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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第二章 妖蝶両婦地獄
20/67

其の名おそろしきもの 表

 



 ――嗚呼、これで、私は漸く終われるのですね。身に刻まれるべき報いを受けて。


 けれどもそれは、完全な浄化を意味しない。


 私の業は、貴方へと受け継がれてゆく。


 白い無染の、花のような貴方へと。


 願わくば、その全き浄化と因果の截断を……。


 私の刃を受けて、今まさに死の底へと落ちようとする女性は、口の端に血を溢れさせ、息も絶え絶えでありながら、こちらの目をしかと見据えてそう口にした。その有様は先夜の彼女の陰鬱な、云ってみれば深海に住まう回遊魚の如き、薄気味悪い印象からは余程隔たりのあるものであった。

 

 それから彼女は私に幾つかの忠言を遺して、露と消えた。文字通りに、消えたのだ。白い床板に、身に着けた衣類の一切の跡も無く、ただ口の端から数滴零れ落ちた、真っ赤な印のみを留めて。


 私は胸に手を当て、耐え難い動悸を抑え込みながら、床の埃を飲み込みつつ、次第に広がってゆく深紅の領界を見つめた。目を逸らすことを許さぬ一個の生命の印を。私の罪の象徴を。



 ◆



 ばさり、と音を立て、暁闇の泥濘(ぬかるみ)を化生は飛んだ。


 しかし、あの飛鼠(ひそ)にも似た両翼は自由な飛行を約束するものではないらしい。先の一撃が結果したとも考えられぬではないが、元より空をゆく者ではないのだろう。化生は中空を蛇行しながら、重量感のある陸生生物からも尚遊離した異形の姿を、こちらへと旋回させる。警戒はしているが、反攻に転ずるのも時間の問題であろう。持ち得る手段はなにか。こちらの対抗し得る手段はなにか。少年は化生を睨みつけながら、口元にちょいと手をやると、高速で思考を走らせた。


 (……塵輪鬼(じんりんき)、か? いや、海洋生物も混交しているな。……起源はどこにある)


 傍らに立った遠見摩耶の四囲には榊の枝が、砂浜の上に深々と突き立てられ、俗界と一線を劃す聖域を為す。見開かれた両の目には、はや金色の光の輻輳し、両の手に捧げ持つ弓箭には神気が満ちる。少年の自己観想した仏の目よりも尚、精度の高い浄眼、神そのものの眼である彼女のそれには、闇夜に羽ばたく異形の姿がありありと映っていることだろう。それであって、気丈にも気後れする様子もない。より少なく見積もった専門家としての評価を、改めなければならないな、と少年は思う。けれども、彼女にはまだ決定的に足りないものがある。矢筈を握り込んだ摩耶に対して、間三秒の思考から立ち返った少年は云う。


「駄目だ! 弓は使うな、遠見サン」


「どういうこと? 夏彦くん」


 神と合一し、表情の欠落した摩耶はそれでも怪訝そうに小首を傾げると、自らの挙動を制止する横柄な少年へと視線を移した。噂に伝え聞く本職のその眼の迫力に、流石の少年も息を呑んだが、


「推測通りなら、『伝染(うつ)される』! それと、奴に影を嘗められるな。遠見サンはこっちの援護に回ってくれ」


 云い残すなり、少年は摩耶の元を離れ、飛翔する化生の元へと砂を蹴り上げて走り出した。


(彼女に足りないもの。それは経験だ。神代のレプリカという怪力乱神を以ってしても、千篇一律にあれらを制することは出来やしない)


(しかしそれにしても……足場が悪いな。面倒なことになった。これならサッサと摩利支天でもなんでも使ってサクっと暗殺しちまうべきだった)


 少年の攻勢を見て取ると、中空の化生は腹に響く法螺貝のような音声を発する。それは慟哭にも似て、されど名状し難い異形の声音。我々の良く見知った哺乳動物の貌を足下の少年へと向けると、化生は大きく口を開き、涎のように湧き出るそれを吐き付ける。


(はっ、やっぱり毒かよ! 流石は玉石混交の妖だ。他にはなにが混じってる)


 緑色をした不浄の塊りが少年を襲う。しかし、これで易々と倒されるようでは怪異討伐の専門家の名折れ。少年は口を閉じ、口中に真言を唱える。左手を腰に、右手を収め、我々の良く知る、あの風貌異彩の無頼漢を思わせる、型は居合いの刀印の形。


 ――真言密教に曰く、三密。


 ――身、口、心。手に諸尊の印を結び。口に真言を読誦し。心に曼荼羅の諸尊を観想する。


 ――本来は修行法として用いられるものを、少年は独自に深化させる。遠見摩耶の用いる神降ろし、同化合一ではなく、その効能のみを観想し自在に用いる術。信に至らば真に通ず。少年は現前する妖から本尊へと逆算を開始。


 ――観想するは深遠なる金胎両部曼荼羅。適応する『効能』を選択。胎蔵大日如来に接続、ここまで、論理の破綻無し。


 それは陰陽道、修験道、果ては民間信仰へと続く簡素化された儀式呪術の一種。九字を切る、と云えば誰もが知るであろうところの護身法。オン、ア、ビ、ラ、ウン、ケン、ソワカ。少年は口中に読誦し、迫り来る緑色の悪毒へ刀印を抜き放つ。


