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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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昔語り 裏 中篇

 これも一種の職能でしょうか。私の右目は視力を失い、醜い傷痕が残りました。その代わりに得た、一家を養うに充分な額の報酬を期待できる“仕事”。ここに来て私の外表的な取り柄であるところの容色は壊滅しましたが、それは人間を相手にしてのこと。村医者に掛かり、硬い寝床に仰臥する私の傍らに立った斎木が云います。


「君は神に選ばれたのだよ。枕沼の水神様にね。その傷がなによりの証だ。なにより、水神様は君を交換条件として、この度の神威を鎮められたのだからね」


 斎木は続ける。一時の平穏は長く続くものではない。また来年の安息をも約束するものではない。それだから、水神様の望まれるままに、君は彼の地へと嫁がなければならない。もしも約束を違えれば未曾有の水害がこの村を襲うことだろう、と。


 約束もなにもない。私はそんなことを約束した覚えはないし、そんな迷信を信じ込む頭もない。


「要するに私に生贄になれと? 人柱かなにかのように」


 斎木は奇妙に顔を歪めた。笑ったのでしょう。


「なに、そこまで本式にやらずとも良いんだ。しかし格好だけはしっかりとせねばならない。一年間潔斎して、水神様に嫁ぎ、その後は君が水神様を懇ろに祀れば良い。家族とは離れ離れになってしまうだろうが、なに、不安に思うことはない」


 私には斎木が云うところの半分も飲み込めなかった。彼の語る内容は、それこそ神への不貞になるのではなかろうか。しかし、門外漢の私が判断できる問題でもありません。こちらに肝要なことは、遺憾ながら一事に尽きる。結局するところは金の問題に辿り着くのです。


仮に君がこれを請け負ってくれたとして、と斎木はこちらの意を汲むように、話し難い実際の内容へと苦も無く押し進みました。村の連中が供出したにしては多過ぎる金額が提示され、私は息を呑みました。村にこれだけの余裕があるとは思われない。効果の程は別にしても、村民全員が頭からこのような迷信を信じきっているとも思われない。してみれば、私の与り知らぬところから何割かの金子が流入していることになる。それは何処からか。水害が収まり喜ぶ農民以外に、その恩恵に浴する者。それは斎木自身に他ならないのではないか? 


 斎木は押し黙ったまま、私の返答を待っている。家人と相談します、と答えると、この巫覡を称する得体の知れぬ男は思いの他あっさりと引き下がり、それ以上に拘泥するということがなかった。では、お大事に、と尋常の挨拶を済ませて男が帰る。私はじっとりと脇の下に汗を掻いていました。先刻の値踏みするかのような視線を思い出し、身震いするのを禁じ得ませんでした。


 夜半過ぎ。私の意は既に決していました。今更に判断の余地もない。鏡台の前に座して、頭に巻いた包帯を解きました。するりと音を立てて、白布が肩口に落ちる。鏡面に映しになる私の相貌。そこには月明かりに照らされた醜く縦に引き攣った傷の痕。これでは貰い手などつこう筈もない。壊滅した、と私は思いました。


 同時に、それなりの心痛を覚える自分に改めて気が付き、なんだか可笑しいような心持ちでもありました。どうやら私は普段から軽蔑して止まぬ鼻持ちならない自身の器量というものを、いざ損じれば意気阻喪(いきそそう)する程度には自慢らしく思っていたらしい。それを、(たの)みにしていたものらしい。母もまた、折々はこうして鏡を覗き込み、自らを慰めてでもいただろうか。私は胸の奥がむず痒くなるような快美感を覚えました。私の顔という一個の標識は、今や路傍に這う一匹の毛虫と、なんら異なるものでなかった。そこに、私は自己愛を超脱した、透徹した慈しみの感情を見たと思った。


 夜が明けたら、家に帰って、このことを話そう。私に出来ることをしよう。


 家に帰り着き、一切の事情を打ち明けると、母は不安気に父親の様子を伺った。父は父でもっともらしい顔をして、判り切った文句を口の端に留保したままに沈黙する。そうしてくれるか、そうしましょう。そんな問答をするのが堪らなかったので、私は云うだけのことを云うと、居間を引っ込んでしまいました。


