零距離の魔術
板張りの六畳間に、か細く蝋燭の一つ火がしんと立ち上がる。書き物机に備え付けられた蝋燭の炎は、傍らの垢擦れた大部の和書と、その前に端然と座した青年を暗がりの蝟集に浮かび上がらせる。外気は身を刺すように凍り付いて、時折室内に冷気が浸入するも、一つ火は身動ぐこともない。柱に掲げられた時計が、鈍く零時を打った。
――護国の神とは、
書き物机に惘然と視線を落とす青年は、今や自身の半生に厳しい反省を強いられていた。疑いもなく信じた一個の思想が跡形も無く蒸散する無常の音を、青年は聞いたように思った。幾万の民草と共に、それは熱線に焼かれてしまった。彼は自身の足元が揺らぎ、かつて自らの信奉した色々が、果たしてどこまで自らに真実であったものか、判らなくなってしまった。
かつて幼少のみぎり、彼は神の声を聞いた。親戚が神主として奉仕する社殿に、湿潤なその声を聞いた。彼は声に導かれるままに、鎮守の杜へと進み、そこで溝川の彼方に一面咲き誇る彼岸花を目にした。彼はその場にくず折れ、その荘厳な光景を与えたもうた神に己が信仰を誓った。
そんなことは幼稚な劇化だと云う人があるかもしれない。けれども、総じて信仰心の芽生えとはこうしたものではないか。神が在る、故に信仰があるのではない。神が在る、その領界へと一身を投げ入れる。信仰と神とは同一なのだ。ぎりぎりの、致命的な脱出なのだ。幼少時の彼がその後、溝川の此岸と彼岸とを交互に飛び移る遊びを自ら『境界跨ぎ』と名付け、変性意識の自覚作用に無意識的に着目したことは興味深い事実であった。元が人慣れぬ蒲柳の性質であったことから、こういった一人遊びは彼に馴染み深いものとなった。
そうして彼もまた神を奉ずる神職に就き、幾年月が過ぎた現在、いずれ逃れられぬ問題へと逢着する。すなわち、
――護国の神とは、何だったのか。神は何故我々を見捨てたもうたのか。僕のこれは……。
彼は今後の神職の暗澹たる前途や一身の去就に迷うよりも、一層の難題へと突き当たった。靉靆と頭を垂れる彼の前に、神はその姿を顕すことはなかった。その湿潤な声音を与えることはなかった。求める応えはない。浸水するように冷気が室内へと入り込み、彼の膝頭を撫でた。一つ火が風に棚引く。
「それで実際、神サマは居ないかい?」
響きの良い声が六畳間に満ちた。男性のものとも、女性のものとも知れぬ、いつか聞いたあの声に似ているようで、絶対の懸隔を感ぜずにはいられない。透き通った声は優しげではあったけれども、青年の心になんら温かな実を結ぶこともなく、一片の印象も残さない。不自然な程に。
青年は声のする方をちらと一瞥する。壁に身を預け、腕組みをした若い男がこちらを見下ろしている。白い詰襟の国民服の上下を着込んだその人物は、口の端に嗤笑の跡を留めて、整った面貌を奇妙に歪めてみせた。これが彼、もしくは彼女一流の愛嬌なのだ。
「……また、貴方か」
「そうとも。ボクは君の隣人、君の主治医、君の最も良き理解者にして、君の求め訴えるところの一切。こうして煩悶する君をどうしてそのままに出来ようか」
隣人と称する人物の軽薄な語り口に、今度は青年が口の端に軽侮の笑みを浮かべた。その応酬が腕組みをした人物の気に入ったようで、にっ、と快活に笑う。
「それで神は? 君の求める神サマは?」
「その、求める神と云うのを止めてくれないか。僕はそれで悩んでいる」
「と、云うのは?」
「……僕は神に仕えることに些かの疑念も持ち合わせてはいなかった。少なくとも、疑義することなど、只の一度もなかったんだ。そして今、僕は護国の神という事を考えている。日本は敗戦した。護国の神は、この日の本の国を守ってはくれなかった。そして僕は今、自らの信仰心を試されていると感じているんだ。これがどういうことか判るかい?」
「さあて。続きを拝聴しよう」
