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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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後日談

 僧堂の軒先にうららかな午後の光線を浴びて、渡浪は陶然(とうぜん)の境にあった。初夏に至って、山には濃密な土と木々の香りが横溢し、濃緑に光り輝く勢力を増しつつある。群青色の、一色に纏められた単純な空。鋭く、近く聞こえる、姦しい椋鳥の声。反響する山の声。渡浪は眼を閉じて横臥したまま、それら幾種類もの隣人の(さえず)りを聞くともなしに聞いていた。千古の木々を渡る風の声は、眠りと忘我の淵に彼を良く留めて、薫り高い良酒のように身の内を透過してゆく。


 ざり、ざり、と地を踏む音がする。粗大な、男の足音ではない。間近に迫る気配に見当を付けて目蓋を開けると、果たして想像の通りに、仁王立ちに距離を取り、こちらを見下ろす遠見摩耶の姿が在った。何時にも増して機嫌の悪そうな渋面に、渡浪はついうっかりと微笑を漏らしかけるところをぐっ、と堪えて、


「よぉ、姉ちゃん。お早うさん」と声を掛けた。


「なにがお早う、ですか。だらしのない。もう正午を回っているのですよ、渡浪さん。そんなことでは何時か屹度、人間を落伍してしまいますよ」


「落伍、落伍ねえ」まるで他人事であるかのように、ぽりぽりと頬を掻いて聞き捨ての体。


「全くこちらは連日早朝から役所仕事だと云うのに、貴方と来たら……」


 横這いになったままの渡浪を睨み付けると、摩耶は両肩をがっくりと落として長息する。この男に真っ当な生活態度を望むことが甚だ間違っているのだ。一向に改善される様子もない渡浪に愛想が尽きたものか。いやはや、それで教導の本題を忘れる摩耶ではない。常ならば渡浪がその長広舌に痺れを切らし、相済まなかったと少なくも表面上の弁疏(べんそ)を見るまでは諄々と説き伏せるがこの女。ならば彼女が口を噤み、半ば自動的、日常的ともなった遣り取りを中途で廃したのには理由がなければならない。そして、その理由は彼女の目の前に先刻から見逃しようもなく厳然として在ったのである。


「……貴方も、何故こんなところに居るのですか」


 渡浪ではない、第三者に向けて摩耶は云った。正確には、横臥した渡浪がその頭を預けているところの、実にふくよかで肉感的な太腿の所有者、真っ白な縮緬の着物を着た、人にあらざる女性に向けて。


「あら、こんにちは、ね。遠見さん。こんなに天気も良いものだから、ご挨拶も兼ねてこちらへお邪魔したのよ」


「私はてっきり天木さんとの再会の折に未練を捨てて成仏なさったかと思っていましたよ、あやめさん。あんなにピカピカと光を発して、仰山に虹まで掛かる演出過多でしたから」


「ほほほ、成仏だなんて。まるでお化けみたい。ほほほ」


 端整な顔を微笑に寛がせて、あやめはそっと太腿に乗せた渡浪の頭に手を添えて、やや大仰に髪の毛を梳いた。それを認めた摩耶の表情がより険しさを増した。詳細に描写するのであれば、彼女の眼は一条の鉄線の如くに細められていた。よくよく見てみれば、俄かに金色の光の漏れ出るような……。このままではいかん、ご機嫌を取る訳では決してないが、と渡浪が身を起こそうとすると、俄かに側頭部に置かれたあやめの手に力が加わり、起き上がることが出来ぬ。ふむ、と渡浪は一人頷いて、どこか真面目くさった表情で女二人の暗闘を見守ることに決した。


「お化けのようなものではないですか。信仰の基礎も無しに、産土神と同化した氏神など」


「時代を経れば神様も新式になるのでしょう。ともかく、私はここにこうして在るのだもの」


 そう口にして、あやめは自らの右頬をそっと指で撫でた。そこには黒々とした蛇の刺青が、いや、刺青以上に生々しく艶かしい蛇身が、今にも動き出しそうに躍動を内に秘めて刻まれている。着物に隠れて窺い知ることは出来ないが、白皙(はくせき)に波立つ蛇は蛇頭をあやめの額に向けて、左足の親指から巻きつくように刻まれている。足指から踝へ、踝から太腿へ、太腿から会陰を通り、臀部から胸部、首から頭部へと螺旋を描いて進みゆく。

 

 何か曰くあることだろうか。左と右、これを語源から考えてみると、左はヒダリであり、陽性と男性を表す「火足(ひた)り」であって、霊魂を表す「霊垂(ひた)り」となる。一方、陰性と女性とを表す右とは、「ミギ」であり、「水切(みぎ)り」であり、すなわち胚胎と出産を暗示する「身切(みぎ)り」である。古事記には万物は皇産霊神(ミムスビノカミ)の霊徳により成り出ずるとある。「ミムスビ」は「水結火(ミムスヒ)」であり、水と火の結合によって一切事物は化生(カセイ)するとされる。つまりは水と火との和合により、肉体は水より生まれ、霊魂は火より生まれる。男が霊魂を授け、女が身切りして肉を与えて、胎児は初めて生を受くるのである。