 無色の清風が少年の右手から放たれる。それは妖の唾する悪毒を吹き払い、幾条の真空の刃となって滞空する化生の身を切り刻む。悲哀に満ちた化生の慟哭が響き、握り締めた果実から滴り落ちるように、緑色の体液が浜辺の砂を黒々と染めた。


(やっぱり「刀」は身に堪えるか? 先刻の飛燕剣にも面食らってたみたいだしな。しかしあれは刀というよりゃ飛ぶ刃だ。止めを刺すとなりゃあ、当然こっちの……)


 少年は腰に下げた木箱に目を遣り、頭を振って、背負った棒状の布袋に手を遣った。紐を解き、中から取り出された代物に、我々は見覚えのある筈である。取り出された物は一振りの日本刀。刃長は三尺、反りは九分。刀身無銘、来歴不明。渡浪が僭称す、一刀黄泉路送り。生死を象徴する霊山の反映を黒漆拵えの鞘に収め、彼の霊刀はその『本来の』持ち主と共に在った。


(太刀、かあ?)満面に喜色を浮かべて、少年が笑う。


 時同じくして、少年の後方より飛来した無数の札が化生を取り巻き、その身を縛り付けて、地に落とす。苦悶の声を上げながら、甲殻類のような外殻に守られた八本の足を力無く蠢かすそれに、少年は歩み寄る。


「さて、顕現寺縁起の真偽や如何、だ。試し切りさせて貰うよ、化け物」


 少年は無慈悲に宣告すると、構えた太刀に手を掛けて、


「……ん? なんだ、抜けないぞ、コレ」


 予想だにしない抵抗に当惑することになった。少年が幾ら力を込めても、鞘から太刀が抜かれることはない。石のように微動だにしないのである。


「な、んだっ、コレ。あのおっさん、なんかしやがったな。クソッ」


 少年は顔を赤くして太刀と格闘したが、一向に戦果は上がらない。先刻、彼は摩耶に対し絶対の実験の不足を指摘したが、彼のように経験豊富な専門家が特に注意しなければならないことは、それが地力のある者としては尚の事、実際に当たっては慢心をせぬことである。


 これではどうにもならぬと、太刀を諦めた少年は再度化け物に目を向けた。そうして彼が目にしたものは、繋縛の陣に繋がれた化け物の、身動き出来ぬ身体の代わりに大きく開いた口から差し伸ばされた、涎塗れの長い、長い舌である。同時に、自らの足元に砂浜から程近い屋敷の灯火を受けて、はっきりと影が浮かび上がっていることに少年は気が付いた。


 背筋を電流のような戦慄が走り、少年の視線を受けた化け物は、その牛の貌持つそれは、本来浮かべることのない表情を模ってみせた。つまり、ぬるぬると舌を少年の足下へと差し伸ばしつつ、目を細めはっきりと、にたり、と嗤ってみせたのであった。


「ヤバッ」


 慌てて守護の印を結ぼうと少年が太刀を取り落とし、化け物の舌が正に少年の影を嘗めようという時、背後からなにやら人の叫ぶ声がする。おおい、と人を呼ばわる声。それは次第に音量を増し、少年へと尋常ならざる速度で迫り来る。


「ぉぉぉぉおおおおおッッ!? 退け、退けッ!!」


 明らかに自分に向けられた性急な叫び声に、半身をずらして後方へ意識をやった少年が目にしたものは、果たしてこちらへと矢のように飛んでくる大男、渡浪幾三の姿であった。


 さて、地方の方言に、飛んでゆく、というものがある。これは急いでゆく、の意であって、なにも字の通りに空を飛んでゆくのでない。兎も角現場へと急行する、その意気込みを表しているのである。


 ところで渡浪は、読んで字の通り、空を飛んでいた。


 それも鳥類のように羽の有る身ではない、人間は本来飛んでゆくようには出来ていないのであるから、必死である。さながら空を泳ぐように、といっては些か以上に詩美のある。まるで水難事故に遭って溺れ掛けた者の如く、必死の形相で手足をわちゃわちゃとやりながら、どうにか抵抗のバランスを掴もうと悪戦苦闘の姿をして、彼は少年を瞬く間に飛び越えて、数間先の化け物の元へ慣性のままにすっ飛んでゆき、


「ふんっ」


 無理やりに身体を起こして、化け物の顔面に砲弾のように右足を蹴り込んだ。耳を覆いたくなる程の肉と骨の砕ける音。続いて、どどんっ、と地面が崩落するのではないかと思う程の地響きと砂煙が上がった。


(こりゃあ、死んだかな……)後方の摩耶を見ると、妙に収まり返った具合に威儀を正している。


 成る程、こういうのもあるのか、と少年が関心していると、砂煙のなかからゴホゴホと咳き込みながら渡浪が現れた。どうにか一命を取り留めたものらしい。遊行僧か剣豪のような襤褸切れ同然の黒壊色には、ぺたぺたと札が貼り付けられている。ふむ、と渡浪は足元の化け物を見て満足そうに頷き、ひとつ四股を踏むと、ぱしーんと小気味良く太腿を叩いて、


