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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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それは屹度、万人の阻まれる事無き生育を

「……さあ、止めを刺してください、渡浪さん」


 遠見摩耶は、無感動にそう口にした。向けられた金色の瞳の先には、天より堕ちた女性が、沼のほとりに力無く身を横たえている。神弓の一矢を受けて尚、その姿は健在であった。


「遺憾なことですが、私の弓ではアレを消滅させることは出来ませんから」


 ――消滅させる。この魔払(まがばら)いの女は、おれにそれを望んでいる。秋徳から譲り受けた太刀で彼の化生を滅することを。より十全な、因果の破断を望んでいる。しかし、それは本当に可能なのだろうか。元よりこの同道に於いて、思うところのある渡浪である。


 確かに今までも自分は腰に佩いた太刀で怪異を斬ってきた。けれども、夜毎己が身を苛む霊異はどうしたことか。怪異の元凶を斬り伏せ、結果することを許さぬ滅消の一太刀は、しかし、在ったものを無かったことには出来ないのではないか。原因が結果を生み、結果が原因を保証する。けれども、そんな単純な道理が、渡浪にはうまく呑み込めない。


 原因と結果とは、お互いを誘引する、一つの形式なのではないか。幽顕入り混じる条理の埒外に位置する怪異とは、その口にすることの難しいもどかしさ、説明のつかぬ形式の、妥当解みたようなものなのではないか。誰かの為に魔を払う。しかし、その誰かが生きている。為に魔はその威を生じたのではなかったか。原因と結果は結びついて同化する。ならば、その誰かをも斬り捨てるか、さもなくば、この一個の形式を()に入れるか、形式そのものを無化するしかあるまい。


「まあそう急くこともあるまいよ。先ずはとっくり話を聞いてだな、それから」


 渡浪は勢い込む摩耶を制しようと頭に浮かぶところをなんとか纏め上げたが、云い差して息を呑んだ。上目遣いに彼に向けられた摩耶の目の、常になく不穏な色を湛えていた為である。どこか禍々しくもある金色の瞳には、明確な懐疑と、敵意が宿っていた。


「……情けをかけようと?」


「情けとも違う。そんなに怖ろしい貌をするなよ。聞けるものなら、どういった経緯でここに立ち至ったか、知ってから判断しても遅くはないだろう?」


「いいえ、怪異を前に遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)は許されません。彼女が元、天木さんの姉上であったとしても、人間に仇なす存在へと変じたからには、天にも代わって膺懲(ようちょう)する。それが私の本分と貴方もご存知の筈。これ以上に力を付ける前に討たなければ、何れは大異となることは貴方にも分かるでしょう。刃を向けられて尚、その威力を知って尚、なにを躊躇う必要があるのですか」


 一刻、というよりは頑迷な摩耶に渡浪は眉根を寄せて閉口した。ぼりぼりと頭を掻きながら、


「だから……、まったく、頑固な女だなぁ。いいか、おれは必要なら斬ると云っているんだ。もし、アレがこちらの話に応じるようであれば、事の委細を知った上で判断をしたい。そうなんでもかんでも、バッサバッサと斬り捨てるもんじゃあない」と、苦々しく口にする。


「なにを今更。嬉々として太刀を振るい、物の怪を討つ。それが普段通りの貴方ではないですか」


「それはその通りだ。何分、今おれの目の前にいる怖い貌した姉ちゃんと同じように、話の通じない奴原(やつばら)相手だったんでな」


「……なにを。貴方こそ、化生の色香にでも迷わされたのですか。事情を聞くと言いますが、それこそ低劣な世間心、要らぬ詮議ではありませんか」


 そう云われてみれば、確かに自分も奇妙な具合に膠着してはいるのだ、と渡浪は思い付いた。それを摩耶の云うように世間並の好奇と呼ぶこともできよう。相手に一個の人格の如きものを想定して、おれはそれを解剖しようとしている。その内実をどこまでも深く追い詰めようとしている。化生へと変ずることになった致命的(フェイタル)な契機を、この手に剔抉(てっけつ)し、心ゆくまで賞玩しようと云うのだ。してみれば職責から一律に彼の者を裁こうという摩耶より一倍、陋劣(ろうれつ)であるのやもしれぬ。


