低回行路
例えば、それはジンメルの話であったか。それともマルクスであったか。今日の日本に根付き、何気なく我々の用いるところの教養というワード、カルチャーという言葉は一方で文化とも訳されている。日本語の性質から随分と曖昧なことになってしまってはいるが、本来の字義に於いてカルチャーとは畑を耕すという意味だ、というような話。
例えば林檎を栽培してみる。酸っぱいばかりで食えたものでない野生の林檎を、食用に供する為、味覚の満足の為に改良する。そこから多種品種が発明される。デリシャスだの、紅玉だの、秋陽だのが出来上がる。するとその林檎の木は全き教養を受けた木ということになる。これが実を収穫することなく成木を切り倒して、その材木から家具を作る、という話になると、そんなものはカルチャーではない。横暴だ、無理無体だ、横紙破りだ。つまりは林檎には実を結ぶという唯一無二の確かな素質がある訳で、そこを耕すということがカルチャーなのだ。概ね、そのような話であったかと記憶している。
――だからもし、或る知識が僕にある素質を涵養することがないのだとしたら、その知識は僕にとって無用の長物であり、またどれほど高度な知識を得たとしても、そうである以上、僕は文化人になったことにはならない。カルチャーを受けた訳じゃない。
カルチャーは大目的を必要とする。成立条件と云っても良い。兎も角、それらは人間の或る理想形を固く信じ、人間が人格を向上させる唯一無二の確かな素質を持っているという信仰の上で、初めてその意味を生ずる。
では、我々の素質を涵養し引き伸ばすだけの教養を教育の現場は提供し得るか。一体に各人各様の隠れた素質を過たず見出すことからが至難の業である。そこで、教育の現場に求められるものは文化教養という、今となっては破れかけの信仰に変わる大目的を弥縫する為の、新たな表題である。曰く、自由な校風。曰く、社会に通ずる専門的人間の育成。曰く、人倫主義者の生産。曰く、篤信家の発明。曰く、曰く、曰く……。
生産者の苦労が偲ばれる。教育者は最終消費者の要求にどう応えるべきか。次々と立ち現れる問題に応接の暇なく、彼らの精神は磨耗してゆく。大体、日本人の教育家には当然与えられるべき報酬が余りに少ないのだ。報酬を自意識にのみ求めるようになってはいけない。それを卑俗であるなどと、誰に云えたものだろう。報われないと決まれば反動が生まれる。教育の現場は形骸化し、なあなあ主義が跋扈するところとなり、遂には瓦解する。
個性を尊重し、育むことは結構だ。それが教育の賜物であれば上々の首尾であろう。また、教育の本題とはつまるところ統制と馴致であろう。学徒の自意識を触発するが本分であろう。故に効能を約束された合成肥料を辺り一面に振りまいて、さあ育て、ではいけないし、与えられるがままに野放図に伸びるがままでもいけない。教師は林檎の栽培家ではないし、学徒は林檎の木ではない。緊密に対応関係にあるという点でそれと同じであっても、絶対の懸隔がそこにある。
林檎の素質とはなにか。生育し、実を結び、種を遺すことだ。
それは生命力と言い換えても良い。生命の大目的を叶える為の力。人間の場合には、大目的と小目的が転倒することが問題となる。
――それはだから、こういうことだ。
――だからもし、或る知識が僕に在る生きる力を涵養することがないのだとしたら、その知識は僕にとって無用の長物であり、またどれほど高度な知識を得たとしても、そうである以上、僕は人間になったことにはならない。
