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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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顕祀される忘れられた神

 一般に大型の蛇が人間に巻き付いた場合、どのような結果が待っているのか。その威力は人ひとりを殺すに足るものなのか。結論から云えば、蛇にとって人間の殺害は可能事なのである。


 大蛇は獲物に巻き付くと、拘束した身体を次第に締め上げる。決して力を緩めることなく、じわりじわりと、その度合いを増してゆく。赤外線を通して体温を感知出来る種では、獲物のバイタルを(つぶさ)に掌握し、肺腑からゆっくりと酸素を吐き出させる。呼吸を許さず獲物を窒息させ、いよいよ体力尽き、虚脱したところへ満身の力を込め、全身の骨という骨を圧し折り、丸呑みにするのである。対象が筋骨隆々たる丈夫ならばまだしも、手弱女とあっては結果の無残は見るも明白。全体、天然自然の大蛇を相手にそうなのだから、枕沼を覆う神木立一帯に己が身を横たえる規格外の化け物となれば、その威力は比べるまでもない。


 祭壇に捧げられた摩耶の全身に、一倍の力が加えられ、みしみしと不吉な音を立てる。神の加護無くば、早速のこと捻り潰されていたことだろう。しかしそれも何時まで続くものか。摩耶の眼前に蛇頭が鎌首を擡げる。ちろちろと蠢く、赤い舌。生え変わった蛇頭の濡れ光る両の紅玉。一方には穴が空き、縦横に罅が走っている。摩耶は蛇頭を炯々と睨み付ける。顔を激痛に歪めながらも尚、その心は折られてはいない。


(………ッ…)摩耶は何事かを呟く。


 最早、一刻の猶予もない。それを頭上に仰ぎ見て、地上の渡浪はすぐさま足下の弓と矢を拾い上げた。如何な天然の野生児たるこの男とて、空を飛ぶことは出来ぬ。蛇女の枕岩までも十間(凡そ十八メートル)の距離がある。まして行く手には蛇頭が控え、中空にはあの水晶球が健在なのである。窮余(きゅうよ)の策ではあったが、遠距離戦を即断した渡浪は丹塗りの弓箭を手に引き絞る。山中に長く暮らした渡浪のこと、弓は獣狩りに幾度も使ったことがある。馴染みの得物ではあるが、問題はその手腕。十間の正射必中は覚束ない。となれば、


(名誉挽回といこうか)


 それは昔語りの再現か。大男が手にした弓の、据える狙いは沼の神。弓弦はぴんと張り詰めて、迎える大蛇のその偉容。蛇頭が赤々と口を開き、白無垢の蛇女が緩慢な動作で上げた右手を振り下ろした。水晶球が弾け飛ぶ。鈍色の凶弾は渡浪の元へと襲い掛かり、右の腿を一滴が穿った。がくりと膝を折りそうになるのを堪えて、そのままに矢を放つ。それは神代の奇跡でなくとも、命を賭した無上の一矢であったろう。丹塗りの矢は唸りを上げて、吸い込まれるように大蛇の腹へと突き刺さり、


(……良しっ!!)


 会心の一矢は彼方へと掻き消えた。


 渡浪は愕然と目を見開いた。蛇女が口角を緩める。矢は、確かに命中した筈。それが些かの痛痒をも齎さないなどとは……。


 しかし、動揺を禁じ得ない渡浪とは対照的に、この光景を見届けた相棒の瞳には確信の光が閃発した。それは一つに、遠見摩耶が弓箭の本来の持ち主であるが故。弓の特性を熟知しているが故に下された判断である。そして一つには、


(……成る程、それが貴方の手妻。あの日、私に警告しに現れたのは失策だったわね)


 状況的判断。摩耶は四つ辻に蛇女と遭遇した時のことを思い起こしていた。あの時も、周囲一帯は奇妙に深閑と静まり返っていた。そうして蛇に巻き付かれたかのように金縛りに合い、気が付くと雨に打たれるままに、呆然と立ち尽くしていた。


 故にこれも単純な帰結。狙った対象が実在しないものとすれば、


(……幻術の類!)


 摩耶は自由になる手指を用いて、素早く火印を結ぶ。屋敷の人間は良い顔をしないだろう術。実利主義の摩耶はそれも厭わぬ。摩耶の全身から炎が巻き上がる。神仏習合に於いては天照大神と同一視される大日如来の決意の焔、ありとあらゆる悪念妄想(あくねんもうぞう)を祓う神の火炎が、摩耶を包み込み一個の焔光と化す。効果の程は覿面にして迅速。大蛇の全身を舐めるように走る火焔の勢いは、正に油紙に火を点ずるが如く。眼下の女性が驚愕する。水を操ろうと手を上げるが、もう遅い。護身刀を引き抜いた摩耶は勢いそのままに、己が身に焔を纏い、流星の如く直上より落下する。


(本体はあくまでこちら側っ!)


 ――ざんっ!!