 けれども、あやかしに人語を介する人格を認め、境界に隔たる両者であっても、互いに相通ずるものとしての性質を措定するこの態度は、正しく神に対する態度に等しいものであったかもしれぬ。畏れ敬うのでなくとも、厭い嫌うのでなくとも、真実を希求する眼が、その神性を保証しないとも限らない。


 二人が口論をしている間に、沼のほとりの女性は意識を取り戻したのであろう、微かに身動(みじろ)ぎして上体を起こすと、渡浪たちに精彩を欠いた、どこか途方に暮れたような視線を投げ掛けた。衣装は雨風に乱れて裸の肩口が覗き、吹き飛ばされた綿帽子の下の貌が露となっている。肩口に切り揃えられた黒髪はのたうつ蛇のように放縦に、雨を吸い込み水茎も艶やかな墨跡を思わせる。匂い立つようであった凄艶の気配は消え去ったものの、容色は一向衰えはせぬ。いや増して、乱れた衣服と疲れ果てた相貌には身構えることを知らぬ乱色の気配さえ滲んでいる。引き攣った傷痕の走る閉じた右の目は、見る者が見ればより一層の趣味ともなろう。犀利(さいり)瑕瑾(かきん)だ、卒然(そつぜん)と渡浪は思った。そうして、おれは哀憐の情を持って応対するのではない、と心に確認をした。おれは我が身に欠落したなにものかを、この女性に求めているのだ。


「そうこうしている間に、気が付いたようだ。兎に角、行って来るぞ」


「……どうぞご勝手に。話はここにいても聞こえますから」


 そう云うと、摩耶は矢筒から丹塗りの矢を一本引き抜くと、矢筈を握り込んだ。金糸浄眼は未だ光り輝いて、ほとりの女性にぴたりと据えられている。矢を番えないでいるのが、せめてもの譲歩といったところであろう。


「おっかない耳だ」渡浪は云い残して、先まで死闘を繰り広げた怪異の元へと、悠然と歩み寄った。


「よう、姉さん。あんたは口が利けるかね」


 目の前に立つ大男を地から仰ぎ見る格好の女性は、その一言に表情を変えた。なにを思ったものであろうか、その表情は己が身を害されようとする者の恐怖に歪んだそれではなく、久しく会わぬ知己を路傍に見つけた者のように、嬉しい反面にどこか申し訳ないといったもの。口を開いて声を出すものと見えたが、一度出掛かった言葉を飲み込んで、元の悄然とした貌付きに戻ってしまった。


「……口は、口は利けるみたいね」女性は確かめるようにそう云って、眩しい雨に目を細める。


「そうか、そりゃ良かった。まだ斬ったはったをしたいかね?」


「いいえ。そんな意気もなければ、力もないみたい」


「あんたは、あやめさんだろう?」


「……そう。多分、そういうことになるのでしょうね」化生は物憂げに小さく、そう呟いた。


「そうか。おれ達はな、あんたの妹さんに頼まれて実態調査にやって来たんだ。先ず、あんたの領域に勝手次第に踏み入ったことを謝罪する。悪かった。しかし、こちらも仕掛けられれば応戦の構えだ。殊に後ろの姉ちゃんなんぞは、それ見たことかと活き活きしちまって……」


 急に背筋に悪寒を感じ、渡浪は一つ咳払いをして、


「兎に角、対象が人を害する存在と認められたのなら、これを排除する。それがおれ達の仕事なんだ。しかし、こうして口が利けるのなら、交渉の余地もあるだろう? なんとか気を鎮めてくれないかと、そういう次第なんだ。後ろの姉ちゃんは天木の婆さんの孫に障りがあったのは、姉さんに因する可能性が高いと云うんだが、どうなんだろうな、実際のところは」


「どうだと言われても……、良く分からないわ」


「覚えがないのか?」


「いえ、恐らくはそうなのでしょう。お連れの方に警告を与えたのも私だと思います。けれど、私であって私でないような、言い訳をするのでないけれど、そんな上の空の状態だったのだわ。思い返せばそういったことがあったような気がするけれど、なんだかずっと夢を見ていたようで……」


