表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
22/67

酒場『ヨイヨイ』

 なだらかな勾配の坂下に海を臨む港町、元水(もとみず)町の飲食街には、日の暮れから行灯が赤々と燈り、海風を受けては酸漿(ほおずき)の果実のように僅かに動揺して、水平線に没した斜光の名残りを宵の口に留めおく。


 鬼灯とは良く云ったもの、榾火(ほだび)に纏綿して離れぬ郷愁とどこか空恐ろしい印象とは、これが死者の霊魂の標である為か。闇夜に燈る明かりとは古来より人の恐れ多きものであって、一つ火などが忌避されるのも、これを以って黄泉比良坂に向かった男神の有名な故事による。此方から、彼方へ。念頭に特別の思量がなくとも、我々は呆と燈る灯りに何事かを思う。


 火に身を投じる蛾の、走性(そうせい)を考えてみる。確かに我々には暗闇を忌避する本能がある。それはビルディングの裡に無数のガラス片と瓦礫の山が予め印刷されているような仕方である。闇を恐れ、光を燈す。無数の光芒の眩暈(げんうん)は我々の恐怖を覆い隠してくれる。しかしながら、被覆される根幹の直視せざる当のもの、それはスタティックな死への憧憬なのではなかろうか。


 光を生み出すのが人間の正の走光性ならば、過剰な光芒の眩暈は負の走光性に違いない。眩暈は遁走である。数が少ないこと。そしてその多少に関わらず強い指向性を持っていること。その刺激は甚だしい。文明化とは、とどのつまりシャーマニズムの根絶であって、光の皮膜が覆い隠さんとする正極に反する一方の希求は、皮肉にも暗闇に切り拓かれた光彩の乱舞の内にこそ、逆説的に暴露される。上古の時代、天を焼く火災の業火に、或る人は祈りを捧げ、涙さえしただろう。それを奇矯と判ずることは出来ても、その親昵(しんじつ)な情念を我が物として手中に握り込むことは随分と難しくなった。


 また、戦争が人心に手酷い一撃を見舞ったことは確かなことで、実験の他にも上記の愚にも付かぬあれこれの上にも幾らかの変質は見受けられた。彼我差と二項対立はそのままに雑駁な民族性へと解消されたかに見えてはいても。それだから今ここに、敢えて文明化に異を唱えるものが居たとしたら、彼はシャーマンなどではなく、自身の故障が要求する内情の弁護をしているに過ぎない。主客は転倒する。少なくともこの時代、シャーマニズムとは光の礼賛であり、被覆者こそがシャーマンであるから。彼は本覚(ほんがく)思想の如きものには満足しない。一つ火から目を逸らせなくなってしまった、退路を断たれた、この憐れな弁明者をなんと呼ばわろう。


 さておき、健常の生活者はどうかと云うに、この町に代表される漁師の一群が好例であろう。彼らは日一日の労務を終えると、見知った仲間の一群を伴って、いそいそと坂の上へと歩き出す。途中幾らか中継点を挟んで、同好の士を迎え入れると、宵の飲み屋街へと推参する。当の家の前などで偶さか行列が出来たりすると警察がうるさいので、こうして道々寄り合って向かうのである。各々の仕事の成果や、上等な酒を飲ませる家はどこそこだとか、情報を交換し合いながらの道中である。


 彼らに馴染みの家に『ヨイヨイ』と云うのがあった。これは正式な屋号ではなくて、当の飲み屋の主人が白髪交じりの、腰の曲がった爺さんであることに由来する。燗をする指先もぷるぷると震えて、正にヨイヨイの体であるが、包丁を握るとそれがピタッと止まる。包丁捌きが実に達者であり、さながら老兵の如く眼光鋭く、見る間に俎上(そじょう)に一品が出来上がる。ところが料理を皿に盛って客に差し出す段になると、精根尽きたかのように定めしぷるぷるが始まるのである。それが客の目には随分面白い。料理も特段に美味い。


