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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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昔語り 裏 前篇

 ――仄暗い静寂の底から目を覚ますと、私は一匹の白蛇へと変じていた。


 変じていた、と云うのは適当ではないかもしれない。私はその時に存在を始めたのだから。ふと、頭上を見上げると鈍色の光が揺曳(ようえい)している。どうやらここは水底であるらしい。私は誘蛾灯に誘われるように光の先へと進んだ。水面から頭を覗かせ、周囲を見回すと、そこが枕沼であることが知れた。時刻は真夜中、暗々とした木立が周囲を覆い隠さんばかりに茂り、葉叢(はむら)を渡る夜風ばかりが寂しく音を立てる。ここが私、“あやめ”の終端の地。


 これから私が話すことは、全て私であって私ではない、もしも魂魄と云うものが今も尚健在であるとすれば、そこに刻まれた死者の記録。一匹の化生が語る、今は昔の物語。


「ねえね、およめさんにいくの?」


 漸く物心ついた妹が私に向けてそう云った。あどけない瞳に不安の色を滲ませる彼女を見ると、私の目頭は熱くほてり、それを努めて隠そうと表面上の体裁を繕うように幼い妹のかあいらしい頭に手をやって、


「うん、そうよ。お姉ちゃんはお嫁さんに行くの」


 私の結婚を彼女は家人から聞き知ったのでしょう。あどけないこの子は知らないでしょうが、私が嫁入りするのは、なにも今回が始めてのことではなかった。元が分家の末流の、水害に喉元まで締め上げられるような、田地も乏しい貧農の娘です。取り柄とあっては持って生まれた器量のみ。一体にそれ以外のなにを男性が私に求むるものでしょう。十六の時、私は隣町の商家へと嫁ぎました。


 口減らしの意もあったことでしょう。元々が小心で計算高い父のことです。何れは男児を儲け、その余得に有り付こうという魂胆もあったことでしょう。見え透いた内心の矮小な謀を表面には冷然とした仮面で以って粉飾し、書き物机にふんぞり返って家族を顎で使うこの暴君を、私は心底から憎んでいた。また、そんな父を従容と受け入れ、奴隷のように拝する美しいばかりが能の母をも。尤もそこには同性故の哀情も含まれていたことでしょう。そんな家庭の病理から、私が一個の人間として存立する為の能力開発に狂奔するようになったということは、事情から推して当然の成り行きでした。学校に通うだけの資本もありませんから、方々から本を借りては読み漁り、手習いに励み、書画の研鑽に努めました。


 しかし結局するところ、私の努力一切は空しかったのです。商家に嫁ぎ、一年余りが過ぎた頃、私が早発性閉経で子供を産めない身体であることが知れると、私はあっけなく離縁され、山間の暗い家へと舞い戻ることになったのでした。私一個の才覚などは問題にもならなかった。石女、そんな焼印を押され、元の蔵へと押し返された粗笨品。風聞が周囲に伝播する勢いはこんな小さな村のことですから、改めて説明するまでもないでしょう。 


 鬱然として絵筆を揮うばかりの日々が続きました。幼い妹の、私に絵の描き方を必死になってせがむ姿ばかりが、せめてもの慰めだった。未だ手折られてはいない柔らかな花。どうか彼女ばかりは、どこまでも健やかに伸びてゆきますように。馬鹿らしい、けれども一心に願って止まぬ、私の夢の反映。


 生活はいよいよ逼迫(ひっぱく)しました。長らく続く暴風雨に、農作物は根こそぎ持っていかれてしまい、心細い蓄えを食むより仕方がない。そんな折も折、機を図ったように来客がありました。斎服を着込んでしかつめらしい表情の斎木(さいき)と名乗る男は、村長の依頼で止雨の祈念の為に御山より参上したのだと云う。そうして、妹の他、全員が集まる居間に腰を据え、ついては村一番の器量良しと噂されるあやめさんのご助力を願いたい、はっきりとそう口にしました。


 出戻りの私に彼等がなにを期待するというのか。私の身体の、凡そ清らかでないことは周知の事実なのです。神事に携わる者としての資格があるのかどうか。しかし、この巫覡(ふげき)はそのような事実を一顧だにすることなく、重ねての助力を父に請うた。私にではなく、父に。父もまた、充分な報酬が約束されるという話に行き着くと、


「どうだ、やってみないか」と口にする。


 やってみないか。父の幼稚な依頼心に、私は危うく失笑するところでした。


「では、そうしましょう」私は言葉少なく応答しました。


 兎も角これで、当分の間は口を糊することも出来よう。しかし、何故私に白羽の矢が突き立ったものか。ここのところを、私はもっと突き詰めて考究するべきだったのでしょう。その時、私の念頭にはどうやって一家の生計を得るかという一事しかなかった。全体私の器量などが、神事にどう作用するというのか。話を急ぎましょう。


 結果として、止雨の祈念は成功に終わりました。その日も強く風の吹く大雨でしたが、私達は身体が水に濡れるのも構わず、水田に神籬(ひもろぎ)を立て、儀式を執り行いました。私は僅か数日足らずの潔斎(けっさい)をして装束に着替え、命じられるままに斎木の傍に控えて事態の進行を見守っていた。時折必要な道具を彼に手渡すくらいが、私の仕事なのでした。


 さて、斎木が神降ろしの段に入ると、雨脚が一層と強くなった。山からは黒雲がどよもしながら押し寄せて、雷鳴がどろどろと轟き渡る。一際強く風が吹いて、それは吹き飛ばされた木の枝や、金属の切片だったでしょうか。目視することは出来ませんでしたが、飛来したなにかが右目を強く打ち、熱した鉄芯を押し付けられたような鋭い痛みに、私はその場へと倒れてしまいました。斎木は不慮の事故にも注意を向けることなく、儀式は私がその場にいることに頓着することもなく恙無(つつがな)く進行し、程なくして天空に茜色の光が差したかと思うと、今までの暴威がまるで嘘のように、辺りは静かに晴れ渡っていたのです。


 私はどうにかその場に起き上がると、斎木に向かって助けを請うた。右目からは止め処なく血液が流れ出て、私の眼窩から首筋までを長く尾を引く激痛が脈打っていました。経血のように赤黒くどろりとした血は装束の胸元に広がり、それは足下の水田にも赤々と滲んでいる。斎木はそんな様子の私に満足そうに頷くと、彼方へと手を振った。ばしゃばしゃと水音を立てて体格の良い男が二人駆け付けて、一方の背に担がれると、私は安堵からか力が抜けて、取り落とすように意識を手放したのでした。





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