「ふむ。つまり、どういうことなんだ?」背後の摩耶に事態解明の助勢を請うと、


「私に聞かないでください」との連れない答え。


 これだけの話では摩耶にしても判断はつかない。事態の全容を捉えるには、なるほど確かに、渡浪の云うように彼女とその連関とに深く分け入らなければならないのであろう。何故、この怪異は生じたのであるか。彼女は彼女なりに事態を判じようと頭を働かせていた。


「それじゃあ」と云い差して、渡浪の言は山中に轟く雷鳴に打ち消された。


「これは凄いな。この雨といい、伝承にあるように全て姉さんの仕業なのかね」


「……どうでしょうか」


 自分のことだと云うのに、どうにも曖昧な返事して、怪異は少しく考えるふうである。つと、確かめるような所作で右手を頭上に差し伸ばして、口中に何事かを呟くと、俄かに沼の上空を厚く覆っていた黒雲に変化が生じた。滞留した黒雲は速やかに流れ去り、一条の茜色の光線が、三人の立つ静かな沼に降り注いだ。


「霊験あらたかだな」


 渡浪の言葉に摩耶は柳眉をしかめた。あやめは自らの右手をまじまじと見つめて、


「こればかりは私の縁起にあることですから。つまりは、そういうことなのでしょうね。……話をするのなら、少し場所を変えましょうか。ここを少し行ったところに、小さな沢があります。その近くに小屋がありますから、そこで暖を取ったら良いでしょう。人の身にその格好のままでは障るでしょうから」


 渡浪は摩耶に頷いて、あやめの後に続いてずんずんと歩いてゆく。仕方が無しに渋々と摩耶も二人の後に続いた。


 あやめの話した通り、沼から遠からぬ位置に沢があり、そこまで進むと小屋が目の当たりにされた。木小屋は随分と古びてはいたが、所々に修復の跡が見られ、所有者も判然としない山中の休憩所として、杣木樵(そまきこり)達に長らく重用されていたことが窺い知れる。戸口を潜ってなかに入ると、土間には乱雑に炭が積まれ、囲炉裏には八割方燃え残った薪がある。家具調度とては、使い込まれた引き出し付きの書き物机が部屋の隅にあるのみであった。辛抱堪らぬと、早速のこと火に当たろうと囲炉裏に胡坐の渡浪に反して、摩耶は戸口の辺りに突っ立ったままである。


「姉ちゃんもこっちに来て火に当たりな。濡れたままじゃあ、風邪を惹くぞ」


「私はここで充分です」と膠も無い。


 あやめは囲炉裏の一角に腰を下ろして、慣れた手付きで火をくべる。立ち上る暖気に、ほう、と一つ渡浪は溜息をついた。


「それじゃあ、どこから話して貰おうか。なにが材料になるか知れんから、姉さんが人間であった頃の、肝要の時期から多少遡った辺りから話して貰えると助かるんだが」


 それにあやめは頷いて、訥々と己が来歴を語り始めた。



 ◆



 ぱちり、と。くべられた薪が音を立て、火の粉が舞い上がった。


「……さて、斎木という男をどう見る?」渡浪が摩耶に意見を求める。


「本職の、正統な神職者ではないでしょうね。彼が為そうとしたことは左道(さとう)に偏した邪法です。恐らくは不遜にも零落した土地神を寄坐(よりまし)に、新たに氏神を創造しようと企てたのでしょう。彼が何故そのような行動を起こしたのか、それに何の利得があるものか、分かりかねますが間違いのないところでしょう」


 話の内容に強く関心を持ったのであろう、つらつらと饒舌に摩耶は意見を述べた。


「ふむ。それで、姉さんが死後もこうして在るということは、斎木の目論見は成功したということなのか。同時に、おれ達が相手をしたあの大蛇が土地神であったとすれば、枕沼には二柱の神が存在することになるのか」


「いえ、あの大蛇は土地神であって、土地神ではありませんよ。祀られることも久しく、力を失って現象に近い存在になっている。あやめさんの半身であるかのように、……そうか、その為に習合したと云うのなら」