 そこへ、昼間というのにどこか眠そうな様子の妹が通り掛って、


「ねえね、お絵かきしよう。お花の絵、かこう?」そう云うのです。


 私は唐突に、堪え切れなくなって涙しました。それが自分でも一向に理由が浮かばないのです。妹は慌てて目を瞬かせて、


「ねえね、ほうたいしてる。あたまいたいの?」


 その場に膝を折って蹲る私の頭に、小さな妹の手が置かれ、彼女はおずおずと、


「いたいのとんでけー」そう呪文を唱えました。


「ん、うん。……うん、痛いの、飛んでったよ」


 私は妹を力いっぱいに抱き締めました。私には少し熱すぎるくらいの体温と、甘酸っぱい木の実のような匂い。私の頭には幾つもの脈絡のない単語がぐちゃぐちゃと入り乱れていました。実れ、実れ、実れ。幸せになって、成熟を阻む一切を物ともせずに、実れ、実れ、実れ。


 私に共感したのか、妹も一緒になって涙しました。そうして、ねえねはおよめさんにいくの? と妹が口にしました。私達の話を聞いたのでしょう。びいどろみたいに涙に濡れて光る彼女の瞳には、私が映っている。彼女もまた私なのだ。


 私は彼女に手紙を書くことを約束して、ゆびきりをしました。その時の事を、今も私は忘れない。


「おてがみくれるの? ありがとう。お返事はね、すぐには返せないかもしれないけれど、きっとするわ。私からのお便りはお父さんかお母さんが、きっときぃちゃんに届けてくれるから」


「それじゃあ、ぜったいよ」


「きぃちゃんこそ、私のこと忘れちゃいやよ」


「ぜったいわすれないもん」


「それじゃあ、指切りしようか」


「うん、ゆびきりする」


 私達は差し出した小指を引っ掛けるようにして、


《ゆーびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます》


 上下に振って指切りをしました。


 そうして涙を拭いた妹は、私に向かって破顔一笑しました。それは、燎火のように懐かしい笑顔でした。


 ――それから一年の余り、私は物忌みの生活に入りました。精進小屋と云うのでしょうか、古木で出来た小屋のなかに何をするでもなく起居するばかりです。一般の物忌みとは赴きを異にするのでしょうか、日に三度の食事もきちんと届き、何不足があるでもない。私が神事に於いて右目を負傷した際に、村の医者まで担いでくれた眇目の大男と、精悍な頬に刃物傷のある男が、何かと生活の便宜を図ってくれるのでした。


「おう、姉さん。頼まれた品ァ、持って来たぜ」


「遠いところを有難う、十助(とすけ)さん」


「なあに、気にするこたあねえ」と刃物傷の青年は、担いだ荷を床に降ろすと、自分も床にどっかと胡坐を掻いて、懐から煙管を取り出し、ゆるゆると一服する。


 私が荷を解いて、中の木箱を確認していると、


「ところで今度の品はなんだい?」青年は気安い様子で話しかけて来る。


(にかわ)絵具。それと、胡粉(ごふん)だとか、貝殻ね」


「ほへえ、新式だなァ。それを使って絵を描くのか。凄いなァ、西洋式ってヤツかね」


「そうでもないわ。私も描いてみるのは初めてだもの。でも、云ってみるものね。こうしてちゃんちゃんと届くんだもの。それにしても、貴方、運ぶときに中身を確認しないの?」


「うん? まァ、興味がなくもねぇが」


「いい加減なこと。興味の問題でも無いでしょうに。万が一、中身が壊れでもしたら、斎木さんにどやされるんじゃなくて?」


「なに、おれが斎木の野郎に? あっはっは。そりゃあいい気味だ。金を払っているのはあの男だからな。あのきつく縛り上げた巾着袋に痛手を加えられるものなら、小言のひとつやふたつ、屁でもない」


「あきれたこと」


 私が肩を竦めて見せると、十助さんは鷹揚に煙をすっぱと口から吐き出して、浮かぶ紫煙がぷかりと輪を作る。第一、そのことを一々報告に及ぶ姉さんでもあるめえ。確かにそうね、と私が答えると、がらりと引き戸を開けて小屋に入ってくる者が一人。さては斎木かと一瞬のこと私は身構えましたが、十助さんは一向慌てる気色もなく、板壁に背を預けての後生楽。果たして小屋に入って来たのは斎木ではなく、両手に昼餉の盆を持った眇目の大男でした。何時か私を村医者のところまでおぶってくれた人です。