 枕岩を中心に沼の面に衝撃が走り、数瞬遅れて、どんっ、と鈍い音を上げて輪形に水柱が立ち上る。枕岩に蛇女の姿はない。摩耶の神気一刀を受けて雲散霧消したものであろうか。否、摩耶の眼前の水鏡には、妖艶な白無垢姿の女性が一人。そっと背後から冷たい指先が水中へと誘うように摩耶の頬へと差し伸ばされ、寸でのところを、電撃に阻まれた。見てみたが良い、枕岩に片膝付いて、両の目開いたその巫女を。


 殊に今、その者は人であって人ではない。漆黒の瞳は今や金色の光を湛え、神威を体現する一個の機関と化した。金色の瞳には数多の光の糸が乱麻と輻輳(ふくそう)する。

 

 ――遠見摩耶の金糸浄眼(きんしじょうがん)


 繋がった。ここに、神懸りは果たされる。


 摩耶の異常の気配を察すると、蛇女は水面を滑るように距離を取った。周囲の水壁が破裂し、無数の水滴となって辺りに飛散する。辺りには霧のように水気が立ち上り、渡浪が弓を手に立ち尽くしていると、霧のなかから白無垢の蛇女がぬるりと姿を現す。実に、その数五人。


「なんだありゃあ!?」


 これも幻術か、はたまた分身の類であろうか。なんとか摩耶へと弓を渡そうと考えた渡浪であったが、当の摩耶はそちらへ一瞥もくれようとはせず、僅か右へ三歩身体を移動させた。なにがなにやら、いっそのことあちらへと弓を放り投げるべきかと考えていると、不意に摩耶が右手を横に差し伸ばした。何かを掴み取るように指を曲げると、あにはからんや、渡浪の手からは丹塗りの弓が消え失せて、しかと摩耶の手に握られている。蛇女達の表情が一斉に険しくなる。


 考えてみれば当然のことには違いない。渡浪の身体を射抜いた水弾が示す通り、幻術が現実の身に作用を及ぼす脅威であっても、人間の身体は空を飛ぶようには出来ていない。事実、大蛇に身体を締め付けられながらも、神の加護は健在であったのだ。そうとすれば、簡単なこと。遠見摩耶の身体は、未だ結界の位置にある。護身刀の致命の一撃を空しくしたのも当然、全ては摩耶を特段の脅威と判断した怪異が、彼女を結界から引き摺り出し、或いはその結界の内に殺害せんが為の芝居であったのだから。


 蛇女達が一斉に手を上げる。数え切れない程の水晶球が天高く舞い上がり、渡浪達を釣瓶打ちにしようと凶星の如く瞬いた。摩耶は一顧だにせず矢を番え、


「右から二番目を狙えっ!」渡浪が叫んだ。


 摩耶の弓に神気が満ちてゆく。


「……還矢(げんし)の本義に基づき、汝に悪心あるならば、射返す(とう)の矢、我が神威を以って其を滅せよ」


 摩耶の浄眼が“対象”を捉える。蛇女達の手が振り下ろされ、破裂した凶弾が雨あられと降り注ぐ、その間際、


「……麻賀禮(まがれ)」神意が告げられる。


 ――ギンッ!!


 凶弾の射出よりもまだ早い。振り下ろす手の動作にほぼ同期するように、金属を思わせる硬質な唸りを上げて、神の矢は射放たれた。


 語り継がれる神代の世。荒ぶる神達の争闘に和睦を以って綾なす為、高天原より派遣されし男神があった。さて使命を帯びて幾数年、久しく男神は高天原に復するということがなかった。それは如何なる理由からか。事態を闡明(せんめい)せんと高天原からは天照大神の使いが派遣された。果たして、遣使された雉は男神によって無残にも射殺された。派遣された折、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)より下賜された弓、禍をもたらす蛇の毒の名を持った弓によって。


 男神は神命を帯びて彼の地に留まる間に、ある一柱の女神に身も世もあらぬ恋をしていたのであった。しかしそれが当地淹流(えんりゅう)の理由とあっては道理が通らぬ。誓約を違えたものかと、雉を射抜いて天界まで届いた矢を、高御産巣日神は彼の地の男神へと射返した。もしも其が神命を忘れ、その心に邪心あるものならばこれを滅せよ、と。


 果たして射返した矢は寝所の男神の胸に突き刺さり、これを処断した。


 その弓の名は天之麻迦古弓(あまのまかこゆみ)。禍をもたらす蛇の毒を意味し、天之波土弓(あまのはじゆみ)とも呼ばれる、天照大神の(かみのほむら)


 ――反応と作用。神の矢は猶予なく蛇女に“接続”された。


 剛性金属のラインが蛇女の一を貫き、下腹が弾け飛んで霧散する。文字通りの霧となって失せた様態は、女性(にょしょう)の幻。残る四人の蛇女が放った水弾は漸くとその威力を顕し、摩耶の元へと大挙したが……。


 五人の蛇女が仮に全て幻であったとしても、告げられた神意が覆ることはなく。放たれた神威が齎されぬことはない。対象に結ぼれた矢は必ずその胸を射抜くであろう。其に悪心ある限り。


 彼方(あなた)へと消えた神の一矢は、永劫続く神威。それは呪いに等しい。対象の姓名を知り、その特質を把握し、神意を発せられたからには、それは絶対必中の理を持つものでなければならない。


 渡浪の云う右から二番目の女性の背後に、ぷつりと針で通したような穴が顕れ、振り返る暇もない。


 ――乾。


 神は、遠見摩耶は、邪心あるモノに一切の容赦を知らぬ。


 再度、空から射出された矢は“あやめ”の胸を背後から射貫く。


 瘴気が一息に散じ、しじまの結界は打ち破られた。根本を断たれて、あらゆる怪異が消失する。耳朶(じだ)を打つ豪雨の音。全身を雨水に打たれるままに、渡浪と摩耶は沼の入り口に並び立っていた。濡れそぼった黒髪を額にはりつけて、残心する摩耶の両の眼には、未だ消えぬ金色の光芒が陽炎のように揺らめいていた。その様子を横目に、事態の推移を見守ることしか出来なかった渡浪は、曰く言い難い奇妙な表情を浮かべる。一際大きな雷鳴が、上古の沼に轟いた。


 





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