「なにか、判ったのか」


「渡浪さんは、たたりと云うものをどうお考えですか?」


 しばらく思案をして、


「なにか神に悪事を働いたときだとか、罪を犯したときだとか、ぞんざいな扱いをしたときに下る神罰のようなものか?」と答えた。


「一般にはそうです。しかし、なにをせずとも神様はたたるものなのです。本来、たたりという言葉は神様の示現を意味し、その都度の顕現に我々は神様を見る。それを畏れ敬い、鎮めて祭り上げることが祭祀の始まりだとも云われています。小道巫術、卜占託宣、方法は様々ですが、これを以ってたたりの原因を突き止め、解消し、その神様を懇ろに祀ることで、たたりは鎮められると考えられています。たたり神も手厚く祀れば、我々の守護神となると。しかしそうして尚、災厄の不安が少しでも和らぐことなく、慰諭(いゆ)せられぬとなると、次第に人民の神様への信頼の力は弱まって行き、嘆かわしいことに封印の一手をもって等閑(とうかん)に付すようにもなる。故に人口に膾炙する妖怪を神々の凋落した姿と見る向きもあるのです。一等分かりやすい、もしくは条理を逸した現象の説明として」


 遺憾ながらそこは我々巫祝の力及ばざるところですが……、と言葉尻を濁す摩耶に渡浪が、


「ふむ。それは分かるが、どうしたと云うんだ」と話の先を促した。


「元、氏神や祖霊はそのたたりを第一義に考えられるものではありません。たたるから敬う、と云ったものではないのです。先祖の霊を粗略に扱い、その報いを受けるという例はあっても、穏当に誠心を込めて祀ればそれで安泰というもの。あやめさんの場合に問題なのは、先のたたり神の用例にある、たたる神から守護神への昇華のプロセスを、信者の齟齬から正反対に経ているということです」


「つまり、血脈の守護にあたる霊を、たたり神と同一視している? ここに云う信者ってえのは」


「はい。我々も良く知っている――」


「……天木の婆さん、か」


 こくりと、摩耶は頷いた。


「あやめさんの話を伺って確信しましたが、天木さんは話より多く姉の消息に通じていた筈です。長じた後、姉の後見人から直接に多額の金銭を手渡され、綿密な調査を行ったものと思われますね。事によると、姉の身体的な不幸をも察していたかもしれない。あやめさんに対する恐懼(きょうく)の念や、ある種の後ろめたさのようなものが、白蛇の姿をとって自らを見守るあやめさんを、たたり神の化身として考えせしめたものと思います。そうした天木さんの歪んだ信仰が、彼の大蛇が立脚するところの保証をしたものと考えるのが妥当かと。未だ同一化もされず、分霊とも呼べぬ状態の土地神ではありますが、あやめさんとは云わば二重に存在する形です。生贄を求めていると天木さんが考え、そうしてそれは土地神によって半ばは遂行された。もし、芳香ちゃんが犠牲になっていたら……」


「どうなっていたんだ?」


「あやめさんは土地神に同化していたでしょうね。荒ぶるたたり神に引込まれるようにして、彼の神は完全に以前の姿を取り戻したことでしょう」


 三者が共に口を噤むなか、囲炉裏の熾火のみが小さく音を立てる。話を黙然と耳にしていたあやめが、重い口を開く。


「……私にも責任のあることです」


 始めはそれで良かった。この身は蛇へと変じようとも、愛しい妹の日毎に成長してゆく姿を眺めることは望外の喜びであったから。妹は美しく成長し、持参金を持って裕福な家へと嫁ぎ、二子を設けた。暖かな家庭。私の生涯持ち得なかったもの。私の夢を、妹が叶えてくれる。なにも良いことばかりではない。辛いことも多くあった。けれども、妹が哀しみに臥せっている時には、私はそっと彼女の傍に寄り添った。人の形をとることは出来るようであったけれども、今はこの白い蛇の姿で充分としよう。私は蔭からそっと、彼女と、彼女の愛しい人達を見守ろう。


 けれども、何時からだろうか。時折、私を見る妹の目付きが険阻なものへと変じたように思われるようになったのは。どうやらそれは、私の勘違いではなかった。妹は手にした文鎮を私のいる木斛の木へと投げ付けた。幸いにそれは私の身を外れたけれども、木斛の樹皮には強かに叩きつけられた暴力の痕が深々と刻まれた。


 嗚呼。その時、私は確かに思ってしまったのだ。誰にも顧みられない。在るとも知れぬ水神などに嫁入りをして、浅慮にも程がある。まるで無意味ではないか。もし、妹にも忘れられ、水神もまた存在しないものとすれば。私の一切は、無になってしまう。


