に在った。
地元の漁師連に立ち混ざり、黒壊色をはだけた渡浪はえいせ、えいせと掛け声しながら、砂浜に地引網を引き揚げている。ギリシャ彫刻のように端正な筋肉が、陽光を受けて、力強く躍動する。
その様を、遠見摩耶と雅楽川琴子は日傘を差した椅子に見守っていた。普段の和装に反して、今日は洋装の出で立ちである。摩耶は白い木綿のワンピースにうっすりと青い麻の帽子を被り、琴子も同様に緑色の肩紐の付いたワンピースに身を改めている。
ぽかん、と晴れ渡った、実に能天気な昼日中である。頬を撫でる海風も心地良く、二人は白い砂浜と絵筆で一佩きしたような青空との単純な色彩に臨みながら、水筒に用意された緑茶なぞを啜っていた。
「どうぞ。零さないで下さいね、琴子」摩耶が水筒から注いだ緑茶を琴子に手渡す。
「うん」
琴子は気もそぞろにそれを受け取る。彼女の目は地引網にしっかと食い付いて離れない。口元に運び込んで一口を飲み込むと、案の定、胸元に粗相をする。摩耶は苦笑いをしながら、取り出したハンカチでそれを拭ってやる。ところへ、漁師達の歓声が響いた。わっはっは、などと同行人の何時もの胴間声も聞こえてくる。どうやら網が揚がったようである。
「おおい、姉ちゃん。大漁、大漁!」云いながら、渡浪はこちらへ手招きをして見せた。
我先にとその場を駆け出したのは琴子である。好奇心に駆られた猫のように、そそくさとその場へ駆け寄る仕草に漁師達の口角も自然緩んでゆく。引き揚げられた網にはみっしりと釣果が詰まっていた。コノシロ、鰯、鯖、スズキ、所々に黄緑色に蠢く塊りは藻屑蟹か渡り蟹であろう。仕方なしに腰を上げた摩耶が傍に寄ると、琴子が熱心にあれこれと魚の詳細を漁師達に聞いて回っているところであった。
「カニがいる。このカニは、なんで赤くないの?」ぽつり、琴子が漏らす。
「蟹は大体こんなもんさ。茹でると赤くなるんだよ、お嬢」
漁師の一人がそれに答えると、琴子はふうん、と鼻息を零してその場に蹲り、なにやらぺたぺたと魚に手を当てて感触を確かめたりなぞしている。渡浪は腕組みしながら漁師に食えるものは即今、刺身にでもしちまおう。いや、火を焚いて鍋にでもしようかなどとの食道楽。
「こら、琴子。はしたないですよ、そんなところへ座り込んで、ぺたぺたと手を触れるものじゃありません。貴方も、食べるばかりでなくて、なんとか云ってやって下さい」
摩耶が苦言を呈する。心外にもほどがあるというものだが、どうにも足下の琴子には自分よりも渡浪の影響力の大なるを認めざるを得ない。余程、心外ではある。水を向けられた渡浪はふむ、と一つ生返事をして、
「なにが食いたい、琴子」
琴子は渡浪を見上げ様、無言に鯖と渡り蟹をぴしりと指差した。
「ふむ。鯖は今晩の菜にしよう。蟹はそうだな、おおい、渡部さん。この蟹、貰っちまっていいなら、ここで料理してくんねえか」
少し離れたところに火の番をしていた渡部という漁師が、それに不必要なほど大きな声で、構わねえよ! と返答した。上等、上等、と機嫌良く渡浪は頷いて、解かれた網から幾らかの蟹と雑魚を取り出すと、
「良し、向こうで食うぞ、琴子」獲物を抱きかかえてのほくほく顔。
それに連れられて琴子は立ち上がり、彼の後をとっとことついてゆく。そんな対処を期待したのでないのですが、と摩耶は目頭を手で押さえては頭を振った。
全体、我々は気の緩み過ぎではなかろうか。幾ら日中の余暇を有効利用しようという渡浪の意見に賛同した身とはいえ、こうも仕事を離れ放埓に身を任せていては、肝心要のところでしくじりをやらないとも限らない。元より遊興の身ではないのであるから、もっとこう、気を引き締めて集中をするべきなのだ。放埓に気を散じるようではいけないのだ。そうして強く反省するほどには、余所行きの洋装や蟹汁に興味深甚の摩耶だった。
彼女は細く溜息を吐くと、濛々と湯気を上げるドラム缶の元へと歩き出した。
◆
事の始まりは数日前に遡る。午後二時の明達寺、渡浪の姿は山門を潜り南に結ばれた庵に在った。庭園を臨む簡素な庵で、庵号を鵠因庵と云ったが、後年とある客人の私室として利用されるようになると、勝手に客人が軒先へと木板を掲げ、その名を叢魚庵と改めた。以来、客人が居なくなっても、庵号は叢魚庵のままになっている。