 また主人のおかみさんが変わっていて、これは主人に二回りも違う年下の女で、元は芸妓であったものらしい。なかなかの別嬪である。蓼食う虫も好き好きだな、と失礼にも酔客がからかうと、純真にも顔を真っ赤にして、「なんてことを云うですか!」とやる。主人は無口な性質だから、その遣り取りを見て静かに微笑んでいる。そんな様子も好ましい。


 一体どうやって主人はおかみさんを口説き落としたものか。はたまたその逆であるのかもしれない。冴えないようで上等の手腕の主人である。戦時中店には割り当ての清酒類をどこに溜め込んでいたものか、金さえ払えばちゃんちゃんと呑ませてくれる。これは少し割高であって、酩酊の境に至るには些か以上に金が要ったが、そうもいかぬ者には手製のドブロクを出す。これは割合に安く、味も評判であったが、こちらには適当な肴を付けてセットで販売することで客単価を落とさない。肴は小体な口取りみたいなものから、好い加減な天麩羅まであるが、第一味が良いので不満も起きない。元は一級料亭の板前であったとかで、実に如才なく食えない親父である。


 既に酔いの回った客がカウンターに肘を突いて何事かを話している。小魚の佃煮をぽいっと口に放り込んで、ドブロクを一口。


「お前も海軍だったろう。燃料アルコールって呑んだことあるか?」シャツを腕捲りの大男が云う。


「いや、ないな」眼鏡をかけた小柄な男が応える。


「勿論ご法度だったけどな、どうしても我慢ならなくて呑んだが、あれはマズいね。なんだか石油のような匂いがする。工業アルコールなんかも呑むと失明するって噂だったが、メチルとエチルってのがあってな、おれが呑んだのは航空一号って奴だった。隠れて一杯やって、かぁーっ、これでおれも明日にゃあ全盲だあ! なんて思ったが、失明しなかったところをみると、おれにもまだ運があるね。同僚は他の燃料アルコールを呑んで失明しちまった。目脂がボロボロ出てきてな、眼球がしわしわになっちまうらしいんだわ」


「それでも呑むかい」小柄な男は苦笑い。


「断然、吞むね。これが痛飲しなくてやってられるか。おかみさん、もう一本」


「そろそろ止めといた方が良いんじゃない?」


 心配そうに顔を覗き込むおかみさんに腕捲りのエチルが応える。いいんだ、いいんだ。そろそろと出されたドブロクを一口やると、


「ちょっと薄くないか? 焼酎足してくれ」


「やだ、そんな混ぜ物、ウチはやりませんよ」


「そんなことないだろう。ハナから混ぜてるじゃないか。おれの舌は誤魔化せねえ」


「そりゃ主人の腕が良いからですよ。それでそんなにベロベロになっちゃってるんだもの」


「へっ、何時か尻尾掴んでやる」エチルは云いながらぐびぐびとやる。


 おかみと小柄な男は互いに目配せをして、苦笑する。そこへ、玄関が音を立てて開いた。何時もの漁師の一団かと思って目を向けると、そこへ立つ来客はこのような場所に似合わぬ十五、六歳の少年であった。サスペンダー付の黒いスラックスに白いシャツ。スラックスと同色の上着は肩に掛けられ、サスペンダーは肩に掛けられることなく、両腿の脇にだらりと垂れ下がっている。太いベルトには大工の腰道具のように幾つかの小物が収まっている。木箱のような物から、柄の付いた作業用と思しき道具まで。胸元に垂れたループタイの上に乗った顔もふてぶてしく、旅行鞄を脇に退けると素早く店内に視線を走らせた。