 そう考えた時です。何時か耳にしたことのある、ごぼり、と濁った水音のようなものが頭蓋の内に響いたような気がして、後は熱にうかされたように、前後不覚の始末です。それで漸くに意識がはっきりとしたのは先のこと、あの不可思議の矢に身体を射抜かれた時のことなのです、とあやめは語る。


「なるほど、それで合点がゆきました。あの矢には邪気を払う効果がありますから」


 模造品である為に、本来の呪詛の特効が認められない点は、使用者摩耶の年来不足に思うところではあったが、今回の都合には結構な代物であった。


「つまりは、姉さんと天木の婆さんの両者が揃ってたたり神を顕現させちまったってことかい? 彼我の()はなべて隠り世という訳だなあ。我々は何時でも見られているし、少し道を違えただけで、妙なものがにゅっっと顔を出す。ほんの手違いであったとしても」


「貴方は本当に、無駄なところで妙な知識を発揮しますね。それで、この後をどう始末するおつもりですか、渡浪さん?」


 渡浪は腕組みをして、さもさも得意そうにふふん、と鼻息荒く、


「なあに、こうしてあやめの姉さんがここに在るんだ。信仰の本題は未だここに在り、だ」


「どういうことです」


「死者の霊を祀るに、墓前供養に()くはない」


 なんだこれで良いではないか、と。白い歯を見せて、がははと豪快に渡浪は笑ったことである。


 ◆


 翌日。渡浪と摩耶とは連れ立って天木宅を訪問していた。姉さんに会いたくはないか。事情の説明を前に、開口一番、そう渡浪は口にした。


 鳩が豆鉄砲を食らったような貌の天木老人に、委細説明の役目を摩耶が負う。頼りにならぬ相棒にジト目を呉れるも、柳に風の暖簾押し。後は任せたとばかりの涼しげな貌である。説得は難渋したが、供養になりますから、の一言が効いたものか、天木老人は枕沼への同道を承知した。渡浪が芳香にも声を掛け、遊興がてらと云うのは如何にも気楽の風であった。


 四人の道中、先日までの荒天が嘘のように、山の空は雲ひとつ無い晴天の模様であった。濃密な青い絵の具を掃いたように清々しい一色の空。その下を四人は枕沼へと向かった。


 四人が沼に辿り着くと、遠めにも良く判る、暗色の草々の間、沼のほとりに的皪(てきれき)と白蛇が身を横たえている。彼女は四人を認めると、そろそろと鎌首を擡げ、何事かを口にするかのように、赤い舌を覗かせた。


「あっ、何時もの白蛇だ!」と喜色を見せたのは芳香である。


 複雑な表情の天木老人の肩に、ぽんと渡浪が手を乗せて、


「姉さんと感動のご対面だぜ、婆さん」と口にする。


 やってくんな、あやめの姉さん、と渡浪が合図をすると、俄かに沼の辺り一面に不可思議な霧が立ち込めて、なかから人影のようなものが天木老人の元へと歩み出る。その記憶と寸分変わらぬ姿に老人は絶句した。髪は肩口に切り揃えられ、蛇を思わせる放縦な様ではあったけれども、なにもかもが懐かしい、違えることなどない、あの人であった。遠く約束を交わした、あの人であった。


 あやめは気恥ずかしいような貌をして、


「お久し振りね、きぃちゃん」とやさしくかつての愛称を口にした。


 ただ、それだけで、遣り取りとも云われぬ一語のみで、万感胸に迫る天木老人は滂沱(ぼうだ)と涙した。


「さあさ、邪魔者は退散、退散」渡浪と摩耶はそこから離れて、近くの木立に彼女達を見守る。


「……っ、ごめんなさい。ごめんなさい。私は、私は姉さんに謝らなくちゃ……」


 姉さん、と呼び方は変わってしまったけれど、自分に向けられる細やかな愛情にあやめも胸打たれるようだった。


「……本当は、姉さんのことを私、し、知っていたのに……っ、それが怖くて、なんで私だけがと、ごめんなさい、ごめんなさい、姉さん」頭を垂れて、天木老人はそう繰り返した。