庵の文机の前に胡坐を書いて、渡浪は頬杖しながら破れかけの古臭い綴じ本を読んでいた。開け放たれた木戸からは庭園が見渡せる。やや荒れた溜め池の周囲には春を過ぎ、濃緑に色づく草々が勝手気ままに繁茂している。午後の少し曇った陽気が、書に目を落とす渡浪の心持ちに良く馴染む。ちゃり、ちゃり、と庭石を踏む音にゆっくりと面を上げた彼が認めた者は、果たして薬売りの格好をした遠見摩耶であった。
「こんにちは、渡浪さん」
明達寺への山道も決して平易な道行ではない。けれども、息一つ乱した様子もないというのは、流石に良く鍛えられている。背負い荷があれば尚更のこと。いやいや、実際に女性というのは逞しい。妙に感心しながら、中国の幻想詩人の世界から立ち返る渡浪であった。
「おう、おはようさん」
「今日はあの蛇女は一緒でないのですね」言いながら、背負った荷物を軒先へと降ろした。
「そう何時でも暇でないのだろうよ、神様ってのも存外に忙しい」
「そう云う貴方ばかりが閑雅の身、ですか。おや、李賀ですね」
文机の上に置かれた詩集の表紙を認めて、摩耶がぽつり呟く。それは千年以上も昔に編まれた中国の詩集であった。意外に思って渡浪が尋ねると、摩耶は兄が好きでしたから、と答える。してみれば得心がいった。
「なるほど、それはそうだ。目に覚えがあるに決まっている。ここにある本は全て秋徳の物だからな」云って、後ろ手に草庵のなかを指し示す。
叢魚庵の内部は見渡す限りの本で溢れ返っていた。天井まで届く書架に三方を埋め尽くされ、果ては床の上にまで夥しい本の群れが瀰漫している。正に本の海に溺れるが如し。叢魚庵とは良く云ったもの、ここに在る者は正に活字の海を泳ぐ一匹の小魚となる。得心のいった渡浪とは裏腹に、吃驚しているのは摩耶の方である。
「そんなまさか。これが本当に全て兄の所有物なのですか?」なにやら納得のいかぬ様子の摩耶である。
渡浪は床から適当な本を一冊手に取って、奥付を開いて差し出した。そこには蔵書印が押されてある。右側に縦書きで遠見蔵書と印字され、左手には木蓮の花のモチーフが刻まれている。確かに何度も目にしたことのある、兄の蔵書印であった。
「なんだか意外な心持ちがしますね。屋敷にはこれほどの量はありませんでしたし、兄はなにか一つ事に没頭するような性質でないと思っていましたから。これまでこの庵の本は全て渡浪さんの所有なのだとばかり」
「秋徳はむしろ過剰を好む性質だよ。恬淡なのはおれの方さ。秋徳はおれの凡庸さが心底羨ましいなどと云っていたが、おれからすれば過剰を許されるあいつこそ羨ましい」
摩耶は耳にするとどことなく心が騒ぐようであった。気恥ずかしさと共に、自分は兄について然程の知識も理解も有していないものの如く思われた。何時も自分に優しかった、屋敷に於ける兄の面影ばかりを思っていたが、それは彼の本当の肖像でなかったかも知れない。少なくとも兄の全容を捉まえることは今ここに難しかった。思えば兄も幼少から屋敷の仕事を任され、実地にその力を揮っていたのだった。恐らくは今の自分よりも遥か幼い少年の頃から。彼はその重圧に、どのようにして抵抗していたのであろうか。
「さて、ここに来たんだ。妖怪退治の口かい」
「ああ、いえ。それもありますが、先ずは貴方に手渡したいものがありまして」
渡浪の一言に我を取り戻した摩耶は、荷物から封筒を取り出しては渡浪に手渡した。受け取った封筒はずっしりと重い。それこそ木板のようにぱんぱんに充実している。
「今までのお給金です。長らく手渡せないでいましたが、屋敷から相応の謝礼が届きましたので、ここに。ご苦労様でした」
中身を検めるとぎちぎちに紙幣が詰め込まれている。妖怪退治の相場がどれほどのものか、見当も付かない渡浪であったが、一目してそれが条理を逸したほどの金額であることが知れた。
「まあ、貰えるものは貰っておこう。寺の修繕も捗るだろうからな」云って、懐にそれを収める。
「意外ですね。貴方のことですから、持ち物に飽かせて漁色に走るか、果ては乱酔の道をひた走るかとばかり思っていたのですが」
「お前さんはおれをなんだと思っているんだ。云っただろう、おれは凡庸で恬淡な人間なんだよ。吞み切れないほどの酒も女も必要ない。佯狂三昧の醜聞は老年の余禄と思って、大事に取ってあるのさ」
「それこそ始末に負えないではありませんか」