「いらっしゃい」ともあれと、おかみが声を掛ける。


 少年はおかみを一瞥すると、臆することなく先客の座るカウンターへと歩み寄り、彼らから二つ席を置いてそこへ腰掛けた。すかさず、エチルが口角に笑みを浮かべて云う。


「ドブロクにゃあ、まだ早い」


「酒が要らない歳なもんでね」そちらを見ずに少年、勝谷夏彦は口にする。


「へへっ、そりゃそうだ。働きもしない、戦争にも行ってない子供にゃ、酒の味は判らねえ」


 判るからって、それがどうだって云うんだ。夏彦はエチルの一人笑いを横目にごそごそと懐を検めた。ざらざらとしたエチルの笑い声が神経に纏わりつくようだった。


「それで、ウチは飲み屋なんだけど、キミにはお酒は出せないよ」


「なにか食い物を出せるでしょう? 適当なものを下さい」


 おかみが頷き、主人にその旨を伝えると、向き直ったおかみに夏彦は懐から取り出した一葉の写真を見せて、


「人を探しているんだけれど、おかみさん、この辺りでこの人を見なかったかな?」


 見ると、三十台半ば頃の西洋の絵本に出てくる魔法使いのような容貌をした男が、犬を抱えてこちらへ微笑んでいる。おかみは首を振って、


「見ないけれど、キミの知り合い?」


「いいや、知り合いって訳じゃない。ただ、この人に用向きがあるんだ。それじゃあ、この界隈に骨董品を愛好するような蒐集家はあるかな。また、そう云った趣味のありそうな金持ちだとか」


 ううーん、と口元に手を遣って、おかみは律儀にもつと考える風であった。何気ない仕草が妙に婀娜(あだ)っぽい。エチルと小柄な男は横槍こそ入れはしないものの、酒を飲みながら夏彦へとしきりに関心を向けているようであった。そしておかみは幾つかの見当をつけると、


「地主の見崎さんとか、漆原さん、とかかなァ。見崎さんはその方の趣味があるか知れないけれど、この辺りの富豪だから買い求めても不思議はないし、漆原さんは芸術家だから持ってても不思議はないかもね」


 夏彦は思案する。両者共に、警察の手入れはあった筈。そうとすれば、


「それじゃあ、二人の身辺にこのところ変わったところはなかったかな?」


「変わったところ? なんだか、キミは警察みたいなことを云うね」


「なあに、子供のごっこ遊びだろう。見崎さんは質実な人だし、余計はないが、漆原の野郎はいけ好かねえ野郎だよ。寄り合いにゃあ顔を出さずに岬の屋敷に引き篭もって、売れない詩なんか書いてやがる。虚業で食ってる盆暗だな、あいつは」


 聞いてもいないうちから、受けてエチルが応じる。見当違いではあったが、どうにも漆原という人間は同所に於いては多少浮ついた存在であるらしい。それが夏彦の興味を惹いた。エチルへと向き直って、


「その漆原って人は随分変わっている?」


「ん? おお、そうだな。元々人見知りが激しい奴みたいでな。滅多に人前に顔を出すような奴じゃない。それでも昔は偶にここにも顔出してたみたいだけどな」


「やっぱり奥さんが亡くなってから気が伏せっちゃったんだろうね。あれで仲良くやっていたみたいじゃない」


「どうかな。他人にゃ判らない」エチルはにやにやと笑った。


「やだねー、含みのある言い方をして。それにしても、歳の割りにキミも妙なことに関心を持つね」


「関心と云おうか、まあ、仕事の範疇だよ」


「仕事って?」


「さっき見せた写真の男はね、美術商をやっていたんだ。やっていた、って云うのも、ここ一ヶ月近く行方が判らないからで、僕は彼の奥さんの依頼で捜索をしているんだ」


「捜索って……。警察には届け出ているの?」


「それは勿論。僕はまあ云わば保険だよ。最後にこの美術商、小林って云うんだが、この元水町に商談に出掛けると云い残して後は行方知れずなのさ」


「あぁ、それで。三週間くらい前に見崎さんの家の周りに警察が立っていたっけ。今も時折警官の姿を見かけるから、僕はてっきりこの辺りの飲み屋街が目をつけられたのかと冷や冷やしていたが、そういう訳だったのか」小柄な男が云う。


