昔語り 裏 後篇
私は襦袢一枚の姿になって、沢の水流に身を浸しました。流れは緩やかであっても、水温は殊の外低く、体温は急速に奪われてゆく。手指を洗い、袖口から首筋へと全身を洗い清めると、小さな滝の元へと足を運び、格好の好い石の上に端坐して、目を閉じる。まさかに滝行でもないでしょうが、これが斎木に云い付けられた日課なのでした。
黙想、瞑想とは異なり、音霊法と云うのだそうで、じっと端坐して周囲の物音を聞き続ける古代神道の正法が一つということでした。水との親和性を高め、本源的同一を果たす為だとか、斯道に於ける無意識界に位置する白質層に烙印された一切不浄の浄化を果たす為だとか、そんなことを斎木は申しておりましたが、そのような蘊奥にはとんと理解の及ばぬ私です。長広舌には耳を塞いで、ともあれそういうものなのだと呑み込んで、こうして日に五度は沢に足を運んで沐浴をしておりました。
まるで禅行のようなことを申しますが、訳の分からぬままにこうしている私にも、一応の結構はありました。目を閉じて、細い滝に打たれながら、黙然と周囲の物音を聞き続ける。次第に全身の感覚が欠落してゆき、潺湲と流れる清水の音、嫋々たる山気余韻に自らが同化して、ふと、頭から自分が脱け出るような感覚と申しましょうか。それで何か悟りを得ると云うのではないのです。ただ、目を開く瞬間、そこに広がる景色はなんら変わるところのない、何時もの沢に違いないのですけれども、期待とも異なる予感が身の内を走り抜ける。
硬く縛った目蓋を開けると、そこは小さな沢です。山紅葉の清々しい緑が生い茂り、清冽な沢に鮮やかな影を落としている。周りに群生した沢蓋木には爽やかな白色の花が咲いている。それが、一瞬の裡に存在を顕にする。これはなんという不思議でしょう。私はこうして沐浴をする都度、その茫漠とした氷心の境に遊ぶのでした。
只、その日は一点、異なるところがありました。目を開けた私の前には、山紅葉に背を預けてこちらにじっと視線を送る男の姿があった。腕組みをして佇むその人は、頬に傷の十助さんでした。彼は私が目を開けて、自分に気が付いたと見ると、
「おう。ご苦労さん。随分冷えちまったろう。そろそろ上がりな、目付きもなんだか胡乱だぜ。姉さん」
はて、自分でははっきりと覚醒しているつもりだったのだけれども。
「お気遣い有難う」そう答えて立ち上がると、確かに疲労してはいたのでしょう、微かに身体が流れて、沢に手を突いて倒れてしまいました。
「おいおい、大丈夫かよ」
慌ててこちらへ駆け付けようとする十助さんを手で制して、私は水浸しの格好をそのままに彼の元へと歩いてゆき、彼から手渡された新しい衣服に着替えました。勿論、濡れた襦袢は脱ぎ捨てましたから、一糸纏わぬ姿を彼の前に見せたことですが、私にも彼にも羞恥の色はない。自然、当然の事として、相生の樹のように、或いは手負いの番いのように、何時からか私達はそういった関係を結んでいたのです。私達は溝川を浚うような情事に鈍磨した悦楽の験を求めながらも、お互いに望む一個の印を刻むことも能わず、良い加減なままにこうしているのでした。
是非とも必要な一句。それを口にすることもなく、おずおずと互いに手を差し伸べるだけの関係。これを醜関係と呼ばれましょうか。私には、そう断ずることは難しい。世間一般の理解を以って、盤根錯節を解きほぐすことは出来ないではありませんか。それで尚、自らを慰撫する私が高尚ということにはなりませんけれど、是非とも必要な沈黙もまた、用意されて然るべきだとは思いませんでしょうか?