「ね、姉さん。めし、めし持って来たぞ、これ」


 どもりながら口にすると、彼は食卓の前に膝を突きました。大きな手に捧げ持った盆の上には、一汁一菜香の物。けれども彼の巨躯の前には、それはおままごとの道具のように見えるのでした。


「あら、有難う、才蔵(さいぞう)さん。もうそんな時刻なのね」


 私が礼を云うと、才蔵さんは食卓に盆を置いて、両手を後頭部に縮れ毛を掻き回しました。平素は強面ではありましたが、こうした折、目を糸のように細めて微笑む様子は、実に柔和なのです。その様子を傍で見ていた十助さんが、ぷっ、と声を出して噴出しました。


「こいつ、姉さんに惚れてんのさ」親指で才蔵さんを指差しました。


 十助さんが小屋に居ることに気が付いていなかったのでしょう、才蔵さんはぎょっとして十助さんの方へと向き直り、


「おぉ、おめっ、滅多なこと云うんでねえ!」


「おうおう。図星って面だぜ。茹で蛸みてえにのぼせちまって、まあ」


「あんまりからかわないの」


 私が取り成すと、十助さんは何時もの例で、けっけっけ、と品なく笑い、両者の間に才蔵さんは顔を朱に染めて、大きな身体を鞠のように屈め、所在無く座している。容貌とは裏腹に、心根のやさしく出来ている人間なのです。


 当然、私達はなにも始めからこのように打ち解けた応酬をする間柄ではありませんでした。間柄、ということに関しては、今も変わらないところでしょうか。私は彼等について多くを知りません。彼等と斎木との関係が、単純な主従関係にあるのではないことは会話の端々から窺い知ることができましたが、彼等がどのような事業に携わっているものか、凡そ神職に携わる人間のようには思われませんし、そうなると自然、斎木が本職の巫覡であるかどうかも疑わしい。彼等は私に全てを明かそうとはしませんし、私も強いてその開示を求めない。気楽な隣人、とも違うのでしょうけれども。


 いえ、彼等がなにをしているのか。それは明確に知っているのです。ただ、私はその実際を知らないのです。知ろうと欲しないのです。彼等とこの小屋で初めての簡略な挨拶をした折、十助さんははっきりとこう仰いました。


「まァ、そんな次第で一年間、宜しく頼む。おれは十助、こっちは才蔵。姓は無い。これっぱかりの十助に才蔵だ。あんたの人生の傍人ってとこだな。つまらない悪党が一、だ」


 ――私がしばらく物思いに耽っていると、


「さて、長っ尻もこれくらいにして、行くとするか、才蔵」


「お、おう」


「あら、もうお帰り?」


「わっはっは。遊んでばかりいる訳じゃあないぜ」


「それじゃあ仕事をするの」


「そうさ、仕事をね。悪党がする仕事は只一つ。悪事を働きに出るのさ」


 十助さんは口の端を自虐的に歪めてそう云い残すと、才蔵さんを連れ立って小屋を後にしました。私はじっと床に視線を落として、何事かを考えようとした。けれども、一向に纏まりが付かない。思い立って十助さんが持って来てくれた荷を片付けようと、包みの一つ一つを検めていると、乱雑に積み重ねられた陶焼きの絵皿が出て来ました。真っ白で小体な作りのそれは、元来絵皿に用いるものではないのでしょう。うっすりと青くジュンサイの模様の縁取りがされてありました。都合で三枚の皿は縦に重ねられ、一枚を取り除けると、粗雑な扱いの為でしょう、真ん中の一枚には致命的な亀裂が走っている。


 さて。先ずは何を描こうか。この小屋を中心に山の風景でも描いてみようか。それとも山を少し登って、あの清水の滾々と湧き出る沢を描こうか。それとも……。


 ――私の嫁入りまで、あと一月。限られた私の猶予期間。分かっている。決定的な変化が訪れて。……今までの私はもう直に死ぬことになるのだと。








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