「それで、警察の調査では少なくとも見崎、漆原の両名に小林が面会したという報告を上げている。丁度一月前にね。それからの足取りはぷつりと途絶えて知れない」


「警察なら。ウチにも来たよ」はいよ、と玄米飯と汁物に佃煮が乗った膳をカウンターに仕掛けて、それまで口を噤んでいた主人が云う。


「ええ? ワタシ聞いてないよ?」


「云ってねえもん。兄さん、写真見せてみな」主人から膳を受け取ると、夏彦は代わりに写真を手渡した。さっと主人が写真を一瞥する。


「うん。モノは違うけど、確かにこの人だ。同じように写真を見せられて、最近見ないかと訊かれたよ」


「それで?」


「知らないものは知らないからな。判らんと答えたよ」


「ひゃー、爺さん危ないところだったね。うっかり摘発なんてことになったら目も当てられない」とエチルが冷やかす。


 そこはココよ、ここがアレよ。云って、主人は二の腕を軽く叩いておどけて見せる。


 一座が寛いで、膳も上がったところで、夏彦は一旦問答を切り上げて箸を手に取った。玄米と佃煮を一緒に噛み締める。小魚の佃煮の凝縮した旨みが玄米のぶつぶつとした食感と相俟って堪らない。汁物は具の少ない水団のようなものであったが、安手の割りに満足できた。夏彦はかっ込むようにそれらを平らげると、箸を置いて息をついた。


「ご馳走様」


「はいよ」主人が頷く。


「しかしアレだな。兄ちゃんは見たところ学生だろう? こんなとこほっつき歩いてちゃいかんだろう。それとも学業を疎かにしてでも是非ともやりたいというほど、人捜しってのは儲かるもんなのかね。それとも、その小林って男の家族に思い入れでもあんのかい」


 酔いが回って眠気が来たのだろう、目をちょぼちょぼと遣りながらエチルが云う。それに全てを答えるのでなかったが、夏彦は云う。


「これでも主席なんでね。今は休学中だよ。社会見学の一環ってところだな。それより、小林の話も重要だけれど、他にこの辺りには妙な話があったりしないかな?」


「妙な話?」おかみさんが小首を傾げる。


「そう。例えば妖怪みたいな。民間伝承の類さ。僕はそういった話を聴いて回るのが趣味でね。なにかない?」


「ここらで有名な話って云ったら、人魚なんかか」意外にも話に食いついたのは主人であった。


「人魚と云うとあの人魚伝説の?」


「ああ、食うと不老不死になれるって云う、あの人魚。こんなのは海の近くならどこにでも転がってる話だろうが」


「いやいや、爺さん。あながち空想とも限らないぜ。港で働いているおれ達からすれぁ、随分ヘンテコなモノが上がるからなあ。そのうち人魚だって打ち上げられるかも知れねえよ」


「おう、そしたら、ウチが仕入れてやらあ」老人が快活に笑う。


 枝葉末節は異なれど、彼らから聴く人魚の話は概ねポピュラーな代物であり、主人が云うように海の近くにならどこにでも転がっていそうな話であった。何れ人魚伝説の正確な分布図も作らねばなるまい。他の妖怪譚と対応させる為にも、ヴァリアントの収集は欠かせない。一方、小林の足取りについても新たな発見はなかったが、しかしそれは夏彦の想像の通りであった。彼の本来の目的は、小林の捜索でも妖怪譚の収集でもない。それらは今回の旅程の小目的に過ぎない。彼がこの地を訪れた本来の目的は、


「ところで、渡浪幾三って男を知らないか?」


 盗人の捜索にある。夏彦はこの旅程に於ける本題を切り出した。










評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