ぴしりとねめつけられると、渡浪は頭を掻きながらわははと笑う。
「それで? 仕事の用件は。またこいつで斬るんだろう?」
そう云って、渡浪は傍らに置かれた愛刀にそっと手を当てた。そうして、虫の知らせがあったからな、そろそろだと思っていた、などと口にする。虫の知らせ、ですかと摩耶が云う。
「うん。これが実に良い声で鳴く」台詞とは裏腹に顔を顰めながら、渡浪が苦笑いを浮かべる。
その様子を。自分はどこかで見たことがある、と摩耶は思った。まるで歯痛に堪える人のように耳の辺りを片手で押さえながら、泣いているような、笑っているような、その仕草、表情を、自分はどこで目にしたものだろう。
ともあれ、今回の仕事の概要を語る必要があるだろう。
「まあ、霊刀の出番があるかどうかはまだなんとも云えません。然程の遠隔地ではありませんけれど、この山を一時離れる必要がありまして。今回は出張ということになります」
「出張? そうは云ってもこれだけの人数しか居ないのに留守にも出来ないだろう」
「その点はご心配なく。入れ替わりに屋敷の方から幾人か代行者がやって来る手筈になっていますから、留守の間は彼らに任せるが良いでしょう。なにせ人数がありますから、専守防衛の形となれば先ず心配は要らないでしょう。私達は現地に向かい、そちらの責任者と協同して事に当たることになります」
「現地の専門家と合流する訳だ」
「ええ。今回の依頼主は現地の地主を経由する形ではありますが、当の神職者です」
渡浪は実に大儀そうにぽりぽりと顎を掻いた。
「なるほど。専門は専門でも、真っ当な神職者であった訳だ。それで手に負えない案件が回り回ってここに来た、と。戦力としては当てにならんのだろうなあ」
「そんなに厭そうな貌をするものではありませんよ、渡浪さん。仕事は仕事です」実にさっぱりとしたものである。
「それはそうだ。免責の尻拭いとばかりも云えないだろうよ。一般の神職には荷が勝ち過ぎる。それで仔細は?」
「渡浪さんは元水町をご存知かと思いますが、そこに古くから在る石橋が戦時のごたごたもあり定期調査も近年行われていなかったところへ、橋脚に異常を発見して急遽取り壊しが決定したのです。それが半年前」
「それでこちらにお鉢が回って来たってことは、事態はもっと先に進んでいるんだろう?」
「ええ、その通りです。新橋建造に当たり着工式も地鎮祭も滞りなく済んだのですが、問題は工事の始まったその後。昼日中は何事もないのですが、夜になると」
「出るのか」
「その支流に架かる橋の周辺、川縁の当たりに、蝶が舞うそうです」
「蝶? 蝶って云うと、あのひらひら空を飛ぶ、一頭二頭のアレか?」
「ええ、そうです。正しくは、薄紅に光る蝶の形をしたなにか。目撃談も後を絶たず、それを目にすると何時までも取り付いて離れない。気味悪く思って家路を急いでも、どこまでも後についてまわり、気が付くと隣を併走しているのだとか」
「それで実害は?」渡浪が重ねて問う。
「今のところはまだなにも。夜半に悪夢に苛まれる程度で済んでいるようです。しかしこれで済むかどうかは知れません。なにか大きな凶事の先触れであるかも知れません。蝶が鬼火の類であれば、その可能性は高まりますし、放置すれば現地民の心証も悪くなる。地主と神主とはこれを見過ごすことは出来なかったのでしょう。その判断を、私は的確だと思っています」
「ふぅん。その神主とやらは現地の氏神社の者かね」
「それはその通りですが、なにか?」摩耶は小首を傾げながらそう口にする。
「いや、両者の利害が極めて密接に一致すると思ってな。氏子の信用は氏神の信用さ。地主にとっちゃ発言力にも影響する。ましてそこに神の威徳が掛かっているとなりゃあ尚更だ」
「概ねその通りです。貴方もまともに頭が働くではないですか」
「馬鹿云え。おれがなにして飯を食ってると思ってる」笑いながら渡浪が云う。
そう耳にして俄かに、ああ、そう云えばこの男は仏僧であったのだ、と摩耶は些か驚愕の体。渡浪は太刀を片手にすっくと立ち上がり、良し、やるか、と気合を入れた。
対するは幻夜の妖蝶。涼やかな夜の淵辺に、ひらと舞うは凶事の先触れか。
頭蓋に響く宝来鈴の音色も鮮やかに。渡浪一人は確信する。
薄紅に身を染める妖蝶の導く先、長い夜の奥底に、斬るべき相手は屹度在る。