「絶大の、威力!」少年に向けてむんむんと力んで見せた。


 対して少年は如何にも気に入らないという調子で眉根を寄せる。ばかりか、ちぇっ、と短く舌打ちまでする始末。


「あんたなにやってんだよ、おっさん。出てくるなっつっただろ。と云うより、どうやって縛を解いたんだ……ってそうか、あのチビ、やってくれたな」


 少年は先日出会った遠見摩耶の側仕えだと云う、人形のように無表情な少女を思い起こして、暗澹と息をついた。


「なあに、虫の知らせってのがあってな。それに相方をそのままに安穏と寝っ転がってる訳にもいかないからな」


 相方、というのが遠見摩耶を指すのか、この霊刀を指すのかは定かではなかったが、自分とこの大男に問題であるのは後者以外に有り得ない。


「悪いけど、太刀を返す気はないぜ。これは元々僕んちのモンだ」


 ひっしと太刀を抱いて嫌々をする頑是無い少年に、渡浪はぼりぼりと頭を掻きながら云う。


「とは云ってもよぉ、抜けなかっただろ、お前さん? こないだは云ってなかったけどな、おれ以外の人間には抜けなくなっちまってるんだよ、それ。何人か見せてくれって人に云われて貸してみたことがあるんだが、誰も鞘から太刀を抜けなかったんだ。それで十人は下らないんだから、多分そういう代物なんだろう」


「どんなもんでも僕のモンだ、どうにか抜けるように始末をつけて……、と。どうやらまだ終わりじゃないみたいだぜ、おっさん」


 バリッ、と音を立てて、化け物を封じていた陣が破られる。先程の衝撃で陣を構成していた幾割かの札は効力を失ってしまったようであった。化け物は蟹の手を思わせる八本の足を地に突き、身を起こす。夥しい緑色の血液とも、毒液ともつかぬ不浄を際限なく垂れ流す顔面は、今や一個の裂け目と化している。憎悪に狂った怪異は、不気味な音声を上げて渡浪へと前腕を突き出した。


「わっ、っとと」


 渡浪は屈伸の要領でそれを避けると、護符を巻き付けた左手の甲で払い除け、距離を取る。外見の通りに手強い感触が、じんと左手の甲から腕全体に伝わってくる。


「ちぇっ、惜しい」


「云ってないで、太刀を寄越せ! どうせお前じゃ使えんだろう」


「だからって、あんたに渡す道理もないぜ」


 云っている間にも、化け物の八本足の猛攻は続く。渡浪は全身に隈なく貼り付けた札によって加護を受けているとはいえ、何時までも受け流していられるものでない。身体に伝わる衝撃は刻一刻とその峻烈さに度を加えてゆく。何れ破られるのも時間の問題であろう。少年は黙考する。なにが自らにとって最大の利益となるか。


(…………)


「早くしろっ、坊主!」蟹の手が地に突き立つ、砂煙が舞い上がる。効力を失った札はパラパラと渡浪の身体から剥げ落ちてゆく。


「坊主ってのは止めろ! ……貸すだけだ。いいな、おっさん。終わったらきっかり返せよな。それから、やるならこっちに合わせろよ!」云って、少年は渡浪の元へ太刀を投げる。


(肉の壁くらいにはなるだろうしな。なにより、後ろで神サマが見ているとあっちゃあ、な)


 少年は背後の遠見摩耶に苦笑する。


 渡浪は投げ渡されたそれを掴み取ろうと身を伸ばし、


 ――化け物の体当たりを受けて、十二間もの距離を吹き飛ばされた。


 (まり)のように砂煙を上げて勢い良く。全身の肉という肉、骨という骨が軋みを上げる。


「ッげぇっ……」咽喉元から湧き上がるそれを吐き出しながら、よろよろと渡浪は立ち上がる。


 はだけた黒壊色の下の肌には、垢で黒ずんだ札が腹巻宜しくペタペタと巻きつけられていた。ぷっ、と胃液交じりの唾を吐き捨てると、手にした太刀に指を絡げて、容易くそれを引き抜いた。すらり、と冷刃の鞘走り。無造作に下げられた切っ先から、続く波紋は生死の投影。幽鬼のように立つ渡浪の全身に、バネのように力が充填されてゆく。


「さて、仕切りなおし」


 殊に今、その者は人にあって人に非ず。彼我を切り結ぶ一個の理念の具現と化した。その他に恃むものとて無く、俗世不縛のこの命、敢えて賭するものは無し。元よりこの身の、一刀に賭ける鬼なれば。


「推して参るとしようかい」渡浪が一歩を差す。


 暁闇の海辺に、三者の夜は収束する。ぬばたまの闇は緑色の、浸潤する悪毒にも似て。覚めやらぬ長夜の悪夢は続く。夜明けの時はまだ遠い。ボォーーッと、法螺貝の音が聞こえる。其の名おそろしき、死出の道行き。












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