 結局するところ、枕沼の土着神は未だ健在であり、奇しくもそこへ嫁入りをしたあやめに同化する形で水分神として顕現したのであった。少なくも、表面上は御子守の神として出生と胚胎を司る神の一柱として。その奇跡に因果を含めて考えざるを得ない摩耶の心中は複雑であったけれども、あやめが人間に害を成すということは、先の事件以降絶えてないことではあった。


 むしろ、当地観光の手助けにさえなっている始末で、風体に似合わぬ日曜大工の才を以って渡浪が自作した木祠(もくし)が枕沼に安置され祀られるようになると、ぽつぽつと人の足の向かうようになった。ばかりか、備え付けられた木板には賑々しく『水分菖蒲比売(ミクマリノアヤメヒメ)大蛇権現縁起(オロチゴンゲンエンギ)』なる仰山な内容が無闇と達筆に書き付けられ、細々と人の口の端にも上り始める始末。挙句に「うちでも分祀しよう」などと渡浪が言い始めるから堪らない。摩耶の制止(宗派が違うじゃありませんか!)も聞く耳持たず、僅か一日で祠をこさえてしまった。以来、明達寺の法堂で開催される法会に、水も滴るような美女の目撃譚が相次いで報告されるようになる。頬に蛇の刺青をしたその女は終始柔和に和尚の説法を聞いているのだが、法会が終わって気が付いてみると、何時の間にか姿がない。ちょうど女が座っていた辺りを見てみると、俄かに床板に水溜りが出来ているという。これはちょっとした怪談だが、爾来(じらい)、法会に参加するものに若い未婚の男性が増えたというのは、これは尾篭な余談である。


「それでなんだ、ここに来たってことは調べはついたんだろう?」


 いい加減に痺れを切らした渡浪が云う。軒先に女の太腿に頭を乗せて、腕組みしての仔細顔。絵にならないこと夥しい。


「む。なんですか、偉そうな。まあ良いでしょう、ともかく収穫は有りましたから。さっさと報告を済ませてしまいましょう」


「あら、私は居ない方が良いのかしら。お仕事のご用向き?」


「いえ、貴方にも関係のないことではありませんから、一緒に聞いたが良いでしょう。それというのも、先の一件以来、気になっていた斎木という男の調査をしていたのですよ。その結果が出ましたので」


 斎木、という名にあやめの貌は意識せずとも硬直せざるを得なかった。自らを運命の淵へと誘った男の名。忘れようとしても、忘れられよう筈もない。びくり、と右頬の蛇頭がかぶりを振った。先程の険悪な表情とは異なる、冷徹な機械のように無機質な摩耶の眼球が敏捷にそれを捉える。あやめは激発しそうになる衝動を堪えて、彼女に頷いた。


「……先ず手始めに近隣の神職に斎木と云う者があったかどうか、当時の名簿を調査しました。巡り巡って神社庁まで足を運ぶ羽目になりましたが」


「神社庁?」渡浪が首を傾げる。


「そのままに神社の役所ですよ。神道指令のごたごたで新設された機関です。そこで名簿を検めましたら、斎木という名の神職は当時の全国に三人在りました。内、年齢を鑑みて該当すると思われる人物が一人。岩手県月夜見神社宮司、斎木方正(サイキホウセイ)


「……斎木、方正」


「それが件の斎木かい。まさか本当に神主だったなんてなあ」


「これが当たりかどうかは判りませんけれどね。けれど、恐らくは間違いないことでしょう。元は商人であった斎木方正は三十を過ぎて神職に就いた、どちらかと云えば変り種であったようです。神職としての能力は確かであったようですが、対人能力に乏しく、外敵を作りやすいというような……」


「どちらかと云えば学者肌の人間だったのかね。それじゃあ商人もやっていけないわなあ。斎木の活動については?」


「それが皆目。方々手を尽くしましたが、活動の内容までには至りませんでした。……ただ、あやめさんの件があった三ヵ月後、夏祭りの夜に、斎木は神社の程近くで斬殺されたようです」


「……斬殺」


 三人が共に口を噤んだ。思うところは共に同じなれど、誰一人として口にする者はなかった。


「それが為に、恐らくは本人であったろうと確信はせずとも、報告に参上した次第なのですよ、渡浪さん」


「そうか」と口にして、渡浪は頭に乗せられた硬直した手をそっと握って、ゆっくりと起き上がった。


「なんにしても、悪果(あっか)は摘まれた訳だ。どこかの名も知らぬ正義の味方の手に依って」


「不謹慎ですよ。それに、背後関係は依然として判らぬままではないですか」


「お堅いなあ、お前さんは。現状これ以上打つ手がないのなら、しかめっ面したところでどうにもなるまい」そう云って立ち上がると、呆然と端坐するあやめに手を伸ばす。


「こんなに天気も良いんだから、皆で散歩と行こうじゃないか。『かつみ』で弁当でもこさえて貰ってよ、あぁ、折角だからちっこいのと天木の婆さん達も連れてよ」


 そうだ。こんなに天気も良いのだから。

 

 あやめは渡浪の手に手を重ね、摩耶は仕方なしと微笑する。


 陽は天頂を過ぎ、遠出には些か時間がないけれども。


 間を配るその無骨さに、幾らか心は安らいでゆく。


 山間からは夏雲が現れて、大理石の宮殿を築き上げる。


 風に千切られたその幾片(いくひら)が、濃藍の空をゆく。


 その下を、三人は靴を並べて幾時の休息の元へと歩み始めた。









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