蓬髪無頼
むかしむかし、あるところ、と云っては語り口から大時代。
さまで遡行するまでもない直近のこと。
戦後間もなき山村の、山懐の闇市に、腰に大愚の一振刀、左手に瓢箪ぶらさげて、恥も外聞あったもの、路肩にどっかと尻降ろし、嘆息まじりのおくびを漏らす、風貌異彩の男が一人。
歳の頃は二十歳過ぎ、垢ずれて黒くなった紺袴に、襤褸切れ同然の僧衣を纏ったのがまたちぐはぐな。筋骨隆々と盛り上がり、蓬髪手櫛で掻き回す無骨とあっては、確かに天下を睥睨するの観、ないではない。ないではないが、よくよく近寄って見てみたが良い。なんともその表情の情けないこと。いとけないこと。
「はああん」
巌のような身体つきに比してやや繊細な、例えばそう、女と入水でもしそうな繊細なもやし顔を、ゲンコで十発ほど懲らしめて、やや嵩増ししたような部分的に美しい要素の散りばめられた、されど極めて野蛮に散文的な顔を鬱陶しい憂悶に曇らせて、なにやら色めき立った吐息を女々しく立ち上らせる、不景気極まりないこの男。
なにあろう、この男こそがこの物語の主人公が一。渡浪幾三である。
となみ、いくぞう、とは勇ましい。浮世の浪に白帆を立てて、是非ともがんがんに行って貰いたいものであるが、このように頼りにならぬ泥舟では、強か雨に降られた程度であえなく沈没間違いなし。
戦後復興期にあって雨後の竹の子よろしくバラックの林立する活況にあっても、この男の辛気臭さ、意気地なさ、まったくぶれるということがない。
いやはや立派。これもひとつの一本気というわけだわね、と、あろうことか情婦から離縁状を突き付けられて、ぺしん、とお尻を叩かれて追い出されたが最前。
早い話がただのヒモ。情状酌量余地もなし。
「程度の低いザマですね」
見知った薬師の女には通りがかりざま冷や水よろしく冷笑をバケツいっぱいにぶっかけられ、泣きっ面に蜂とはこのことかと、横に立つお手伝いの童女に笑顔を向ければ、
「…………」
うたた同情の念に堪えない、といった様子。握った拳をこちらに差し出すので、はて、なにか呉れるというのかしらん。男もおずおず手を差し出した。
無言のままに差し出されたチョコ・チップを有り難く押し頂くと、それはチョコ・チップではなく、皆が良く知る胃痛薬であったという。どこまでも気の回る童女である。
そうして別れ際に童女のくれた落花生の殻をしこしこ剥きつつ喰らいつ、路肩にへたばって酒を飲んでいるという仕儀であった。
――ぽりぽり。うむ。口中に溢れる苦味。これはおれの苦悩の味だ。おれはこれをいっぱいに噛み締めねばならぬ。この口中にある苦悩の味を。我が物としてどこまでも味わわなければならぬ。
なにやら勿体らしく如何にもな、取ってつけたような言句である。なにより彼が口いっぱいに頬張っているのは、実存的な不安でも苦渋でもなく、童女に恵んで貰った落花生であり、それをさもさも美味そうに喰らう彼の姿、正視に堪えないとはこれこのことである。凋落ここに極まれり、といったところである。彼は自己の滑落ではなく、実際に即した才覚の欠落をこそ嘆き、悲しむべきであろう。
とはいえこの男、ただ女に縋って生きているばかりでもない。立派に彼は彼のお勤めに励んではいるのである。それがなんら実利的でなく、実際的でなく、早い話がまったく儲けにならぬというだけのこと。
そう、恐ろしいことに、それだけのことだ、と恬然と構えて意に介さぬ横紙破り。それがこの男、渡浪幾三の人生哲学であるから、先程からの見苦しいばかりの沮喪は明日からの活計を案じてのことではなく、ただただ女を失ったことに激甚な心痛を覚えてのこと。
ペシミストなのだか、オプティミストなのだか、この男、前向性健忘症なのではあるまいか。市井の人々の彼を揶揄するに、捨て鉢和尚とはなんとも正鵠を射た、と、忘れていた。
この男、こんな貧乏臭い書生じみた格好をして(おまけに腰にゃあ太刀なんぞを佩いているが)、明達寺という山寺の住持なのである。もっとも誰の印可を受けた者でもない。あくまで彼が号して憚らぬところによれば、自然法爾和尚というから堪らない。禅寺に住み着きながら、宗派もなにも関係ないのである。