――人間にとっての素質を養う教養は、常に未決の状態にある。それを林檎の木ではない僕らは、自らの手で採択しなければならない。現代人は、少なくとも僕らは、首から上の無い人間だ。若しくはそれに類したトルソーだとか、或いは切断された林檎の木、書き継がれることなく破却された原稿。問題となるのはどのように生きるかであって、何の為に生きるかということに意味はない。僕らは完了しない。だから、口にすることは出来ない。可能態として引き裂かれ、そして自由のなかに溺れ、苦しい息継ぎをしている。それで身に付ける拘束具は常に劇化の性向を僅かながらに帯びている。全く、林檎ってのはあれで偉いもんだ。水と、陽の光があればどっしりと充実しているんだから。全く融和しているんだから。
黙々と考え事をしながら歩む少年の足が、半刻ぶりに舗装路を踏んだ。太陽は西に落ちかかり、行く手に民家が見え始める。どうにか夜までには目的地に到着できそうであった。未だ眼界に認めていないものの、ふと鼻先に磯の香りを嗅いだように思った。
――まあ、林檎と頭の無い人間は廃して、それより有用なことを考えよう。例えばそうだ、山県先輩のあの、大人カードという概念。
それは今から二ヶ月ほど前のことだった。今と同じように日の暮れかかる時分、少年と山県という先輩は少年の自室に座して他愛もない会話をしていた。山県の趣味に付き合い、二人で寄席に行った帰りのことである。山県は猫背気味の、眼鏡を掛けた目付きの悪い、右足の不自由な、素行不良で有名な生徒であった。一方の少年はと云えば学内でも指折りの秀才であり、そんな正反対の二人がこうして昵懇にしているのを周囲は訝しく思っていたが、二人の交際の実情は非常に恬淡なものであって、彼らが懸念するような要素は幾らもなかった。
山県が「おい、勝谷。寄席観に行かないか」と云う。少年が「それじゃあ、行こう」と応える。簡単なものである。折も折、本式の寄席などなかったから、彼らが足の赴く先は素人寄席である。主に学内の有志が開催するそれを冷やかしに行っては、こうして自室に戻っては寸評しあうといった按配。毒にも薬にもならぬ、たまに女を買ったり、無茶をやる奇妙な隣人。凡そ少年の彼に対する評価はそのようなものであった。彼のなにを知っている訳でもない。酩酊したような、麻痺したような、そんな気楽な関係を少年は気に入っていて、その日も調子よく勝手な寸評をしていたのであったが、なんの弾みか、少年が林檎の教養の話をすると、山県は分厚い丸眼鏡に手を掛けて、頻りに感心してみせた。
「へぇ、いいじゃないか、その林檎の話。いいね、勝谷にしちゃ面白いことを云うじゃないか。実際に林檎は可能態と現実態が融和しているからな。人間はそっちこっちに行ったり来たりだ。首無しトルソーよりは、ピエロの拘束具こそが題目だな。ああ、だから全く、喜劇ってのはおれを厳粛な心持ちにさせるよ、うん」
「だから、なんだって?」
「だから、喜劇はおれを厳粛な心持ちにさせるって、云ったんだ」
山県は不思議そうに目を瞬かせた。山県の会話はこのように多分の飛躍が見られた。それを少年は彼の知恵が足りないからだとは思わない。ひょっとすると、平均以上の知力を有しているのかもしれないと考える。しかしながら、それ以上に要領を得ない。余りにも不器用に過ぎる。それが周囲に自身の行動もあり、なにかパラノイアめいた不吉の印象を余計に与える原因となっているのではないかと思われた。雄弁な吃音者は続ける。
「アレだ、勝谷は『大人カード』って分かるか?」
「なんだよ、『大人カード』? 知らないよ」
「なんだっけ、確かどっかの本にあったと思うが、ひょっとするとなにかから着想を得たおれの発明かもしれない。いや、多分おれの発明だ。うん、『大人カード』ってのは色々あるが、例えば売春はカード、不動産もカード、おれの右足なんかはちょっと珍しいカードだ。他にもあるぜ、明晰な頭脳だとか、端麗な容姿だとか……」
「親が連続殺人犯」少年は試みに例を挙げてみる。
「グッド。それはかなりの珍品だ」山県は不敵に笑ってみせる。