「つまりは結果や、求められる利得、効能から信仰の本題へと一条の亀裂が走ったことが問題なんだ。国を護って下さる筈の神は敗戦という結果から、期待されるところの効能の不信に晒される。ここに衆人の信仰は暴露される。神は効能へと貶められ、一個のタブレットへと変性される」
「衆人と云うが、それは君自身の信仰に於いても同様なのじゃあないか?」
「ああ、貴方の云うことは最もなんだ。それを僕は判っている。こんなことは可笑しい。神は、常に我と共に在らねばならない」
「嗚呼、君はそうだな。エキセントリックだ」
「……今後、日本は経済的に飛躍的な発展を遂げるだろう。効能主義が幅を利かせるようになるだろう。金がますます物を云うようになり、個々人の権利は肥大し、それを自由だなどと口にして憚らぬ輩が闊歩する。道徳は低落し、いよいよ身に添わぬものとなるだろう。見るも無惨な、物質至上主義の時代がやって来る。ところで、利益や目的の為に行動する場合、それは本当とも自由とも云えない。それはむしろ外的な力の要請によって強いられているからだ。状況の必然性だとか、彼我差だとか、その時々に身の内に湧出する欲望によって決められたからだ。そこに見出されるものは義務ではなく、特定の利得に与ろうと行動する自分本位の必要性だけだ。しかし利得に結びつく原理原則は常に付帯する条件に縛られ、左右される運命にあるから、十全な法則とはなり得ない。人間には、自らを所有することは出来ない。この両義的な存在を包括する、もっと大きな視座が求められなければならない」
「そうして、正にそうであった神は死んだ?」
「死んだのじゃないよ。座を下りたんだ。身を隠したんだよ、繋縛を厭うて。だから探し出す。新たな、或いは古き神々を、その座に祀る。最もふさわしい神を」
「完全に、支配的な存在を? 効能や利得に左右されない、只『絶対』である存在を?」
「そうだよ」
「……それは、最早対象ではないね。君を包み込み、君の全ての感覚に入り込み、君の人格上の統一を半ば抹消する神秘的な統一をこそ指す。君の領界は爆縮し、客観的な世界からは隔絶された、云わば君自身の私的な世界そのものになる。座標を喪失して、君は地理学上のあらゆる空間への交通を失うだろう」
「だから僕は、神が在るかどうかを問題としているのじゃない。これを、信仰と呼んで良いかを悩んでいるんだ」
「それは……、信仰には違いない。信仰の欠落ではなく、これは構造の変化だろうから。けれど、それを表すにもっと適当な一語があるよ」
「それはなんだい?」
「凡その常人はそれを、魔術と呼ぶだろうね」
それは良いね、と嗤いながら、青年は一個の世界を暗闇に幻視する。それは一切の桎梏を離れた夜の世界である。自己という視座は既にない。彼我の距離は零。伽藍に匂い立つ花々とぴんと尾を立てた狐の行列、白々と輝く参道の鳥居群。刻々と夜の闇に身を開く夢の傷痕。磅礴する小世界。
青年は始めて書き物机に置かれた和書へと目を向けた。彼の変わり者の祖父、夏祭りの夜に何者かに惨殺された神職者、斎木方正の残した手記でそれはある。以前、僅か数行を読んでその余りの荒唐無稽な内容に通読を廃して、書斎の一隅に放擲されてあった古惚けた書物に、青年は以前とは異なる感興を持って相対した。染みの浮かんだ古書に、自らの求める答えの端緒を求めて。そして、それは確かに用意されてあると彼は確信する。進むべき道はここに。
「方正と同じ道を往くか。しんどいと思うけどねえ……」
青年はそれに応えない。ゆっくりとした手付きで、和書の項を開く。壁際に立った人物は大仰に肩を竦めて見せて、すぐとその姿を掻き消した。
今宵これより、青年の世界は一変する。日常は非日常へと。彼の偏倚性は自らを信仰に結び付ける整合的な理解から袂別させ、彼の神秘の内実へと鋭く楔を打ち込む。彼は内省と欺瞞の先にも、新たな思想と信仰の礎を築くことだろう。開かれた扉の先、祖父の歩んだ道へと彼は一歩を踏み出す。それは左道か魔道であろうか。
六畳の書斎は一宇の伽藍と変じ、奇書を片手に青年は、準縄の埒を踏み越える。