荘子ではあるまいに、自然というよりは酸鼻極まるデカダンの、放蕩無頼は果たして彼の妙法、さて如何。まあ誰をこの境涯に恨むでもなし、あっけらかんとしてお坊ちゃん気質のこの男は、誰かに強く恨まれるようなこともない。失笑憫笑受くるとも。
はてさて、日も暮れかけたところで、蹌踉として寺に帰る渡浪、いや、自然法爾和尚、嗚呼もう、どちらでも良いか。
暮れかかる山の稜線から西日のとろとろと差し掛かり、あたり一面金色に輝いて、梢も風を孕んでさわさわと、胸に沁みる、眼に沁みる。身を捨ててこそなんとやら、このような境涯でのみ堪能できる詩美もあろう。渡浪はふるふると身震いしたことである。
「あーらら。誰かと思ったら、捨て鉢和尚さんじゃないの」
と、そこへ声を掛けたのは色黒小男。商売道具引っ提げた、いまし帰りの闇米売り。
「おうよ」
「めんたまが真っ赤になってら。その調子じゃアレだね。やられちまったようだねえ。今回も」
「今回も」
「バッサリと?」
「バッサリとね」
「流石の和尚先生も女にゃあ敵いませんか。その腰の佩刀も役にゃ立ちませんものなあ」
「うん。一合も役には立ちませんて。邪魔だもの、これ。買い取ってくんない?」
「やんだ、わし」
ぬっふっふ、と含み笑う男二人。
「そんでもアレだね。今回は結構な上物だったようだから、実際身に堪えたんじゃないの」
「そりゃあ堪えた。堪えたとも。しかしだね、吉野さん。所詮男も女も代替可能な写像に過ぎんよ。結局、なにを媒介に絶対値に至るかを一義的に捉えるのなら、あらゆる行為、認識は偏頗な当為となって、相対化され、貶められることになるだろう。これはもっともらしい重層化やしかつめらしい百悲をも含み、主人公たる我が身を縛する肉縄と化すのだ」
付き合いも既に浅からぬ吉野である。衒学ぶった実際のところ八割が照れ隠しの婉曲な物言いを、深くは取り合わず、
「ははあ、学者はだしですな。してみると、先生の哲学は弁証法を些か逸脱するのではありませんかな。禅僧らしく、直観の哲学で参りますか」
華麗な切返しである。瀟洒な切返しである。
「禅門に哲学などない。それと、直接無媒介的直観などというものは、なお在り得ない。何故なら我々は絶対ではないからだ。人生に必要なもの、それは無力であることだけだよ、吉野さん」
野暮な切返しである。野暮が極まり、野暮天の境である。
「なんだか禅僧らしからぬ物言いですなあ。いや、どうだったかな? しかし、他力宗に宗旨替えですか、先生」
他力宗、念仏宗とも違うだろうが、と思いつつもそう吉野は口にした。婉曲な懐疑論めいた言句を玩弄したかと思えば、すぐさま相対主義へと転がり、心物両界に跨る詩的操作をも否定する。
曲学阿世の韜晦と思えばなんとも厭らしく、隔靴掻痒の感も拭い難いところであるが、吉野にそれほど厭らしくも思われないのには、渡浪の道化じみた挙措に飄逸なところがあって、それが彼の臭みを糊塗している所為もあろう。すると吉野にはそれが渡浪一流の韜晦術なのかしらん、とも思われ、いやいかん、これではおれもぐるぐると思考の螺旋に巻き込まれてしまう。
一方の渡浪はどこ吹く風の体。僧侶に非ず、識者に非ず、平々凡々の生活人であることに、彼本来の野趣に満ちた面目は躍如する。何故、そんな彼が禅寺に腰を据えていられるものか。その一端を吉野は知らぬではなかったけれども、あまりに無理無体の渡世を思うと、この友人の行く末がつくづくと危ぶまれた。そんな友人の心中なぞ露知らぬ渡浪は、
「まさかあ。殺して殺して殺し尽くす。それがおれの遣り方よう。今夜あたりはこの黄泉路送りも出番、あるかもしらんね」云って、腰の佩刀に手を滑らした。
愛刀、黄泉路送り。何時、どこで渡浪がそれを手に入れたのか、その来歴について消息を知らぬ吉野にも、幾つか判然としていることがある。
それは、その刀が怪異怪妖を根幹から断つ破邪顕正の一振刀であること。
黒漆拵えの鞘に収められた刀身は無銘。怜悧な刃紋は、月山、鳥海山の精確な投影を連ねているということ。
そしてなにより、この刀の存在が示す通り、断つべき存在が確固として、在るということ。この怪妖こそが渡浪、吉野の初会に両者の紐帯となったのであるから。