少年は山県の発明なる『大人カード』の概要が僅かながら掴めたように思えた。『大人カード』とは大人や有力者の持つ切り札を意味するのではなく、個々人に配分された要素を表している。まだ挙がってはいないが、個人が努力して獲得した技能もこれに加わるのだろう。しかしそれ以前にポーカーのように無作為に配分された『手札』を象徴するもののようにも思われる。いずれにしてもそれらを用いて遊ぶポーカーならぬ『大人カード』という形式に、山県はなにかを仮託しようとしている。そしてそれは恐らく林檎の教養に関係がある。
「つまり『大人カード』ってのは、持ち得る手札を使って如何に手役を作るかっていうゲームさ。麻雀みたいなもんだよ。親が連続殺人犯ってカードや牌を抱えているからこそ、見えてくる手役がある。だからこそ、引き寄せることが出来るカードがある。林檎の教養に於ける教養はこのカードに該当する。問答無用なんだ。おれ達は厭でもそれを養分に変えなきゃならない。なんでもそいつ次第さ。でもな、そんな教訓はどうでも良い。肝要なことは只ひとつ」
「なんだよ、もったいぶって」
「それはな、ゲームの内容如何に関わらず、おれ達が大目的そのものだってことだよ。そうだ、おれ達は『常に既に賭けられている』」
ぐっ、と。少年は息詰まるような気がした。首根っこを引き掴まれたような気がした。少年に山県は今一度笑いかけて、学生服のポケットからアーミーナイフを取り出した。茶色のエンブレムが刻まれた多機能ナイフ、十徳ナイフとも呼ばれるそれを少年に差し出しながら、
「人間の精神ってのはこの十徳ナイフに似てるってね。ツール性とモジュール性という奴だな。お前にやるよ、これ」
「唐突だなあ、カードの話はどこ行っちゃったんだ?」
「だから、十徳ナイフに結論したんだろうが」
山県は不思議そうに目を瞬かせた。だから、どうして十徳ナイフに結び付くのか、少年には全く理解が及ばなかった。手渡された小振りの十徳ナイフは、じっとりと熱かった。んじゃ、行くわ、と云い残して、この奇怪な先輩は少年の部屋を辞した。去り際に、
「林檎の教養とピエロの拘束具は、きっとお前の発明だよ。それが必要だったということは」
そんなことを少年は耳にしたような気がする。二階の自室から去りゆく山県の後姿を机に頬杖で眺め遣る少年。山県は暮れゆく街並みを、右足を引きずりながら歩いてゆく。重りを付けたような右足をギコギコと、不器用に悪戦苦闘の行路である。
――あんたは何処へゆく。山県先輩、あんたは何処へ。
手にした十徳ナイフを弄びながら反芻する。だから、十徳ナイフ。だから、十徳ナイフ。それは滑稽な響きであった。弾き出したナイフのブレードは油に汚れて若干錆が浮いていた。それが必要だったということは。リフレインに少年は目を閉じて沈潜してゆく。
――ああ、確かにそうだ。喜劇ほど人間を厳粛な心持ちにさせるものはない。林檎の木のように、融和していないから。
……今も、確かなことは判らない。山県が口にした本意も、自らの陥穽の本質も。ともあれ、一個の事件を通過して、僕は今の僕になった。『手役は成った』のである。ならば後はこれを張り通すだけ。
少年は懐から一枚の写真を取り出した。モノクロ写真の中央には、三十台半ば頃であろうか、禿頭に鉤鼻の中年男が小型犬を胸に抱いてこちらへ微笑んでいる。些か日本人離れした彫りの深い造作であるが、歴とした日本人である。
――やれやれ、窃視症も高じれば『大人カード』になるらしい。
少年は苦笑しながら、辿り着いた港町を一望した。日は落ちて、辺りには僅かに残光が漂う。強く磯の香りが鼻を刺した。先ずは当夜の宿を探そうか、それとも情報収集に当たろうかと考え、後者を採択すると、勝谷夏彦は薄明かりに行灯ともる飲み屋街へと足を向けた。