「……少し事情が変わって来た。斎木の野郎は強硬に進めるつもりだ。このままならあんたは、死ぬことになる」
一歩を踏み出したのは、私ではなく、十助さんの方でした。
「……そう」
充分に予期した事態でした。それでも、明確に告げられれば胸が凍り付くようだった。全てを決定したのは私自身であるのに、今更に、本当に今更になって、どうしてこうなるのか、と思いました。
「妹の件はどうなりました?」
「ああ、“予定通りに事が進めば”ちゃんと届くようになっている。姉さんの家にも、成人した妹の手元にも。後見人にはあんたの指示通りの人物を置いた」
「そう。良かった。私、そればっかりが気掛かりだったのよ」
それは、本心だった。妹が送ってくれた手紙。往来は一度切りの遣り取りであったけれども、手紙はずっと大事に持っている。就寝前の燈明の下に何度読み返したか知れない。手紙に書かれた蟻の絵は、きっと二人揃って写生した時を思い起こさせた。それは妹も同じであったろう。姉妹揃って、路肩に忙しく立ち働く蟻の行列を描いたこと。細々とした、しかし心の内を温めてくれる、ささやかな共通の記念。どうか妹ばかりは苦労をせぬように、どうか、どうか、そうでなければ、私は……。
「それで、私は何時死ぬの」
「一週間後、嫁入りの際に。強力な睡眠薬で処置される。儀式は始まりに水を押し戴き、姉さんが沼に入って進行する形になるんだが、斎木は本式にそこであんたを沈めちまう腹だ」
「今更逃げることも出来ないわね」
「……逃げることは出来る。追っ手も掛からんだろうさ。ただ、その場合には金は当然入らんし、姉さんの妹が用意されることになっている」
そこで、一本の糸がはっきりと繋がったように思いました。どうして斎木から父へと連絡のないことがあろうか。本人の意思を確認するまでもなく、病床に私を訪なう先に斎木は父に委細を説明したのだ。単純な話、私は身売りされたのだ。それも、最も悪辣な人質を用意した上で。
「……あっはははっ、家の人間はそれを承知なのでしょう?」
「そうだな」言葉少なく、どこか戦慄した面持ちで十助さんは云いました。
私はしばらくの間、乾いた声で笑い続けました。止めようと思っても、止まらない。身体は激したように高揚していました。傍らに無言の十助さんは足元を見遣ったまま、こちらを見ずにぼそりと、
「斬ろうか」
「今、なんて?」
「……おれが、斎木を斬ってやろうか」
「馬鹿ね。それこそ追っ手が掛かるし、お金も入らないしで丸損じゃないの。妹になにがあるかも分からない」
「皆殺しにしちまえば良い。才蔵も手を貸してくれるだろう。金をぶん盗って、あんたの妹も連れて逃げればいいじゃねえか」
「私に対する同情からそうするの? それは結局、貴方自身がやりたいことなのではなくて? 自分が働いてきた悪事から開放されたいが為に。良いのよ、これは私が望んで決めたことなのだから」
「……おれは、自分のしてきたことが許されるとは考えていない。今までも斎木の片棒を担いで、あらゆる手を尽くしてきた。厭々そうしてきたとは云わない。あんたに似た境遇の女も幾らかは知っている。姉さんはよ、少し急ぎ過ぎるよ。本当にこれを望んで決めたのか? 結果を急ぐ余りに自暴自棄になっているようにしか、おれには見えねえ。そこから開放される為に提示された条件を呑んで、選択した気になっているだけなんじゃねえか? 妹の為にってのは本心だろうがよ、そう事を急いじゃあ、どうにも方便らしく聞こえるぜ」
私を諭すような、むずがる子供に言い含めるような、優しい彼の声色が神経に酷く障りました。たちまちに激昂して最初の一声を張り上げると、後は一息に、
「なにを偉そうに! それは貴方のことじゃないのっ、見当違いも甚だしい!!」
私の放言に十助さんは頬を掻いて、少し哀しそうな表情を浮かべました。
「いや、おれは馬鹿だからよ。こんな言い方しかできねえんだ、悪かった」
そう云うと、肩で息する私に背を向けて歩き出しました。数歩を進んで足を止めると、肩越しに私へと語りました。
「人間、死にてえ時は誰にでもある。でもよ、死にたい時ほど命が活発に働くもんだ。なんで死にたいって、思い通りにならないから、死にたくなる訳だろう? 希望が叶えられずにいる状態を、死んじまうことでツバメを合わせようってことだ。それ以上に悪くはならないし、希望を持ち続けるのは辛いもんな。……もし気が変わったら云ってくれ。野郎をぶった斬るってのはこっちの都合だとしてもよ、あんたの希望を叶える道は、屹度、他にもある筈だ」
――私はその道を選ばなかった。
それからの記憶、記録、はどうにもおぼろげで。
躑躅の垣根の向こう側に、妹の姿を見たような気がした。
私を板に乗せて担ぐ、十助さんと才蔵さん。
沼に辿り着くと、祭器に注がれた水を飲み干した。
私は白無垢姿に紅引いて、上古の沼に、御嫁入り。
身体が石のように重たくて、斎木の声も遠くに、わんわんと。
倒れ、沈み、沈んでゆく。
ああ、妹よ、きっと幸せに。
なんて、つまらない女。
なんて、浅はかで愚かしい。
あの日、もし十助さんが、たった一言、おれに付いて来いと口にしていたなら。
私はきっと目に涙を溜めて、彼に従ったことだろう。
母のように膝行して、彼の足元に縋り付いたことだろう。
ああ、そうか。
そういうことなのだ。
彼はこんな私に、対等な関係を望んだのだ。
どんな形であれ、自分の足で共にゆくことを。
(それなら…、仕方ない、わね)
私とは別種の人間。
私は、彼に都合の良い父性を望んだだけのこと。
もしもこれが私の勘違いでなければ、勘違いでなければ良いのだけれど、
あの人がもし、私の希望を察していて、あんなことを口にしたのだとしたら、
(……本当に、馬鹿だったのね)
でもこれで終わり。
すべてこれで、漸く終わってくれる。
すべては夢のように掻き消えて……。
けれどその時、私は不意に思ってしまったのです。
――どうして私は、報われない?
意識が消える刹那、耳元にごぼりと音を聞いたような気がした。