 姉の自分の身体に苦しんでいたろうことを知った。成人して後見人から多額の金銭を手渡された。何も知らず、私ばかりが素知らぬ顔をして恩恵に浴する。その蔭で、姉はどれだけの不幸をその身に負っていたことだろう。自責の念は日増しに強くなり、姉の終生の地を悪所と忌避するようになった。怖ろしくもあった。そうして尚、余計に看過した。


「良いのよ、きぃちゃん。顔を上げて、ね。だって、きぃちゃんは約束を覚えていてくれたのだもの。守ってくれていたのだもの。私が今ここに在るのが、何よりの証拠。ね、そうでしょう?」


 後に続く言葉もない。天木老人は子供のように嗚咽を上げて咽び泣いた。傍らにあやめを見上げる芳香に、


「貴方は芳香ちゃんね。貴方には謝らなくちゃ、迷惑を掛けてごめんなさいね」


「ううん、いいの。お姉さん、はお婆ちゃんのお姉さん?」


「そう。きぃちゃんのお姉さんの、あやめ婆ちゃん」云って、あやめは双眸を細めた。


「その髪型、格好良いね!」


「あら、ふふ、有難う」


 あやめは胸の内が暖かく満たされてゆくのを感じた。


 嗚呼。そうだ。実れと願った種子が、こうして花開いている。


 尚もその命脈は続いてゆく。もしそれが私の係累でなかったとしても。


 どこから飛来したとも知れぬ星の種子(たね)は、こうして次々と穂を継いでゆく。


 私の願いは叶えられるのだ。


 実れ、実れ、実れ。


 どこまでも枝葉を高く伸ばし、成熟を阻む一切を物ともせずに。


 匂い立つ花と豊かな実を結ぶことを願う。


 私一個の人生は失敗したのかもしれない。


 けれども、私の人生は屹度、これで良かった。


「さぁ、きぃちゃんも何時までも泣いていちゃあ駄目よ。大きくなっても泣き虫なのは変わらないのねえ」そう云って、彼女の頭をそっと撫でてやる。


「私は何時も貴方達を見守っているから。元気でやりなさいね。きぃちゃん、芳香ちゃん。本当に、ありがとうね」微笑んだあやめの頬を一滴の涙が濡らした。


 ありがとう、姉さん、その声はあやめに届いたかどうか。霧は瞬く間に吹き払われて、後には懐かしい人の姿も、白蛇の姿もなかった。天木老人と芳香は、どちらともなく天を振り仰いだ。神木立に区切られた矩形の空には、七色の虹が鮮やかに掛かっていた。


 …………。


 ――その様子を眺めていた渡浪が満足気に云う。


「どうだ、良くしたもんだろう」


「む、出し抜けにどうだ、とはなんですか」


「これも、もののあはれと云うやつさ。もののあはれを知るは、良く心の練れて、物の道理を知り、物の哀を知るなり」


「まったく、どの口が道義を説きますか。貴方の場合は万物恋着と云ったところでしょう」


「わはは、良く云った!」


 とはいえ、事態の穏便な収束を図った点に於いては、これは成果と呼んで構わぬだろう。戦闘に些かの不備があったこととて、そこは腐っても主人公が一。掉尾(とうび)の活躍にどうやら面目を躍如と云ったところ。得意気な渡浪に多く労をとったのは私ではありませんか、と摩耶はぷりぷりと憤慨していたが、沼のほとりに咲く一輪の花を認めて、しばし陶然と息をひそめた。


「見てください、渡浪さん、あの花」


「ふむ。不思議な暗合だなあ」


 摩耶の指し示した先には、一輪のアヤメが紫色の花弁も艶やかに咲き染めていた。


「ところで、アヤメの花言葉を知っているかね、姉ちゃん」


「ですから、姉ちゃんは止めてくださいと云っているでしょうに。なんですか、知りませんよ、私は」


「そんなことじゃあいかんなあ。総体に姉ちゃんは殺伐としていかん。もっとこう、女らしさだとか、物柔らかさなんぞを、それこそあやめの姉さんにでも見習うべきだね。これっくらいのセンチメンタリズムを解さない……」


「……やに下がってまた。大体貴方は……」


 と、こちらは相も変わらずの二人であった。






 第一章 主題 『貴方の幸せを願う』   了









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